アトヴミャーンの功績 ~ショスタコ万華鏡(2)

 レヴォン アトヴミャーン――その名に聞き覚えがある人は、よっぽどのショスタコマニアに限られるだろう。
 その名前はショスタコーヴィチの作品リストと眺めているとあちらこちらで目につくのだが、だがしかしこのアトヴミャーンという男、どういう人だったのかというとその情報がほとんど見つからないのだ。
 一応かろうじて分かる範囲を書くと、生没年が1901年~1973年というからショスタコーヴィチとほぼ同年代で、同じく作曲家だというが本人がどのような作品を書き残したとかそういうことは全く分からない。ショスタコーヴィチとの関係も、彼の子供であるガリーナとマキシムの聞き書き本である「わが父ショスタコーヴィチ」(音楽之友社刊)に数カ所その名が上がることから、ショスタコーヴィチ家にしばしば出入りしていた事が推測できるぐらいである。

 しかしそんなアトヴミャーンに、ショスタコーヴィチは数多くの自作の編曲を委ねてきた。もっとも目立つのは劇音楽・映画音楽の演奏会用組曲の編纂である。作品リストによると、その数はこれほどになる。

 劇付随音楽「ハムレット組曲 作品32a
 映画音楽「マクシーム三部作」組曲 作品50a
 映画音楽「ゾーヤ」組曲 作品64a 
 映画音楽「若き親衛隊」組曲 作品75a
 映画音楽「ピロゴーフ」組曲 作品76a
 映画音楽「ミチューリン」組曲 作品77a
 映画音楽「ベルリン陥落」組曲 作品82a
 映画音楽「ベリーンスキイ」組曲 作品85a
 映画音楽「忘れられない1919年」組曲 作品89a
 映画音楽「馬あぶ」組曲 作品97a
 映画音楽「五日五晩」組曲 作品111a
 映画音楽「ハムレット組曲 作品116a
 映画音楽「生涯のような1年」組曲 作品120a

 ショスタコーヴィチの生きた20世紀はもちろん映画産業が完全に定着した時代であり、それに伴い数多くの映画音楽が作られたが、いわゆるクラシックの大作曲家が音楽を担当した映画というのはそれほど多くない。もちろん武満徹のように自身が映画狂で、それ故に自ら進んで映画音楽に携わった例もないこともないが、そうした数少ない例外を除けば、ショスタコーヴィチが書いた映画音楽の数はクラシックの作曲家の中では多い方だろう。ただし必ずしも積極的に映画音楽を書いたかというとそうではない。特に第二次大戦後に起こった「ジダーノフ批判」の頃は、その作品がすべて演奏禁止状態になり、新作を書いても発表の場はない。つまりは作曲家としての収入の道は一時的に断たれてしまったのだ。
 そんな中、唯一「お目こぼし」になったのが映画音楽だった。ショスタコーヴィチは生計を立てるため、家族を守るために意に染まない映画(その中にはスターリンを美化し、賛美する国威高揚映画も含まれていた)の仕事でも引き受けざるを得なかった。気が乗らずに書き飛ばした作品もあったろう。だからだろうか、書き上げた映画音楽はほとんど顧みられることはなく、作品番号が振られているのに楽譜の保管もおざなりになっているものもあったようだ。
 なので、現在ショスタコーヴィチの映画音楽が彼が書いたそのままの形で全曲演奏されることはほとんどない。演奏されるのは主にアトヴミャーンによって演奏会用に編纂された組曲のみである。実際これらはコンサートにかけるにはちょうどいい規模を持っているのが多く、アトヴミャーンの仕事がなかったら現在これらの作品の演奏機会は皆無となっていたろう。ショスタコーヴィチの映画音楽は、アトヴミャーンの手によって現代まで生き残れた感がある。

