至高のヴィオラソナタ ~ショスタコ万華鏡(1)

 いきなり素っ気ないピッツィカートの音型でそれは始まった。一見単純この上ないのになぜか奇妙な浮遊感があり、程なくピアノの不思議な和音が加わることによってその浮遊感はますます際立っていく。どこに向かうのか分からないまま心の根っこから引き釣りこまれて、それまでまったく予想だにしなかった世界に連れていかれるような感覚があった。そのうちヴィオラがはるか上方からトレモロで次第に下降していくのを聴くうちに、なんか自分がどこにいるかようやく分かったような気がした。あ、これは"この世"から離れ"彼岸"に向かう端境をたゆたっているんだ、と――。

 この曲、ショスタコーヴィチヴィオラソナタを初めて聴いたときの摩訶不思議な感触は今も心のどこかに残っている。中学時代、俄然クラシック音楽にとりつかれた僕は、当時の音楽愛好家の常道としてFMラジオにかじりつき、番組表と首っ引きで目につく曲を手当たり次第にエアチェックしていってむさぼるように知っている曲を増やしていった。そうしていっぱしのクラオタ(当時はそんな言葉なかったが)ができあがっていったのだが、そうする内に、全く初めて聴く曲に対してまさしく雷に打たれたような衝撃を受けてラジオの前で固まってしまったことが中学時代に3度ほどあった。そのいずれも鮮烈に憶えているが、その1曲目はバッハの「マタイ受難曲」、2曲目はブルックナー交響曲第9番、そしてもう1曲が、このショスタコーヴィチヴィオラソナタだった。後の2曲は多くの人が認める著名な名曲であり、熱く語る人には事欠かないだろうが、このヴィオラソナタに関しては、知っている人は現在でもショスタコーヴィチをかなり聴き込んでいる人に限られ、語られることは少ない。

 しかも僕がこの衝撃を受けたのは1970年代末。当時の日本ではショスタコーヴィチといえば交響曲第5番と「森の歌」がかろうじて知られているぐらいで演奏される機会もほとんどなかった。確か僕もそれまで交響曲第5番をかろうじて耳にしたぐらいで、それも冒頭の弦の激しさにちょっと恐れをなして最後まで聴き通せなかったぐらいだ。ましてヴィオラソナタの作曲は1975年、なんとできてからまだ数年しか経っていない新曲だった。
 そんな状態の僕がいきなりこれほどの衝撃を受けてしまったのだ。とにかくそれまで聴いていたクラシック音楽とは明らかに違う音楽世界がそこにはあった。なんだかよくわからないがその時録音したテープをとりつかれたようにに何度も聴きまくり、それは心の奥深くにしっかり刻み込まれていった。第1楽章は冒頭に書いたように現実世界と彼岸の間("三途の川"というとちょっとニュアンスが違うのだが)を漂っているように続く。第2楽章は一転して諧謔に満ちたスケルツォ。非常に機知に富んでいるのだが、なんだか滑稽な仮面をかぶって踊っていて本当の顔は一切見せないかのような腑に落ちなさをどこかに残している。(大分立ってからこの曲が未完に終わったオペラ「賭博師」から改変されたものであることを知り、しかもどちらもまるでこっちがオリジナルだとしか思えないような板につきっぷりなので別の意味で驚いた) そして第3楽章。全体の半分を占めるようなアダージョだが、ここでは冒頭から静かな歌が感じられ、それは次第に力を増し、抑えても抑えきれない感情の昂ぶりが遂には耐えがたい哀惜の歌を絶唱するかのようだった。しかし徐々にそれは鎮まりを見せ、不思議なぐらいの充足感を湛えながらいつまでも、いつまでも名残惜しそうに(最後の1音はいつ終わったのかわからないぐらいに)消えていく。

