ザンクトフローリアン効果

 ブルックナーの音楽は人によって好き嫌いがはっきりしているようで、受け入れられない人にとっては頑としてどこがいいか分からないらしい。「面白くない」「魅力が感じられない」とはっきり言う人もいる一方、最上の音楽としてあがめ奉る人もいる。なんというか、裸眼立体視のようにその魅力がぱっと観れる人がいる一方で、どうやって観ていいか見当がつかない、という人がいるようだ。

 僕の場合、中学時代にクラシックを本格的に聴き始めて間もなく、FMから流れてきた交響曲第9番を初めて聴いて、いきなり雷に打たれたような衝撃を受けて以来、すぐさまその魅力にとりつかれてしまったクチだった。以来今に至るまで、なんというか、他の作曲家とは違う特別な存在として心の中で常に位置づけられてきた。その気持ちは年齢とともにいや増すほど。若い頃はマーラー交響曲に驚嘆したりもしたが、徐々にそのケレンの利いた劇場型なところが鼻についてきたのとは対照的に、一種"聖なる存在"として存在感を増していっている。

 当然いろんな演奏に接してきた。当初ブルックナー指揮者として真っ先に名が上がっていたのはオイゲン ヨッフムで、初めて買った全集も彼の旧盤(ベルリンフィルorバイエルン放送響)のものだった。それからさらに当然のごとく朝比奈隆の数々の演奏に接し、少し遅れて評判になったギュンター ヴァントのCDも聴き込むようになった。

 しかしこうしていろいろな演奏を聴き比べるうちに、どの演奏にもどこか不満が出てくるようになった。たいがい、最初に聴き込んだ演奏が刷り込まれて他の演奏が受け容れ難くなることがしばしばあったのだが、ブルックナーに関してはいろいろ聴き込むほどに「ここはこうしない方がいいんじゃないか」「こうするとブルックナーの音楽が台無しになるな」といういっぱしの意見が芽生えてきてどの演奏にも不満が出てくるのだ。

 その不満は最初に聴き込んだヨッフムの演奏に顕著だった。彼の演奏では曲が盛り上がるほどにどんどんアッチェルランドする傾向があり、しかも晩年になるにつれてその特徴が顕著になっていった。音量が増しクライマックスに近づくほどにテンポが上がる。そうすることによってブルックナーの音楽がどんどん矮小化していくようにしていくように思えてならない。クライマックスほどテンポキープしなければその音楽の幅広さが保てず世界が小さくなっていくのだ。全集でも旧盤ではまだその傾向は多少気になるほどだったが、ドレスデン シュターツカペレとの新盤ではどんどんあからさまになっており、とても聴いていられなくなって遂には手放してしまった。

 朝比奈隆の演奏も、徐々に所謂"朝比奈節"とも言うべき緩急の付け方が鼻につくようになってきて、なおかつやっぱりヨーロッパの一流オケに比べると大阪フィルではアンサンブル精度にかなり不満が残る。実演ではそこまで感じなくても、それをライヴ録音したCDを聴くと、同じ演奏なはずなのに粗が目についてしまうのだ。結局氏が亡くなってしばらく時間が経つにつれ、徐々にその演奏から離れていった。朝比奈を終生評価し続けた宇野功芳が生前「朝比奈にベルリンフィルなどヨーロッパの一流オケを振らせてみたい」と何度となく言っていたものだが、結局実現したのはシカゴ交響楽団との第5番ライヴ1回きりだった。そのシカゴとの演奏も、そうなってみると朝比奈節が一層引っかかってくるので例えベルリンフィルを振っても結果がどうなったかは分からない。

 ヴァントもその精緻な音楽作りで至高のブルックナー指揮者として一世を風靡して、実際素晴らしい演奏と思うが、それでも僕がイメージする最上の音楽とは違うものだった。これに文句をつけるのはいちゃもんの類いでないかとは思うのだが、ちょっと細部にこだわりすぎていて、もうちょっと音楽を大きくつかんでほしいと思ってしまう。

 同じような意味で、チェリビダッケブルックナー演奏も、その細部まで顕微鏡を当てるようなミクロな表現力には驚嘆するし、それを最後まで貫き通す意志力には唖然とするが、これでブルックナーの音楽を聴き通すのは正直疲れる。それにブルックナーに限らないが、彼の晩年の演奏は、ものすごいけども一方でその超スローテンポ故に、そのテンポ感故の推進力を犠牲にしていることは否めなく、それ故にちょっと特別枠としてしか評価しづらいところがある。

 と、いろんな大指揮者に対して文句ばかり連ねてしまったが、それだけブルックナーの音楽というのは微妙な所があるのだと思う。そんなちょっとしたことで損なわれるような魅力ならば大したことないのだろうとアンティからは言われかねないけども、本当にいい演奏に出会った時の多幸感は他に比類がない。最近の演奏では、尾高忠明の演奏するブルックナーには今では朝比奈隆以上の素晴らしさを感じたし(是非組織的に聴いてみたい)、小泉和裕の指揮ではそのキビキビとした音楽作りに、それこそベルリンフィルのようなヨーロッパの一流オケを振ったらどれほどのものができるだろうかという可能性を感じる。特に小泉は活動の場が国内に限られているようなのがすごくもったいなく感じる。