 次にアトヴミャーンの仕事として重要なものとして、4曲にわたって編纂された「バレエ組曲」がある。これはショスタコーヴィチの既存のバレエ音楽・映画音楽・劇付随音楽からいろいろ取り出して編集したもので、この選曲にあたっては当初ショスタコーヴィチの意向も反映されているそうだが、最終的な構成・編曲はアトヴミャーンの仕事だった。
 そしてその取り出された原曲を俯瞰すると、あるひとつの傾向に気づく。ショスタコーヴィチの3番めの(そして最後の)バレエ「明るい小川」からの選曲が異様に目立つのだ。というか「明るい小川」がざっと半分以上を占めるほどで、その偏向ぶりは際立っている。
 一体これはどういうことなのか。推測だが、このバレエ組曲の編纂自体、「明るい小川」復権の意図があったのではないだろうか。

 「明るい小川」は不幸な作品である。20代にして世界的な名声を勝ち得たショスタコーヴィチだったが、その飛ぶ鳥を落とす勢いは30歳を目前にして急ブレーキをかけられる。まずはオペラ「ムツェンスク郡のマクベス夫人」に対し「音楽の代わりの荒唐無稽」が、次いでこのバレエ「明るい小川」が「バレエの偽善」という批判記事が立て続けにプラウダ(ソ連共産党機関誌)に掲載され、作曲活動に支障が出たのはもちろん、この2作品は無期限で上演禁止となってしまった。
 このうち前者に関しては、その音楽的充実(初期ショスタコーヴィチの最高傑作と言っても異を唱える人は少ないだろう)は別として、その前衛的な響きに加え、なにより舞台上であからさまな18禁な場面や殺人を繰り返す内容に、現在でも眉をひそめる人がいてもおかしくはない。だが後者の内容はというと、ある意味他愛もないもので毒もなく、音楽的にも前衛的な部分は影を潜め、明るく生気に満ちたギャロップ調の音楽が横溢している。正直今聴くと「こんな作品になんで文句言われなきゃならないの?」と理解に苦しむほどなのだ。実際批判記事は主にその舞台上の内容に向けられており、音楽そのものはさして批判の対象になっていないのだが、舞台にかけられない以上音楽も同時に封印されることは避けられなかった。
 ショスタコーヴィチもバレエ初演後、10年もの空白期間を置いて自ら「明るい小川」の演奏会用組曲を編んでいるのだが、その組曲は彼の他のバレエ組曲「黄金時代」と「ボルト」に比べて演奏機会が極端に少なく、録音もほとんどない。おそらくはショスタコーヴィチ自身、ほとぼりが冷めて作曲家として完全に復権したところを見計らって「明るい小川」を再度持ち出したのだろうが、おそらく「明るい小川」というタイトルがついている以上、それだけで敬遠されてしまったのではないだろうか。
 しかし音楽自体には罪がない。それで遂には「明るい小川」のタイトルを捨て、無色透明な「バレエ組曲」なる名の許、旧知のアトヴミャーンと結託してその大半を「明るい小川」からの曲で占めることによってその演奏機会を増やそうとしたのではないだろうか。名を捨てて実を取る作戦だ。この偏向ぶりを見ると、どうしてもそう思えてきてしまうのだ。

 実際このバレエ組曲ショスタコ作品のなかでそれなりの演奏機会を持つようになり、またそれによりショスタコーヴィチの認知においても特殊な効用があった。彼の主要作品である交響曲室内楽は総じて重苦しくシリアスな作品が多く、彼の写真がしかめっ面しているものが多いこともあって、どうも眉間に皺を寄せて聴かなくてはいけないようなイメージができあがってしまい、息が詰まると敬遠する人も出てくる心配がある。しかし特にその初期作品を聴けば、生来の彼は必ずしもそれだけではない、軽やかで気が利いて、生き生きとした音楽もたくさん書き残していることが分かるし、後年までその片鱗は消えなかった。それらの曲は現在必ずしも演奏機会に恵まれてはいないが、そんな中にあってこの「バレエ組曲」は彼のそうした面を伝える数少ない格好の題材となっている。

