シューベルトの交響曲第7番、は…

 先日、所属しているアマオケシューベルトの「未完成」交響曲を演奏したのだが、チラシやプログラムにその番号が「第7番」と書かれているのを見る度に、心の片隅に違和感を覚えるのがどうしても避けられなかった。
 ある年齢以上の人ならば分かるだろうけど、シューベルトの「未完成」は長らく第8番と呼ばれていた。続く「グレイト」は第9番。だけどこちらは時折「第7番」と書かれていることに何度か出くわし、まだクラシック音楽を聴きはじめて間もない僕は「なんで同じ曲が7番だったり9番だったりするんだろう」と不思議に思ったものだ。

 このようにシューベルト交響曲の番号は長いこと混乱していた。なぜこんなことになったのかというと、シューベルトが生前は作曲家として無名であったことと自身の性格が原因としてあげられる。即ち
 ①交響曲の出版はおろか公式に演奏されることすら生前には1度もなかった。
 ②書きあがった交響曲の楽譜をきちんと整理することがなかった。
 ③当然、自分の交響曲に自分で番号を付けることもなかった。
 そのためその番号はすべて、死後に彼の名が上がると共に作品研究の中で呼ばれるようになったもので、その研究過程において番号付けが順次なされていったのだ。

 とはいえ1番から6番については混乱はない。これらはシューベルトが16歳から20歳ぐらいまでのまだ学生時代に書かれたもので、おそらく仲間うちの学生オケで音出しするぐらいのつもりで作曲されたと推測されている。これらは死後シューベルトの名声が徐々に高まりつつある中 程なく発見され、作曲時期はシューベルト自身が楽譜に記入しているのでそれに基づいて順に番号を振っていけばよかった。
(この初期の交響曲も若書きとは思えないぐらい素晴らしい曲がいくつもあるのだが、あまりに回り道になってしまうのでここでは割愛します)

 それではシューベルトは成人してからは交響曲を書かなかったのだろうか? そう思った矢先、とてつもない大曲が発見された。発見者はあのローベルト シューマン。彼がシューベルトの兄が保管していた遺品の中から分厚い楽譜の束を発見し、それが当時としては見た事もないほど長大な交響曲であることが分かってシューマンは驚愕した。「天国的な長さ」そう表現して、盟友メンデルスゾーンにその曲を託して初演した。それこそが現在で言う「グレイト」交響曲だった。その時にはシューベルトが亡くなって既に10年が経過していたが、この交響曲は、それまで知られていた6曲に続くものとして、自然と第7番と呼ばれることになった。
 次の発見はさらに28年後の事、なぜか前半2楽章のみしか残されていない不可解な交響曲が発見された。いわゆる「未完成」交響曲である。未完成ゆえ普通ならば交響曲としては正式にカウントされないはずの曲だが、この曲はあまりにすごすぎた。このような素晴らしい曲が40年もの間埋もれていたなんて…と、これを聴いた当時の人たちの衝撃は途轍もなかったと想像できる。それ故に、前半だけにも関わらず未完成のハンデを乗り越えてたちまちレパートリーに加えられ、それどころかシューベルトの代表作とまで目されるようになった。そして「グレイト」(7番)に続くものとして8番と呼ばれた。

 没後40年近く経ってなおこれほどの名曲が掘り出されたのだ。「他にもまだあるのではないか」と愛好家が色めくのも無理はない。シューベルト研究はこれを機に一層熱を帯びてきた。そして――実際に他にもいくつもの未完成交響曲シューベルトには存在した。とはいえそれらはほんとに「書きかけ」の断片であり、ちょっと書いて唐突に投げ出されたりして曲の体をなしてないものがほとんどで、参考以上のものにならなかった。
 しかし「シューベルトの幻の名曲」探しは終わらない。そんな中で注目されたのが、仮に「グムンデン・ガシュタイン」交響曲と呼ばれた曲だった。これは楽譜は全く残ってない、だが1825年のシューベルト自身の手紙の中にこの曲に関する記述があり、それによると彼自身かなりの自信を持って書かれた大曲のはずだった。楽譜は書かれたがどこかに紛失したと思われた。しかし「グレイト」や「未完成」が見つかった以上どこかにあるはずだ、とその幻の交響曲を求めて長年探索が続いた。が、一向に見つからない。一時期「グランデュオ」D812というピアノ連弾曲こそがそのスケッチではないかと囁かれ、19世紀の大ヴァイオリニスト:ヨアヒムの手によってオーケストレーションされたりしたが、その根拠は作曲時期とその壮大な作風という状況証拠のみであり、定説となるには至らなかった。
 しかしこの幻の曲の結末は意外な形で着いた。後になんと「グムンデン・ガシュタイン」交響曲イコール「グレイト」であることが明らかになったのだ。それまで「グレイト」はシューベルト死の年の1828年に書かれたと言われていたが、その後の研究で1825年であることが分かり、幻の交響曲と同じ年であることがはっきりした。そうなってみるとその他の符牒もすべて一致し、間違いないと結論付けられた。