 聴いているうちに、なんとなくこれは「お別れの曲だ」と思った。ところがこの曲がショスタコーヴィチの最後の作品であり、なんと亡くなる3日前に完成した!(※)と聞いた時には心底驚いた。本当にこの世にお別れを言うために書かれたのか、と。
 ※当初はそういう話がまことしなやかに言われていたが、実際には死の約1ヶ月前に完成されたことが分かっている。ただしこれが彼の最後の作品であることには間違いはない。

 この曲をきっかけに僕はショスタコーヴィチの作品をとりつかれたように聴き始め、当初は聴き通せなかった交響曲第5番も何度も何度も繰り返し聴くようになり、次第にその魅力の虜になっていった。とはいえ当時日本のショスタコーヴィチ受容はまだまだ遅れており、聴く機会はほんと限られていた。FMでもかかることはまずなかったので、限られた資金で中古レコード屋をまわって集めたりしたが、当時は交響曲全集も弦楽四重奏曲全集も1種類づつしかなく、収集は遅々として進まない。結局交響曲全15曲をすべて聴けたのは大学を卒業する頃だった。この頃になってようやく「マーラーの次はショスタコーヴィチだ」と各レコード会社が注目し始めて、一気に発売点数が増えたのを憶えている。

 そうしていっぱしのショスタコマニアができあがっていたのだが、そのきっかけがヴィオラソナタだというのが自分にとってはひとつの財産になったと思う。初期にも中期にもそれぞれすばらしい作品が目白押しなのはもちろんだが、ショスタコーヴィチのもっともかけがえのない、至高の作品は、晩年の数年間、特に室内楽にあることに最初から目が行くことになったのだから。

 その生涯を追うと、なんだかショスタコーヴィチの作品はこのヴィオラソナタに向けて収斂していくようにすら思える。20歳の時に発表した交響曲第1番でいきなり世界的な成功を収めて、若き天才作曲家として広く世に認知されたショスタコーヴィチは、その後スターリン政権下において、有名だからこその苦難を長年にわたり背負い続けることになり、おそらくその多大なるストレス(とそれに伴う飲酒・喫煙)もあったのだろう、50歳を過ぎた頃から手足の麻痺に悩まされるようになった。その麻痺は進行性であり、晩年には生活にも支障が出るほどになっていた。(彼が長年にわたって苦しむことになったのがいったいなんの病気だったのか資料がなくて長いこと分からなかったのだが、その子供(ガリーナ・マキシム)の証言によると、どうやら成人してからポリオに罹ったらしい) 最後の頃には腕の麻痺で五線紙を書くことすらおぼつかなくなるほどだったが、それでも必死に指を動かしながら作曲するのをやめようとしなかった。
 しかしこの麻痺は彼の作風にも変化をもたらした。元々彼の作品は饒舌と言っていいほど音が多い傾向があったが、指が動かなくなるにつれてあふれ出る楽想を書き飛ばすことができなくなり、徐々に音を節約し、必要最低限な音のみで構成されるものに変わっていった。それとともに時折冗長になる悪癖もなくなり、まさしく余計なものがすべて削ぎ落とされ、研ぎ澄まされたような音楽に変わっていったのだ。
 ヴィオラソナタ作曲時にはまさしくひとつの音譜を書くにも多大な労力がいったらしい。自筆譜には、最初に書いた音譜をなぞるように書き直した跡があちこちにあるという。ままならない指を必死に動かしながら、それでも非常な集中力を持って魂を削るように書き記した音楽、それがこのヴィオラソナタだった。

 そのようにして、まさしく「白鳥の歌」と呼ぶにふさわしく完成したこの作品、ショスタコーヴィチ全作品の中でも特別な存在になったと思う。膨大なショスタコ作品の中でも「どれかひとつを」と訊かれれば、自分は間違いなくこのヴィオラソナタを選ぶだろう。実のところ、自分の葬式の時にはぜひともこの曲の第3楽章を流して欲しい、そう考えている。それほどまでに、この世のお別れにこれほどふさわしい曲は他に浮かばないのだ。