気がつけばそばにいた~筒美京平の音楽

 筒美京平が亡くなった…と聞いてもその時は特に感慨はなかった。
 そういえば最近とんと名前を聞かなかったなぁ…そんな感じで、80歳、そんな年だったのか、との事実をただ飲み込んだだけだった。

 しかし以降TVでは彼の作曲した歌の数々のついて取り上げる特集が相次ぎ、そのヒット曲を紹介されるにつれ、やはりじわじわと感興が湧いてきた。(そうか、これも筒美京平だったのか)(え、これも!?)と改めてその業績を思い知らされる。中でも一番驚いたのは「サザエさん」主題歌が彼の作品だったと言うことだった。

 「ブルーライトヨコハマ」「また逢う日まで」ここら辺は自分が物心ついた頃に自然と耳に入ったヒット曲なのでその頃の刷り込みがすごいのだが、これらは彼の作曲家としてのキャリアの最初の方を飾った作品だと分かる。
 それから、「17歳」「わたしの彼は左きき」「私鉄沿線」「ロマンス」「東京ららばい」「魅せられて」「卒業(斉藤由貴)」「なんてったってアイドル」…。よくぞここまで、と思うほどの思い出深いヒット曲が並んでいる。どの歌もキャッチーなメロディと印象的なサウンドでついつい耳をそばだたせてしまうものがある。
 個人的には「雨だれ」「木綿のハンカチーフ」「最後の一葉」といった太田裕美の曲が感慨深い。どれもしっとりとした叙情性の内に強靱な力強さを併せ持っており、そのアコースティックな響きとともに心に深く刻み込まれる楽曲だった。

 こうして並べられるとその数・幅・時代ともに振り幅の大きさに改めて目を瞠るが、逆に言うと「筒美京平らしさ」「筒美京平ならでは」といった作家性というか個性というものは不思議なぐらい希薄なのだ。日本のポピュラー作曲家というと僕は以前から いずみたく の作品を偏愛しているが、筒美作品には いずみたく のような一本芯の通ったものが良くも悪くもない。むしろ作品ごとの多様性が顕著で、全般的にポップで軽快な曲が多いという傾向こそあるものの、ちょっとひとりの作曲家の業績とは結びつけられないのだ。
 彼と同時代に活躍した歌謡曲の作曲家というと、平尾昌晃・宇崎竜童・都倉俊一といった人達が思い出されるが、これらの人と比較して、筒美京平の名前はよく聞いてたのに人となりはまったくといっていいほど思い浮かばない。上記3人は歌手として、また審査員としてTVへの露出もけっこうあったが、彼はまったくといっていいほどTVには顔を出さなかったのだ。つまり主役は歌手と割り切り、自分は裏方と徹してたといっていい。

 先頃NHKスペシャルで「筒美京平からの贈りもの 天才作曲家の素顔」と題された番組が放映されて、それを観て気づかされたのが、類希なる音楽センスを持ちながら、それを前面に出そうとすることを潔しとしなかったことだ。むしろ自分を出すことを極力戒め、「名曲」を作ろうとはせずただひたすら「ヒット曲」を追い求める真摯な姿勢がうかがい知れた。そのために時代や流行を敏感に感じ取り、「今何が売れるか」に常に目を光らせる。その姿勢はキャリアを積めば積むほどより謙虚になった。番組中で特に目を惹いたのはC-C-Bのデビュー曲「ロマンティックが止まらない」に関して起こった2点だ。まずは元々バンドのメインヴォーカルではないドラムの笠浩二をヴォーカルに選んだこと。確かに彼の声質は非常に耳に引っかかるものを持っている。そしてレコーディング中、笠がメロディの一部を譜面通りでなく、勝手に変えて歌ったのを採用したことだ。当時筒美京平といえば泣く子も黙るビッグネーム、対して笠はこれからメジャーデビューしようという新人、力関係は歴然としている。普通の作曲家ならば頭ごなしに否定されただろう。しかし筒美京平は"若者の感性"を信じて改変を受け入れた。
 どちらがメロディとして優れているか、僕は改変後のものが頭に焼き付いているので冷静な判断はできないが、彼の中ではそんなのは無意味なのだろう。なぜなら「ロマンティックが止まらない」は大ヒットしたのだから。