 それではもうシューベルトの未完成交響曲はないのだろうか――いや、隠し玉とも言うべき大曲がもうひとつあった。それが今回取り上げるD729なのだ。
 作曲時期としては24歳、「未完成」の前年にあたり、演奏時間は40分にも達して編成も規模もちょうど初期の6曲からは一線を画すものだった。ただシューベルトはこの曲を書くに当たってちょっと面白いことをした。いわゆるピアノ譜のスケッチを一切書かず、いきなり14段の楽譜にスコアを書きだしたのだ。理由は分からない。すさまじい勢いで楽想が湧き出して、それをできるだけ新鮮な生の形で書き記そうとしてそういう形を取ったのかもしれない。(それまでも弦楽四重奏曲などでそういう方法を取ったことがあった) とにかく噴出するメロディを次々と書き飛ばし、結局筆が追い付かずに後の方になるほどメインのメロディ1本線でそれを奏する楽器の部分に書き記すのみになっていった。
 おそらく驚くべき集中力を持って短い時間で一気呵成に書いたのだろう。遂には全4楽章の最後まで到達し、シューベルトは堂々と最後の二重線と共に「Fine(終わり)」と麗々しく書き込んだ。
 ――こう書くと一瞬完成しているように見える。が書かれている楽譜の大半は1本の楽想だけであり、他の段は真っ白で総譜はすかすかだった。まだまだこの後彼の頭の中にある響きを定着させるためにその空白を各楽器で埋める作業が必要だった。そして実際冒頭に戻ってオーケストレーションを始めている。だから第1楽章の序奏部はシューベルト自身の手によって素晴らしい響きが書き遺されているのだ。
 ところが…シューベルトさん、なぜかは知らねどこの作業の途中で悪い癖が出て放り出してしまったのだ。また新しい曲が浮かんでそちらに夢中になってしまったのかもしれない。とにかく他の事に気を取られたのか、結局オーケストレーションが済んだのは第1楽章の序奏部と提示部冒頭のみで、後はその骨子が最後まで残されただけだった。
 言ってみれば「未完成」が途中までで途切れた「横の未完成」なのに対して、この曲は一応最後まではつながっているがスコアとしては完成されてない「縦の未完成」と言えると思う。
 もちろんこの状態では打ち捨てられてもしょうがないとは思うのだが、一番重要なのは「未完成」同様、音楽として面白いかどうかだが、これがまた――捨てるにはあまりに惜しいものだった。

 まずは第1楽章。序奏部は前述のようにすべてシューベルト自身の手になるもので、最初の第1音からすっと聴く者の心に忍び寄って作品世界に引きづりこむような魅力を持っている。続く主部はメロディ自体はちょっと軽めとはいえ、シューベルトらしい、もう次々と展開が湧き上がってきて最後の1音まで息を切らさずにめくるめく展開が眼前に繰り広げられるようなのだ。
 続く第2楽章。私見だがこの楽章こそこの曲の白眉かもしれない。しっとりと心をまさぐって入り込むようなかすかに憂いを含んだメロディ。その後も寄せては返す波のように様々に色合いを変化させていき、緊張の糸を最後まで切らさない。
 第3楽章はスケルツォ。ある意味標準的とも言えるが、単なる軽い音楽では終わらせない何かを感じさせ、そして終結部は後の「グレイト」にもつながるスケール感を醸し出している。
 第4楽章フィナーレは軽妙な音楽。いささかシューベルトらしい悪ノリが出てしまったと言えない事もない。人によっては一本調子で冗長と非難する人がいるかもしれない。しかし僕はこれもまた彼らしい生命力が絶えることなく噴出して最後まで疾走しきった音楽だと思う。シューベルトの音楽が好きな人にとっては堪えられないだろう。

 このように全編彼らしい魅力にあふれた作品なのだ。もちろん「未完成」に匹敵するか――と言われれば贔屓目に見ても言葉を濁さざるを得ない。(それほど「未完成」は別格なのだ) とはいえ初期の6曲と比べてもそれまでの殻を破って脱皮しつつある姿が明らかに垣間見えてきて、何よりその曲自体捨てられるのが惜しくてしょうがない曲なのだ。

