新垣 隆の新作交響曲「連祷」を聴いて

 あの"新垣 隆"が新作を、それも交響曲を発表し、しかもそれがDECCAからCDが発売されると聞けばさすがに気になってしまい、どんな曲だろうと思わず買ってしまった。

 新垣 隆という作曲家、まぁ僕も他の人と同様、一昨年の一連のゴーストライター騒ぎの際に初めてその名を知った。佐村河内 守という稀代の詐欺師と共に、もう一方の当事者としてマスコミの矢面に立たされたが、世間の印象は佐村河内とは逆だった。どちらかというとその才能を食いつぶされた被害者とみなされ、全体的に同情が集まった。
 結局その後の活動は対照的だった。引き籠ってマスコミから逃げまくった佐村河内と違い、新垣氏は作曲家として注目されるだけでなく、乞われれば気軽にTVにも出演した。しかも時が経るに従って「こんなのに出る事ないのに」と誰もが思う音楽と関係ないヴァラエティ番組にまで引っ張り出され、時にはコントの片棒まで担がされたのだから。しかしどんな時もそのまったく慣れてない様子のまま、困惑した態度でたどたどしげにこなす様子が却って好印象を与えた。
 どうやら新垣氏は「頼まれると断れない」性格らしい。ゴーストライターもこの性格が災いしたというし、ところ構わぬTV出演も同じ理由でいいようにいじられてしまったような気がする。それに案外サーヴィス精神も旺盛なのかもしれない。
 TV等の露出のおかげでその顔や人となりは知られるようになったが、はたして肝心の「作曲家:新垣 隆」とはどうなのか、そこのところが置き去りにされてしまっていた。

 もちろん交響曲「HIROSHIMA」を始めとする一連の佐村河内作品が事実上すべて新垣氏が書いた音符から成っている事は明らかになっている。でもはたしてこれがどこまで彼の実力とみなしていいのか、正直判断が難しいと思う。
 交響曲「HIROSHIMA」だけは僕も事件発覚前、ちょうどブームになった時にCDを買って聴いてみた。ある時タワレコ行ってみたらいきなりCD平積みで1コーナーできていたんでびっくりしたのを憶えている。ポピュラーならともかくクラシック畑でこういう未知の作曲家の作品がこんな大プッシュされるなんて異例の事だったので、「なんだぁ!?」と思ったのが第一印象だった。

 間もなくTVを始めとするマスコミでも佐村河内が取り上げられる機会が増え始め、いやでもその情報が耳に入ってくるようになっていった。彼が全聾であり、その他にもいろいろな病と闘いながらも苦労して作曲を続け、そうして作られた作品が近年、特に東日本大震災の被災地で大いなる感動を呼んで迎えられていると――。NHKでもドキュメンタリーが放映され、彼のより詳しい情報や作品の一部も流された。その後民放でも「金スマ」で取り上げられたりして、僕はそのどちらも観た。
 番組中、あまりにできすぎたような話に正直胡散臭さも感じたし、全聾と言いながら出演した氏が違和感なく喋るのも不思議だった。(成人してから聴覚を失った場合、喋る感覚は残っているからこういう風に自然に喋れるのかなぁ、なんて考えながら見ていた)
 被災者の声というのもなんだか所謂"ステマ"の臭いが感じられたものの、身障者や被災者が頑張っているのを根拠もなく色眼鏡をかけて見るのもどうか、との思いもあり、全てを呑み込むことにした。なにはともあれ問題は音楽としてどうかだ、ととりあえず話題の交響曲第1番「HIROSHIMA」のCDを買ってみたのだ。

 実際のところ正直感心できるものではなかった。21世紀の現代にあえてロマン派風の大交響曲を書いてみようというその心意気は買える。演奏時間全80分にもなりなんとする規模はまるでマーラーを思い起こさせるが、その楽想はなんだか迫真性に欠け、聴いていても迫ってくるものがない。なによりも気になったのはその部分部分が妙にくっきりとブロックごとに区分けされているようで、そのひとつひとつのつながりに音楽的な必然性が感じられないことだった。そのため長大でありながら構成的に散漫な印象を与え、80分間、聴きとおすのが正直かなり苦痛だった。終わる数分前、TVでよく取り上げられていた旋律がようやく出て来た時には(ああ、やっと…)と正直ほっとしたものだ。
 要は企画倒れで内容が伴っていない失敗作。そう思ってこれ以外に佐村河内作品を聴こうという気は起きなかったので放っといたのだが、でも音楽の評価は多分に好みが左右するものだし、この曲に感動している人も多いようなのでそれはそれとして、少なくとも自分にとっては特に必要のないものだと割り切って考えるようになった。