 その他、正直歌唱力が未熟なアイドルの作品を数多く手がけた事も特筆すべき事項だ。70年代から80年代にかけて、確かにアイドルとしては成功したがその歌声は…という人が指折り数えるほど存在し、しかも筒美作品によって大ヒットを飛ばしている。「赤い風船」「センチメンタルジャーニー」「スニーカーぶる~す」…。これらの人達の曲を書く時、しばしば直接呼んでレッスンをほどこし、その声が生きる所を的確に見抜き、彼ら・彼女らの声が最大限生きる曲を"当て書き"することができたのだ。確かにこれらの曲は、その人が歌うと独特の魅力を発している(逆に他の人が歌うとピンとこない)。これぞプロの仕事と言うべきものだった。

 しかしこの徹底したプロ意識は成否を併せ持っていた。昭和歌謡界をあれほど席巻した筒美京平が、時代が平成に変わるとともに不思議なぐらい目立たなくなったのだ。その理由のひとつは、70年代のフォーク・ニューミュージック隆盛の頃からその芽はあったのだが、平成の初めに起こったバンドブーム以来たとえ未熟な面があってもそのアーティストの個性が尊ばれるようになってきて、「プロの仕事」は必ずしも尊重されなくなってきたことが挙げられる。アマチュアがメジャーデビューする敷居も低くなっていき、自作自演も当たり前になり、間口の広まりとともに新たな才能も見いだされるようになる。そうした時代の変化とともに、筒美京平の才能は次第に行き場を失っていったのだろう。なんでも万能に手際よくこなしていく手腕よりも、逆に小室哲哉のように、何を聞いても小室と分かるような個性の方が受けた。なによりこれらの台頭により、筒美京平の主戦場であった歌謡曲の世界そのものが希薄になっていったのだ。代わりに「邦楽」だの「J-POP」なんて呼ばれるようにつれて、筒美京平は完全に行き場を失っていったのだろう。ここで、それこそ「筒美メロディ」なんて呼ばれるような特徴があったらまだ活躍の場は残されていたかも知れないが、今度はその多様なプロの仕事っぷりが逆に足かせになっていった。彼の音楽センスは元々非常に柔軟性に富んでおり、自分を前面に出すよりも外部からの刺激を受けてそれを取り入れ、自家薬籠中の物とすることによって新しいものを生み出してきた面が強い。それが作曲の依頼が滞ることによってその外部刺激そのものが減少し、それが結果的に彼の作曲活動そのものを低調化させてしまい、かつてはうまく回ってヒット曲を量産できたサイクルが逆に負のループへと陥っていった。
 そうして、作曲活動という面では必ずしも恵まれない晩年となってしまった。

 ヒット曲を書くことを第一義とした作曲家人生、ヒット曲を生み出せなくなった晩年、彼はどんな思いでいたかはもはや預かり知れない。しかし彼にとっては意外なことだろうが、その作品は残っている。TVのいくつかの追悼企画の中で、「木綿のハンカチーフ」が特に取り上げられる例が複数あったが、確かにこの曲は今見ても非常に画期的なものだった。当時メロディが先に作られることが多かったこの世界で、この曲は松本隆の詞が先に作られ、後から筒美京平が曲をつけた。しかも松本隆があえて曲がつけにくいような構成(前半が男性が語り、後半がそれに対する女性のアンサー)で書き上げ、そのため筒美も最初かなり苦労したらしいが、それを乗り越えたことによって非の打ち所のない名曲になった。
 そう、筒美京平自身は必ずしも歌い継がれる名曲など狙ってなかったかも知れない。しかしその類希なる音楽センスを持って書き上げられた楽曲は、結果的にしばしば時代を超えて生き続けていった。
 筒美京平という名前は知られていた。そして彼が作った歌も数多く今も生命を保ち続けている。ただその両者がしばしば結びつかなかっただけで、ふと気がつくと自分たちが筒美京平作品になんと囲まれて生きてきたのか、と思い知らされてしまうのだ。このことこそ、彼にとって一番の勲章だったのかもしれない。