十字架上の最後の七つの言葉

 自分はキリスト教徒ではない。というかイエス キリストの生涯を鑑みても、いわゆるひとつの、世界中に流布する神話と同等の価値しかどうしても見いだせないのだ。この中で語られるイエスが起こした数々の"奇蹟"、これらにしても「実際はどういう事柄だったものが、こういう伝説として伝えられたのだろうか」なんて事を穿って考えてしまうのだ。そんなだから「本当はイエスはどういう人だったのか」ということをSF的に考察して新しい光を当てた「百億の昼と千億の夜」(光瀬 龍/萩尾望都)や「砂漠の女王」(星野宣之)に出てくるイエス像の方が逆に興味津々となってしまう。ちゃんと聖書を読もうと挑戦したこともあったが、冒頭1ページ目の"あれ"のおかげで挫折してしまったきりになっている。
 まぁキリスト教そのものはともかく、一方で聖書に出てくる有名な言葉にしても、ふと「実はこれってすごく深い意味なんじゃないか?」とハッとすることもあって、イエスの言葉も、例えば儒教における孔子の言葉のように、宗教的なことは置いといてひとりの卓越した賢人の言葉として考えれば、また違った価値が出てくるのではないか、という気がしている。
(「求めよ、さらば与えられん」「右の頬を打たれたら左の頬もさしだしなさい」「この中で自分に罪がないと思うものだけが石を投げつけなさい」「神を試してはいけない」 これらの言葉の意味を本当に真摯に受け止めて考えると――すさまじいまでに厳しい言葉のように思われる)

 とはいえこのキリスト教が人類の遺産と言うべき数々の音楽作品を生み出す原動力になったことには感謝の言葉しかない。受難曲やミサ曲、レクイエムといった教会音楽からブルックナー交響曲に至るまで、キリスト教がなかったらおそらく成立することなかっただろうと考えるとぞっとする。自分が信じる信じないに関わらず、これだけは間違いのない事実だ。
 今回はそれらキリスト教が生み出した音楽の中で、ちょっとユニークな存在のものを取り上げたい。マイブーム、というか、かなり前からことあるごとに繰り返し、時にはヘヴィローテーションで聴き続けてしまう、自分にとってそういう存在なのが、ハイドンの「十字架上の最後の七つの言葉」だ。

 元々ハイドンの作品自体は、クラシックを聴きはじめた中学の頃から40余年(^^;、常に好奇心の上位を占めてきたのだけども、この曲は彼の作品全体を見渡してもかなりユニークな存在であり、構成的に特異なこともあって当初はさして興味を呼び起こしてはいなかった。それが、10年あまり前にふと聴きだしたことをきっかけに、いろいろなヴァージョンの録音を取りそろえて取っかえ引っかえ聴くようになってしまった。

 そう、実はこの曲にはいくつものヴァージョンがある。この曲の成り立ちを調べると、まずは1786年、スペインはカディスにある聖クェバ教会から、礼拝時にその儀式をより盛り上げるために、イエスが十字架に架けられた時に発したという七つの言葉に沿って、それぞれひとつづつ音楽を作曲してほしいという依頼を受たところから始まる。ハイドンはそれに応えて、序奏と七つのゆっくりとしたソナタ、そして終曲という9曲からなる管弦楽曲を作曲した。ハイドン自身「10分も続くようなアダージョを、7つも次々と聴かせて飽きさせないように書くことは容易なことじゃなかった」と後に語っているが、序奏からずっと、緩徐楽章ばかりが延々と1時間も続くような構成になっている(それが僕を長いこと敬遠させていた原因だった)のは宗教音楽としても異例であり、現在演奏機会にさして恵まれていない要因にもなっている。
 しかしハイドン自身、それだけの苦労をしただけの価値がある作品ができたという自負があったのだろう、その出来に満足し、かなりのお気に入りだったようだ。その証拠に、その翌年には自らの手で弦楽四重奏曲版に編曲(僕が最初に知ったのもこのヴァージョン)、加えて本人監修によるクラヴィーア版も出版し、さらに10年後の1796年には、いくつか曲を書き足してオラトリオ版にリメイクしている。
 すなわち、この曲にはハイドン自身が関わった5つのヴァージョンが存在するのだ。即ち、
・初演版:まず司祭がイエスの言葉を述べ、それに対してハイドンの音楽が演奏される。
管弦楽版:初演版から、ハイドンの音楽だけを取り出して演奏する。
弦楽四重奏団管弦楽版をハイドン自身が編曲。
・クラヴィーア版:管弦楽版をハイドン監修の元、編曲(編曲者は不詳)。
・オラトリオ版:晩年になってオラトリオ作曲に意欲を見せたハイドンが、この曲を改めてオラトリオに再構成。管弦楽も拡大。
 ひとつの曲を生涯にわたりこれだけ手を加え続けた作品は、ハイドンの数多い作品の中でも他にはない。

