"スター"のまばゆさ ~山口百恵ラストコンサートを観て

 '70年代に少年期を過ごした自分にとって、山口百恵は特別な存在感を持っていた。

 別段ファンだったわけではない。コンサートはもちろんレコード(当時)を買ったこともなく、ただ単にTVに出てるのを観ていた程度だが、なのに年を重ねるごとに芸能界での存在がどんどん大きくなっていくのをリアルタイムで感じていていつしか唯一無二の存在になっていた。
 もっともデビュー当時はそれほど目立ってた訳ではない。というか同時期のアイドル歌手の中ではむしろ目立たない方にいたと思う。一応「花の中三トリオ」のひとりとして名は通っていたものの、当時から傑出した歌唱力を持っていた森昌子・アイドルらしい天真爛漫な輝きにあふれた桜田淳子と比べると、どこかおとなしめで地味な印象を与えた。
 それが少しして「禁じられた遊び」「ひと夏の経験」といったちょっと思わせぶりな歌を発表し、その優等生的なイメージと歌の内容とのギャップが逆に鮮烈で、他の2人にはない独自の立ち位置を確立していった。

 しかしそれはまだ助走段階にすぎない。「横須賀ストーリー」に始まる一連の阿木燿子・宇崎竜童コンビの歌を歌うことにより、それまでのアイドルの枠をすべてぶち壊すような独自の存在へと変貌していくのだ。なにより「プレイバック part2」は衝撃だった。あんなドスを効かせた("シャウト"なんて言葉、当時の中学生は知らなかった)歌い方、途中完全無音の間("ゲネラルパウゼ"なんて専門用語、当時の(以下同文))を配して緊張感を高める作曲技法、そのすべてが新鮮だった。それからはもう向かうところ敵なし、当時のアイドルすべてを飛び越して"特別な存在"になっていった。

 そしてなにより、こうした絶頂期においての結婚・引退発表。そして本当にラストコンサートを最後に表舞台からすっぱり消えてしまったのだ。当時の記者会見で「三浦友和の"女房"になりたい」と言っていたのが印象に残っているが、ほんとうにその去り際の鮮やかさは他に例を見ず、それ故に逆に彼女は"伝説"になった。

 閑話休題。その伝説のラストコンサートの模様が、この前いきなりBSで放映された。確かその当時もこのライヴはTVで生中継され、その最後の方だけちょっと観た憶えがあるのだが、なんだろう、放映されると知った途端そうした一切合切の記憶がいろいろ押し寄せてきて、1回ちゃんと全部観てみようという気になったのだ。
 なので録画の上、最初からじっくりと、時折巻き戻しながら再生してみた。

 

 なんだか開始直後から異様な空気が漂っているのを感じる。もう40年も前の映像と聞いてその年月に驚くけども、録画映像を観ているだけでなんかその時代に逆戻りしたかのような妙な臨場感があった。インストゥルメンタルのイントロダクションの後登場した山口百恵は、肩の辺りが大きく膨らんだ金色の衣装を着てアイドルアイドルっぽく、当時の彼女のイメージからすると若干違和感がある。最初の数曲は正直知らない曲が並んでいて、今回の放映の前に放送された紹介番組で「横須賀三部作」なんて言及されてたけども、「横須賀ストーリー」以外知らんわ!とちょっと開き直って聴いていた。なによりまず驚いたのは「プレイバックpart1」。いや、「あ、やっぱりpart1ってあったの!?」という新鮮な驚きだった。「part2」は誰でも知ってるが、2というからには1はあるのか、なんて当時ちょっと引っかかってたことを思い出す。そんな疑問はいつしか忘れてしまったけど、それが今いきなり氷解したのだ。
 にしても最初の数曲を聴いただけでも、曲間のMCを含めてこのコンサートがいかに細かいところまで作り込まれているかがひしひしと伝わってくる。バックバンドは奥の方に一段低いところに目立たないよう配置され、曲によってはバックダンサーが入るものも数曲あったが、基本的にステージ上には山口百恵ひとりだけが立っているような感覚なのだ。武道館を埋め尽くした数万の観客を前に、たったひとりでまったく物怖じすることなく余裕すら感じさせて相対するひとりの女性。曲間MCの一言一言まで、事前に考え抜かれて準備されていることを感じさせる。そこには場当たり的なものは一切見当たらない。一本芯の通った凜としたものがにじみ出ていた。これが当時21歳の女性だという事実が、今となってはにわかに信じがたい。昨今のアイドルグループのライヴにはおそらくこういったものはないだろう。曲間MCなど、むしろ即興的な、素を感じさせるもののほうが自然体でいいと思われている節がある。それはそれで魅力はあるけども同時にそれは隙を作り"緩さ"にもつながりかねない。時代もあるだろうが、ここにはそうした"緩さ"を一瞬たりとも許そうとはしない覚悟すら感じさせた。