 また最近知って意外な発見だったのが、クルト マズア/ライプツィヒ ゲヴァントハウス管弦楽団による全集が思いの外素晴らしかったことだ。マズアに関しては日本での評価が微妙で、政治力だけでゲヴァントハウスのカペルマイスターに居座っただけで指揮者としては凡庸だとかの評判を耳にしたことがある。確かに強烈な個性はないがゲヴァントハウスの伝統を引き継いでじっくりと高めた力量を確かに感じさせてくれると思う。ベートーヴェンシューマンメンデルスゾーンといったドイツの正統的な音楽表現者として王道といっていい魅力的な演奏を数多く残している。ブルックナーについてはそれほど期待していなかったが、いざ聴いてみたら決して奇をてらわず、しかし非常に素直な音楽作りをしていて、図らずもブルックナーの魅力を理想的に現出している時がしばしばあった。それにこの頃のゲヴァントハウスの音は実に魅力的だし。特に5番や8番は正直文句のつけようのない名演だと思う。一方で9番に関してはマズアが珍しく妙なやる気をだしてしまったが故に(^^;変にねじくれた表現になってしまっているなど、曲によってはあまり評価できないものもあることは確かだが。

 そんな中、ゲルギエフが手兵(当時)ミュンヘンフィルによるブルックナー交響曲全集を完成させた。ミュンヘンフィルといえば古くはクナッパーツブッシュにケンペ、そして前述のチェリビダッケブルックナーに関しては過去に数々の名演奏を残しているオケではあるが、ゲルギエフはそれほど好きな指揮者ではないし、またブルックナーを演奏するイメージが全くなかったので特に期待はしていなかった。ただこのオケで注目すべきポイントだったのは、全曲ザンクトフローリアンによるライヴ録音だったことだ。

 ザンクトフローリアンと言えば、ブルックナーにとっては生涯に渡って様々な関わりを持ち続け、死後、その地下墓所に埋葬されることになるという、ファンにとっては聖地とも言うべき場所だ。さらには朝比奈隆がこの場所に於いて交響曲第7番を演奏し、そのライヴ録音は今も名盤として語り継がれている。僕もこれを聴いた時、大阪フィルの音が普段とは別次元と言っていいほどつややかで、そして蕩々と流れる音楽に心底魅せられてしまった。朝比奈のブルックナーをあまり聴かなくなった現在でも「ザンクトフローリアンのブル7」と言えば僕の中で格別な存在として輝き続けている。
 そのザンクトフローリアンで全曲録音した全集というのは今までなかったと思う。そんなことで気になったところへ、たまたまBSでその中から1番と3番が放映されるというのでちょっと聴いてみることにしたのだ。
 聴き始めてすぐ唖然とした。ブルックナーの音楽がなんと魅惑的に響き渡ることだろう。テンポに関しても決してあわてることなく泰然自若として弛緩することなく流れていく。これは…聴かねばなるまい、と全集CDを注文して購入した。

 そうして全9曲を聴いてみた結果――どの曲も、これほど申し分ない全集なんて聴いたことがない。個別に「○番」とピックアップすればこれを上回る演奏はあるかもしれないが、全集としてトータルで観た場合、全曲どれをとっても最高水準であり、いや、ゲルギエフにこういう演奏ができるだなんて申し訳ないが予想してなかった。
 その特徴をひとつ挙げるとすれば、前述の「音量が増しクライマックスに近づくほどにテンポが上がる」ことが一切ない。よく聴けば微妙にテンポが速まる部分もあるが、ほとんど気にならない程度であり、それによりその音楽が矮小化することなく、その大伽藍のような巨大さがいやが応にも現出する。それにしてもザンクトフローリアンで奏でられるその音色はなんと芳醇なことだろう。今さらながらだが、ミュンヘンフィルというオケが持つ音の魅力というものにも気づかされ、このオケの演奏をもっといろいろ聴きたくなってきた。
 そしてこの演奏の特徴を引き出している理由のひとつに、このザンクトフローリアンの持つ響きがあるように思えてならない。教会によくあることだが、その残響の長さは群を抜いている。よくホールの残響の理想は2.1秒と言われているが、ここは明らかにそれより長い。おそらく3秒以上あるのではないかと思われる。この全集を聴いてて、音がポンと響いて止まった後、その残響がたなびくようにかなりの時間響き続けていることが録音からでもしっかりと聞こえてくる。これだけ長い残響だと、ざくざくと進んだら前の音が消える前に次の音が鳴ってしまい、お互い混ざって濁ってしまう危険がある。そっか…。だからアッチェルランドすると音がどんどん混ざって雑多になってしまい、それ故にしたくてもできなくなるのだ。結果として前の音がある程度消えるまでは無理に先に進まないよう、自ずとブレーキがかかってその響きが濁らないよう自然にテンポが抑えられる。結果、この悠久迫らぬ音響の大伽藍を造り出すことが無理なくできるのだ。

 ゲルギエフが他の場所で演奏したブルックナーを聴いたことがないのでこれが元からの彼の解釈なのかは判断はできないが、少なくとも彼も世界有数な指揮者としての耳は持っている。この場所に見合った速度、というのをしっかりと把握した上で自ずとこのテンポになったのではなかろうか。朝比奈隆の演奏が、他の場所での演奏とは別次元となったことからも、そうなることは充分考えられる。
 長年オルガニストとしてブルックナーがここザンクトフローリアンの響きの中に浸っていた事を考えると、作曲するに当たってもその響きを前提としていつしか考えていたことはありえないことではないだろう。そのように考えると、ザンクトフローリアンの響きはまさにブルックナーの音楽を自然とあるべき姿に作りだしてしまう「ザンクトフローリアン効果」と言うべきものがあるような気がする。