 そしてこの曲とともに、イエスが最期に発したという7つの言葉も、この曲を通じて知ることができた。この曲がなければおそらく生涯知ることもなかっただろうこれらの言葉を見ると、なんだかイエスの本音というか生の言葉が垣間見えるような気がして、上記に挙げたような言葉とはまた違った感興が湧いてきます。ハイドンの作曲した曲は、序奏の冒頭からいつになく感情をあらわにした激しさがあり、なにかただならぬものを感じさせてくれます。

1.「父よ。彼らをお赦し下さい。彼らは自分が何をしているのかわからないのです」
 最初の言葉は、なんかまだいつものイエスという感じがします。はたして本当の救世主なのか単なる詭弁家なのか――もちろん後者ということで磔になったのですが、この状況においてなお自分の正しい事を確信し、自信に満ちた言葉です。

2.「はっきり言っておくが、あなたは今日、わたしとともに楽園にいます」
3.「婦人よ、そこにあなたの息子がいます」「弟子よ、そこにあなたの母がいます」
 ここら辺もまだ余裕が感じられます。自分が「神の子」であるという確信からなのか、まるで自分が死から超越していると思い込んでいるようなように見受けられます。ハイドンの曲も、ここら辺まではきびしいなかにもどこかおだやかな抒情性を感じさせる、どこか気品すら感じさせます。

4.「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか!」
 ところがここからどうやら話が違ってきます。今までにない激しさで、どうも初めて、今までの自信に"疑念"が湧いてきたように見受けられます。音楽も、徐々に悲愴感を強めて行きます。

5.「渇く」
 そして急転直下。どうやら状況も極限に達したかのようです。体から徐々に血が失われていって、強烈な欠乏感に襲われたのでしょうか。極端に切り詰められた直線的な言葉が胸を突きます。ハイドンの音楽も実に強烈なインパクトを与えます。執拗に繰り返される弦のピッツィカートに、ついつい血がポタポタと落ちる様を思い浮かべてしまうのですが…。

6.「成し遂げられた」
 この言葉は他に「すべてが終わった」とか「すべて完了した」とか何種類かの訳があるみたいで、それによって受ける印象がかなり違ってくるのですが…。どうやら前言の苦しさを通り越して、(不思議なことに)なんらかの到達点に達したようです。どうもここら辺門外漢には筋が通って見えないのですが――なんというか、マンガの格闘シーンの中で、主人公が絶体絶命のピンチに陥ってもう逃げ場がない!と思われた瞬間、いきなりニヤリと笑って「それを待ってたんだぜ」とうそぶき、一発逆転を図る――そんなシーンを類推してしまいます。
 音楽も、厳しいながらも一種敬虔なおだやかさを取り戻します。

7.「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」
 そして、すべてを超越したかのようなこの言葉を最期にイエスは息を引き取ります。正直腑に落ちない気持ちはあるのですが…。曲は実に充足したおだやかさに満ちています。僕もこの曲まで来ると、なんかほーっと息をつくような感じになります。

 そして、その死の直後、あたりに地震が起こってまわりの人を驚かせたと伝えられています。ハイドンの曲も、終曲として「地震」と名づけられた短い、しかし今までのおだやかさを打ち破るような激しさに満ちた音楽を置き、強烈な印象を残してさっと幕を引きます。


 イエスの最期は、やはり自分には腑に落ちない"謎"を残しています。しかしそれでも――いや、それ故に、か――妙に心にひっかかり、魅力的な題材とも思えるのです。そしてハイドンの音楽が、その気持ちをさらに増幅させてくれます。
 そして、同じ題材で他の作曲家も曲を書き残してくれたら、いろいろ興味深い曲が生まれてただろうな、なんてことを夢想してしまいます。(実際ハイドンの他にも、シュッツ他数人の作品が残されているようですが、間違いなくハイドンが一番のビッグネームですね) 例えば晩年のモーツァルトが書いたら、もっと身を切られるようなきびしい曲になったのではないか、シューベルトが書いたら、ブルックナーが書いたら…。
 おそらく誰が書いてもハイドンとはひと味違うものになったでしょう。ハイドンのこの音楽には、その題材に対してちょっときびしさが足りないようなきらいもありますが、でもその代わり、"パパ ハイドン"の名にふさわしい、慈愛ともいうべきあたたかさを常に感じさせてくれます。

 その特異さ故に実演に接する機会というのは非常に少ないのですが、僕は2015年の「ラ フォル ジュルネ」の際に弦楽四重奏版とクラヴィーア(ピアノ)版を各1回づつ聴く機会に恵まれました。この年のテーマは「PASSIONS」とのことで、"祈り"の音楽が数多く取り上げられたのだが、その範疇としてこの曲も3種類のヴァージョンで演奏されました。(もうひとつ「ハープ版」なるものが演奏されたのだが、これはチケットが取れなかった)
 その中で初日に聴いた弦楽四重奏版(ケラー弦楽四重奏団)は、期待値の高さに反して、会場がデッドだったこともあってどうも散漫な印象を与えるものだったのだが、その翌日に聴いたピアノ版は非常に感動的なステージとなり、今もなお強い印象を残している。
 その当時書いたレポが残っているので、最後にそれを引用しておきます。