 その「プレイバックpart1」に続いて「プレイバックpart2」を歌い始めてからステージは一気にアクセルを踏み込んで加速する。以降「絶体絶命」「イミテーション ゴールド」といった阿木・宇崎コンビによる、まさしく彼女の代名詞とも言うべき後期のヒットソングを続けざまに歌い続ける。当時「つっぱりソング」なんて呼ばれた曲群の怒濤の攻勢にめくるめくような感興を覚えるが、一方でまだ序盤なのにこうした喉を酷使するシャウトを連発してペース配分は大丈夫なのかと心配になってくる。実際最後の「横須賀ストーリー」辺りになると歌声に若干疲れが出てきて音程が怪しいところが散見させるが、それでも勢いを止めることなく容赦なく突っ走った。想像だけども、本人もここら辺が一番きつかったのではないだろうか。ここまでするか、というほどの全力疾走だが、まだまだ前半、ゴールはずっと先にあるのだ。それでも一切スピードを落とそうとしないところに、ここでもまた"覚悟"が感じられた。

 ようやく第1部終了、インターバルがあった(と思われるがここではカット)後、彼女は今度は鮮やかな赤の衣装に着替えて登場する。当時の彼女のイメージからすると先ほどのよりこちらの方が合っている気がするが、そこで歌ったのは阿木・宇崎コンビより前の曲たち。「ひと夏の経験」から始まり、時間を遡ってデビュー曲に至るまでをメドレーで走馬灯のように辿っていったのだ。この頃の曲は都倉俊一作品が多かったんだな、なんて思いながら聴いていたが、やはりちょっと当時の大人びた彼女からすると幼い気がして持ち歌なのにちょっと違和感がある。しかしこれはラストコンサート。彼女の歌手人生の集大成としてやはり外すわけにはいかないだろう。それに短い休憩だけで彼女も持ち直したかのようで、どんな曲も全身全霊込めて大切に歌っているのが見て取れた。それにしてもタイトル聞いて「あ、知らないやこれ」と思った曲も、いざ聴いてみると「あ、これかぁ」と思い出すようなものがいくつもあり、彼女の歌がどれだけ世に浸透していたかを改めて思い知らされた。一連のメドレーを歌い終えた後、バックバンドとバックダンサーの紹介。バンマスを先頃亡くなった服部克久本人が担っているのが目を惹いた。
 そして第2部のラストを飾ったのが、再び阿木・宇崎コンビの「ロックンロール ウィドウ」。赤の衣装はこの曲のためだったのか、と思わせるほどぴったりで、しかも歌唱もバックダンスもまさしくキレッキレで、まだこれほどの力を残していたのか、と感嘆した。このコンサート通じて演奏として白眉だったのは、実はこの曲だったのかも知れない。

 退場後、インストゥルメンタルで「いい日旅立ち」がしばらく流れ、その短いインターバルの後、今度は青い衣装で登場。そのまま「いい日旅立ち」を歌って第3部に入った。ここからコンサートは一気に「動」から「静」に移る。激しさは影を潜め、スローテンポの曲を並べたのだ。そしてコンサートもいよいよ終盤に入ったことを感じさせ、静かな中にも彼女の歌声には徐々に熱が籠もっていくのが分かる。随所にMCを挟みながらも、その言葉のひとつひとつを噛みしめるように置いていく。なによりも現在の心境、そして母親について語る時、所々で声が上ずり、それまで頑なまでに自分を律していた覚悟に少しづつほころびが出てくるのが感じられた。こみ上げてくる感情を抑えきれなくなってきたのだ。
 そして歌い出すのは、多くの人が予想していただろう「秋桜」――。後期の山口百恵の歌の中で、いわゆる「つっぱりソング」の狭間にあって、そっと野に咲く花のような叙情的な歌が2つあった。「いい日旅立ち」と「秋桜」だ。作者はそれぞれ谷村新司さだまさし。どちらの曲にも愛好者は多いだろうが、どちらかと問われれば僕は迷いなく「秋桜」を取る。さだまさしの作品中でも特に傑出したものであり、詞の内容と曲とが最初からそうあるかのようにぴったりと寄り添って歌になったかのような名曲だ。彼女がこの曲を最初に歌った時から本当にその素晴らしさには目を瞠り、当時から「山口百恵の歌のナンバー1」と密かに思っていた曲だった。しかもその内容は、まるでその未来を見越していたかのように、その時の彼女の境遇にぴったり寄り添っていた。
 始まっててすぐ、その歌声がそれまでとは違ってきていることに気づく。先ほどのMCで感じられたほころびがそのまま、いや歌と心が共振するかのようにより増幅していて、抑えても抑えてもあふれていく感情が歌声を突き動かしていく。声は震え音程もあやしさを増し、もはやそれまでのストイックなまでの姿はない。やもすれば感情に押し流されそうになるのを必死に抑え込んでいるのは明らかだった。それでも最後まで歌のフォルムを崩しきらずに歌いきったのはその"覚悟"の強さとしか言いようがない。
 しかし終わりの時が近づいているのは誰の目にも明らかだった。それでも次の曲からは再び声に力が戻り、時折容赦なくこみ上げてくる感情を抑えて歌い続けたのは、本当に最後の力を振り絞っていたのだと思う。