 そこに例のゴーストライター騒ぎが起き、程なくあの「指示書」なるものが明らかになって、なんかあの曲の構成の理由が腑に落ちた。結局音楽の素人が、音楽以外のあれやこれやの概念をふりかざして勝手にでっちあげたプログラムに無理矢理音楽を嵌め込まれて作り上げられてしまったのがあの交響曲の正体なのだろう。そういう意味で、その音楽を書いたのが新垣氏であることは間違いなくとも、かなり強制されて捻じ曲げられていることは十分考えられる。

 はたして新垣氏が自発的にオリジナルの作品を書いた時、どういうものになるのか、その時初めて氏の作曲家としての評価ができるのだろうと思っていた。Wikipediaからの孫引きではあるが、「佐村河内の依頼は現代音楽ではなく、調性音楽でしたから、私の仕事の本流ではありません」と発言しており、彼の普段書いている作品と佐村河内作品とは意図的に傾向を異にしている事が想像された。
 そこに今回のCD発売である。やはり不本意とはいえこれだけ騒ぎを起こしてしまった新垣 隆という人がどのような作曲家であるのか、興味を持たずにはいられなかった。

 まずは交響曲「連祷」-Litany-を聴き始めてまず驚いたのは、この曲が明らかに調性を持った音楽だったことだ。前述の発言からして、おそらくはもっと前衛的な、無調音楽になっているものと勝手に思い込んでいたのだが、全体的にかなり叙情的ではっきり聴き取れるメロディライン(その旋律線は「HIROSHIMA」のものとどこか似ていた)がいくつもあり、全体的に非常に聴きやすい。
 正直その点に戸惑った。ひょっとして新垣 隆としての再出発とみなされる作品でありながら、聴く人はやはり佐村河内作品のようなものが求められていると推測して、やはりその線に沿ったものを書いてしまったのではないか、と勘繰ってしまう。ただ、ここには「HIROSHIMA」のような不自然なブロック構造は影を潜め、自発的に音楽が発展していくような必然性がみてとれた。もっとも構造はソナタ形式のような分かりやすいものがあるわけでなく、なかなかその全体像を今もまだ読み取れないのだが、少なくとも指示書のようなものはなさそうなことだけは推測できた。ただ――非常によく書けているのだが、「HIROSHIMA」の時も感じた迫真性の欠如、どこか作り物めいた印象はここでも感じられた。

 このCDには交響曲の他に、ピアノ協奏曲「新生」、そして「流るる翠碧(すいへき)」と題されたオーケストラ小品の計3曲が収録されている。いずれも例の騒動後に発表された最近作のようだ(もっとも構想自体はもっと前からなされていたかもしれないので「騒動後に作曲」と言えるのかどうかは定かではないが)が、ピアノ協奏曲を聴くと耳に心地よい響きはより一層鮮明になる。作曲者自身によるピアノ演奏は実に堂々たるもので彼の腕前が単なる"作曲家のピアノ"の域にとどまってない事が分かる。そのピアノの使い方は非常にオーソドックスで、それ故に実に簡潔かつ明快でついつい聴き入ってしまう。正直3曲の中で一番気に入った。最後の小品はちょっとタケミツっぽい響きがするけども、正確に言えば"映画音楽の武満徹"を思い起こさせる流麗で情感のあるメロディで聴かせる佳品といえそうだ。

 いずれも「現代音楽作曲家 新垣 隆」の面影はなく、言ってみればあの事件が今も発覚せず「佐村河内 守の新作」として発表されればおそらく皆そう受け取ってしまうだろう、という音楽だった。新垣氏がゴーストライターとして活動しているうちにそういった音楽の書き方も習得したことは間違いないだろうが、今になってなおそうした路線で新作を書き続ける意味はどこにあるのだろう…。

 CDが売れなくなりクラシックの新録音がほとんどなされない現状の中、まだあまり実績のない作曲家がいきなりDECCAなんてメジャーレーベルから新譜を出すのは異例の事で、彼があの事件のおかげでいかに注目されているかが分かる。でも晴れて自分の名前で作品を発表できる状態にありながら、それでもあえて佐村河内路線で曲を書いたのはなぜなのだろう。もちろんその方が"売れる"のは確かだろうし、佐村河内作品のファンだった人にとってはおそらく待望の1枚となっているのは間違いないだろう。

 でも新垣さん、本当にそれでいいのか?