 実を言うとこの楽譜の存在自体は「未完成」より20年ほど前から知られていた。シューベルトの兄フェルディナンドは、なんとメンデルスゾーンにこの楽譜を送り、補筆完成を依頼したという記録があるほどだ。(結果は断られたようだが)
 この楽譜をオーケストラで演奏できるようにした例として、20世紀初頭の名指揮者フェリックス ヴァインガルトナーによる補筆完成版(1934)がある。実際この楽譜によってこの曲は知られるようになり、その後まもなく、この曲が第8番の「未完成」の前にある第7番、「未完成」は偶然にもそのまま8番となり、同時に「グレイト」は作曲年代が「未完成」より後なので第7番から第9番に繰り下げられた。
(「グレイト」の番号が混乱したのはこのいきさつによる)
 ただ、このヴァインガルトナー版は今聴き返すといささか問題が多い。どう考えてもシューベルトっぽくない響きが随所に見受けられるのだ。この時代の指揮者は過去の作品を自分の考えでいろいろ手を加えて独自版を作ることがかなり一般的に行われていたし、むしろどう響きを自分流に作り替えるかが指揮者の腕の見せ所みたいな風潮があった。当時は作曲家としても活動していたヴァインガルトナーの事、シューベルトの楽譜を素材として自分流の響きを創り出すことに夢中になっているように見受けられる。第2楽章などいろいろお化粧した挙句もとの素晴らしいメロディが埋もれ気味になってしまっているし、冗長と判断したのか、第4楽章などかなり大胆にカットして楽想の流れを変えてしまっている所もある。このようにヴァインガルトナー自身の色がかなり色濃く出てしまい、シューベルトの音楽とみるとけっこう違和感があるのだ。

 ヴァインガルトナー版に代わるものとして1980年代に出現したのが、イギリスの音楽学者ブライアン ニューボールドによる復元版だ。これは一転してかなりストイックな補筆で、シューベルトの音符を最大限生かし、演奏するのに最低限の音のみ書き加えたように聴こえる。その仕事は、あたかもマーラー交響曲第10番の復元に半生を費やしたデリック クックを思い起こさせるものがある。それ故に響きが全体的に薄くて通り一遍に思えるし、スケルツォ終結部などはヴァインガルトナー版の方が堂々として響き豊かで、こちらのほうがこの曲にふさわしいと思える部分もある。前述のように序奏部はシューベルトが書いたそのものなので、そこだけが実に玄妙で味わい深い響きがある分、その後はオーケストレーションに隙間風が吹くように感じるのは否めない。しかしそれでもニューボールド版の方がこの曲の魅力を素直に引き出しており、心にすんなり入って腑に落ちることは確かなのだ。いずれにしろ最後までシューベルトが最後まで完成しなかった以上誰にも最終判断は下せないが、僕は総合的に見てニューボールと版の方を評価する。
※現在ヴァインガルトナー版はレーグナー指揮ベルリン放送響楽団(シャルブラッテン)、ニューボールド版はマリナー指揮アカデミー オブ セント マーティン イン ザ フィールズ(PHILIPS)のCDで聴くことができる。

 このようにしてこの曲は一時期交響曲第7番として定着しかけたのだが、1978年に発表された新シューベルト全集に於いて自筆譜で演奏可能でないものは排除するという方針が打ち出され、結局この曲は番号からはじき出されてしまう。「未完成」は第2楽章までは自筆譜で演奏可能という事でギリギリ認められ、番号が繰り上がって第7番に、「グレイト」も同じく第8番となって現在に至った。
 もっともこの呼び方も定着するまではしばらくかかり、その後もけっこう長い間「未完成」は8番と呼ばれ続け、今でも時折そう表記されているのを見かけるほどだ。「7(8)番」というように新旧2つの番号を併記するのも決して少なくない。なによりもこれによってこの素晴らしいD729はあたかも正規の曲とは認められずに日陰者となってしまい、知る人ぞ知る存在になってしまった。

 そのことが無念で、「未完成」が交響曲第7番と呼ばれているのを見る度に「本当は違うのに…」という忸怩たる想いが湧き上がって、心の片隅をチクリと刺される感じなのだ。だが、このままこの曲を埋もらせていいのだろうか。周りを見渡せば、先のクックの手によって演奏可能になったマーラー交響曲第10番は最近はかなり市民権を得てあちこちで演奏されているが、この曲とD729の残存部分はけっこう近いものがある。さらに言えばバルトークヴィオラ協奏曲に至っては、ヴィオラ独奏部のみはほぼ書き上げられていたもののオーケストラ部分はほとんど断片的なものしか残っていなかったという。これですら死後復元された楽譜でほぼバルトークの作品として演奏され続けている。これらを鑑みると、このD729はかなり不当な扱いを受けているのではないか、とこの曲のファンとしてはどうしても声を上げたくなってしまうのだ。