 同様に、アトヴミャーンはオーケストラ曲だけでなく小編成のアンサンブル曲でもショスタコーヴィチのこうした一面を伝える作品を残している。

 フルート・クラリネットとピアノのための4つのワルツ
 2本のヴァイオリンとピアノのための5つの小品

 これまたバレエ組曲同様映画音楽やバレエ音楽から選曲して小編成に編曲したもので、前者は他愛ないものに偏りすぎているかな、と思うが後者は抒情的なものから洒脱なもの、明るいギャロップまでバランスよく構成しており、ショスタコーヴィチの魅力の一端を効率よく伝える名編曲といっていいと思う。

 アトヴミャーンは他にも、残念ながら未聴なのだが、同様にバレエや映画音楽から抜粋・再構成して、「お嬢さんとならず者」なる一編のバレエを作り出しているらしい。いつか聴いてみたいものだ。

 最初に書いたようにアトヴミャーン本人に関する情報は少なく、オリジナルでどのような作品を書いたのか、どのような経緯でこれだけ大量にショスタコーヴィチ作品の編曲を司るようになったのか、ショスタコーヴィチ本人はアトヴミャーンの仕事をどのように評価していたのか、そういったことは一切分からない。もちろん認めてなければこれほどの量を任せなかったろうとは推察できるが、すべてにおいて素直には見れないソヴィエト社会のこと、断定はできない。
 なので実際のその編曲作品からしかアトヴミャーンを評価できないのだが、結果としてなかなか悪くない仕事をしていると思う。そのいくつかに関しては元々の原曲とアトヴミャーンの編曲を比較できるのだが、時として思い切りよく、しかもショスタコ作品として違和感のないアレンジをほどこしているのだ。一例を挙げると映画音楽の中でも特に演奏機会の多い「馬あぶ」に関してはアトヴミャーン編の組曲と、フィッツ=ジェラルドによる全曲復元版との両方を聴き比べることができるのだが、初めてフィッツ=ジェラルド版を耳にした時、聞き慣れた組曲版とはまるで違った印象を与えるので「これ、同じ曲?」とちょっと戸惑った。
(もちろんこちらもオリジナルではなくフィッツ=ジェラルドがどのような風に復元したかもはっきりしないので、その点が不確かなのだが) 例えば組曲版の第7曲「イントロダクション」は弦楽合奏の響きが印象的な曲だが、全曲復元盤を聴くとこのメロディがなかなか出てこない。ようやく18曲目の「ギター」で、なんとギターをつま弾いた曲としてこのメロディが現れるのだ。楽器の違いもあってその印象はがらりと変わっている。
 また、時には別々の曲を合わせてひとつにしているものもある。バレエ組曲第1番の第4曲「ポルカ」は「明るい小川」の第28曲に、中間部は第12曲のメロディを挿入して三部形式に組み上げている。原曲を参照できるものが限られているので検証はなかなか難しいが、アトヴミャーンの編曲は単にオーケストレーションにとどまらず、舞台音楽故の枝葉は適度に落とし、断片的なものは他と結合して、演奏会用作品として座りのいい形式に適度に作り替えているようなのだ。
 今挙げた2曲はさらに「2本のヴァイオリンとピアノのための5つの小品」の1曲目と5曲にも使われているが、聴き比べるとこちらはこちらでアンサンブル用に尺の部分も細部に手を入れていて、臨機応変に作り替えていることが見て取れる。その仕事ぶりはなかなか器用だ。

 こうした改変に、はたしてショスタコーヴィチ本人の意向が反映されているのか、それともアトヴミャーンがすべて取り仕切って行ったかが気になるところだがそれも分からない。でも結果として、アトヴミャーンがこれらの編曲作品を残してくれたことによって、ショスタコーヴィチの作品世界がシリアス一辺倒ではない、小粋で洒落た音楽もあるんだと拡がっていくのを感じる。アトヴミャーンの手によって生き残った一覧の作品により、そうした"重苦しくない"ショスタコ作品も演奏会で取り上げられやすいフォーマットになって多数残される結果になったのだ。

 アトヴミャーンの功績は以外と大きい。