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 演目は、個人的に今回一番の目玉であるハイドン「十字架上の最後の七つの言葉」の今度はピアノ版。曲目だけで選んだので、演奏するジャン=クロード ペヌティエという人はまったく知らなかったのだが…。
 座る席はきのうよりも後ろの方になったので、よりステージを見下ろす観が強い。ステージに置かれているのはピアノ1台のみ。照明の幅もより狭くなり、きのうよりさらに深遠さが増しているように見えた。
 登場したペヌティエ氏はかなり恰幅のいい初老の男性だが、ステージに上がってもピアノに座ろうとしない。そのそばに設置されたマイクの前で足を止めると、何かを繰りながら訥々としゃべり始めた――。
 これは――。オリジナルの形で上演しようというのか! この曲は元々スペインの教会からの依頼で、イエス磔刑に処せられる際に発した7つの言葉に基づき、司祭が語るそれに合わせるように7つのソナタ(+序奏と終曲「地震」)が作曲されており、初演時にはその通り、まず司祭が説教をし、それに続いて音楽が演奏されたという。普段演奏される際はもちろん音楽だけになり、現にきのうの弦楽四重奏版もその通常形態での演奏だった。僕もこのオリジナル形態での演奏はCD1種類でしか聴いたことがない。それをピアノ版でやろうというのか…。

 キリスト教には詳しくないので、ここで語られる言葉についても、まぁ受難曲のように、新約聖書の中から抜粋されたものなんだろうな、ぐらいのことしか分からない。しかしその語りは朴訥ながらも確信に満ちて心に届く。幸い後ろの壁に日本語訳が随時投影されるので意味も分かるし、これから始まるものが通常のコンサートではない、なにか特別な式典である事を感じさせた。
 そして一通り語り終わってからおもむろにピアノに向かい、振り下ろされた腕から響きだす序奏の第1和音、その瞬間からこの場の空気ががらりと変わった。彼の作り出す音楽はまっこと真摯ですべての華燭を去り取り、中身だけをそのまま取り出したかのように直接こちらに響いてきた。決して一本調子にならずそれぞれのフレーズにきめの細かいダイナミズムがつけられていて、それが、まさしく洞窟の奥から一条の光のように聴く者にひとつひとつ語りかけられていった。

 1曲弾き終わると再び立ち上がってマイクに向かい、次の言葉を語り出す。語り終わるとピアノに向かい次の曲を…。ステージの上は彼ひとり。譜めくりすらすべて自分で行い、小さなスポットライトの中にすべての世界が充足して収められていた。
 聴き進むうちに、今、自分がすさまじい体験をしているのだと確信した。イエスの受難の物語と言うのは、正直自分にはあまり宗教的な感覚はない。ただ、一人の男が受けたすさまじいドキュメンタリーとして感じ入ってしまう。そして今目の前で展開されているそれは、まるでバッハの受難曲で受ける感興に勝るとも劣らないものがあった。ほとんどたったひとりの人間によってそれが作り出されているとは信じられないほどに。
 おそらく彼はこの形での演奏を何度となく繰り返しているのだろう。語りにも、それに伴う演奏にも一寸の隙もなく、よどみなく、すべて意味を持って執り行われている。そして会場の"洞窟の底"効果が聴く者の集中力を更にいや増し、会場のテンションを極限にまで引き上げていた。第4、第5、第6と言葉が進むにつれて言葉も音楽も徐々に緊迫感をましていき、そして遂に第7。ここにきて音楽は不思議とおだやかな充足感を増し、あふれるほどの感情に包まれる。続く終曲、ここで初めて言葉を経ずに連続して流れ込み、叩きつけんばかりの強烈な音響の中、幕を閉じる――。
 最後の1音が鳴り響いて消えた後も、数秒の間完全な沈黙が会場を支配する。次の瞬間どっと堰を切ったように拍手が始まり、一旦始まると今度は容易には鳴りやまなかった。
 僕自身、間違いなく今回のLFJの白眉だ、これを超えるものはちょっと想像できない、と確信した。この事がたった一人の人間によって現出したことがちょっと信じられなかった。ジャン=クロード ペヌティエ氏、彼はたったひとりでイエスの受難をすべて表現しつくした、最上のエヴァンゲリストに違いない。申し訳ないが、きのうのケラー弦楽四重奏団の演奏とは次元が違っていた。
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 終わってすぐ、この人が演奏した「十字架上の最後の七つの言葉」のCDが欲しい!とCD売り場に駆け込んだのを憶えている。しかし見つからず、後に検索しても録音は残していないようだった。残念なことだ。でも6年経った今もなお、あの素晴らしい時間を追体験したい、という気持ちが消えないでいる。