 「歌い継がれていく歌のように」のリフレインが会場に何度も繰り返す中、彼女は一旦ステージを退場し、そして再び現れた時、あの純白のドレスを着て現れた。「山口百恵のラストコンサート」というとなんだかこの衣装、という風に印象づけられたのだが、実際は本当に最後の最後だけ着ていたものだったんだな。そして歌い出すのは正真正銘のラストソング「さよならの向こう側」。現役時代に発表された最後のシングルであり、初めてそれを耳にした途端、誰もが「あ、お別れの歌だ」と感じたその歌だった。だけどもその時、さすがの山口百恵もまともに歌いきるだけの力は残されていなかった。歌声は何度も途切れ、このまま歌えなくなるのではないかとハラハラした。しかしそれでも、彼女は感情に完全に押し流されるをよしとはしなかった。本当に最後の最後の気力を振り絞って立て直し、彼女の歌を聴いてくれる人すべてに対し「約束なしのお別れ」を告げた…。

 そうして、どこにそんな精神力が残ってたんだ、の驚きを持って彼女はすべての曲を歌いきり、それでもなお凜とした態度を失わずに、ステージからあちこちの方向に丁寧なお辞儀を何度も繰り返す。それから中央に戻ってあの有名なラストシーン、手に持ったマイクをまっすぐ客先に向けて静かに置き、おもむろに客席に背を向けた。奇しくもこの年、あの王貞治が現役を引退、それを「バットを置く」と表現されたのとまるで呼応するかのような象徴的なシーンだった。
 この彼女の最後の姿は、すべてをやりきったかのようなすがすがしさにあふれたもので、丁寧で落ち着いていたが決して間延びせず、姿を消す瞬間も潔さが感じられた。
 終演後、今回の放映ではけっこうあっさりと明かりが点いて観客も退席を始めていたが、僕の記憶では生中継の時は、ステージの明かりが消えた後もしばらくの間アンコールを求める声が悲鳴のように木霊していたのだが、もはやそれに応えることはなかった。今回観て改めて感じたのは、山口百恵はいかにそのラストステージを完璧にやり遂げてみせるか、その事を一番に考えていたように思える。そして実際、ほぼやり遂げてみせたのだ。

 

 今回の放映、正直最初のうちは「ちょっと観てみようか」という軽い気持ちで観始めた。ところが始まって程なく、40年の歳月を超えてその想像を上回る強靱なエネルギーに圧倒され、ついつい最後まで見入ってしまう。「なんだろうこの圧倒的な存在感は」しばらく自分の気持ちに整理がつけられずしばらく呆然としていた。そして思い当たったのは、昨今の芸能界ではあまり使われなくなった、"スター"という言葉だった。
 かつては有名俳優や歌手のことをよく「スター」と称されていたが、気がつくと最近はこの言葉、ほとんど用いられなくなっている。人気アイドルの数は多いが、それこそ最近は「会いに行けるアイドル」とかファンと近い目線に存在することに重きが置かており、それに対し「スター」は文字通り空にまたたく星のごとく、手の届かない存在。今の芸能人にあまり"スター"性が求められなくなっているのだ。
 しかし今回のコンサートを観て、かつて山口百恵という、まさしく恐ろしいまでの高みに昇った「スター」が確かに存在した、という事を痛感させられた。それはまさしく時代を超越して存在感を示すことができ、それ故に"伝説"と言われる。
 今の目線の低いアイドルにはそれはそれで親しみやすい魅力があるが、一方でこのような"伝説"を生み出すようなことがこの後あるのだろうか、とそんなことを考えさせられた。