佐村河内 守を擁護する気はさらさらない、だが…~吉本浩二「淋しいのはアンタだけじゃない」

 物心ついた時には「鉄腕アトム」があり、小学生時代に「ブラックジャック」の連載にリアルタイムで接していた世代ということもあって、手塚治虫作品は今もなお自分にとって特別な存在であり続けている。そんなだからこそ数年前に「ブラックジャック創作秘話」なる作品が連載されれば飛びつかずにはいられなかった。手塚治虫の創作現場をインタビューを元に再構成したこの作品、実際には既知の内容も多かったが、連載が続くに従ってその周辺の人たちまで題材は幅広く広がっていき、個人的には最後まで興味が尽きないものとなった。

 その作品の絵を担当したのは吉本浩二。初めて聴く名前で、他に原作者がいるとはいえこれだけいろんな人に取材してマンガに纏めていくのは大変だろうとは思いつつ、絵柄はけっこう泥臭くてちょっと時代がかっているのが気になった。今回は題材が題材だから読んだけど、なんとなく彼の他の作品を読むことはもうないんじゃなかろうか、とそんな気がしていた。

 なのに再び彼の作品を読もうという気になったのはほんの偶然。雑誌をパラ見していたらいきなりあの"佐村河内 守"が出てきて思わず目に留めたのがきっかけだった。それが吉本氏の作品だと気づくのはもう少し後のことになる。

 「淋しいのはアンタだけじゃない」そうタイトルがつけられたこの新作は別に佐村河内を描こうというのではなく、「聴覚障害とはどういうことか」というシリアスな題材を取り上げたものだった。
 今回初めて吉本氏が他にどういう作品を今まで書いていたか知ったのだが、特に近年、取材に基づいたドキュメンタリータッチのノンフィクションに力を入れているらしく、「BJ創作秘話」もその中のひとつといってよかった。マンガ界では他にあまり描いてないジャンルであり、絵柄より内容で人を惹きつけられるものなので、このようなスタイルはなるほどと思った。

 この作品は作者と担当が二人三脚で自ら取材を重ねて作り上げたものだが、ページを繰るたびに驚きに満ちた内容が次々と出てくる。そして自分が今までいかに聴覚障害について無知であったかを思い知らされ、恥じ入りたくなるほどだ。
 普段、人がどのように周りの状況を把握しているかというのに、今までどちらかというと視覚情報が主だと思っていた。ただ、もちろん視覚情報も重要だが、他者とのコミュニケーションツールとして、リアルタイム性が重要な場合ほど聴覚からの情報がどんどん重要になっていく。なにより一番それが発揮されるのが緊急時だ。火災のような災害時、警報は主に音として発せられる。聴覚障害者には時としてこれは致命的だ。作中にも取り上げられているが、何も気づかずに部屋にいたらいきなり消防署員が踏み込んできて、何事かと外を見たらもう火がすぐ目の前まで迫ってきて…。この人は幸い九死に一生を得たようだが、その状況を想像するだけで恐ろしさに震え上がる。こんな非常時でなくても、普通に電車に乗っている際でも、運行情報は主に車内アナウンスによって行われている。聴覚障害者にとってはすべての情報を遮断されているに等しい。こんな何気ない所で日常的に強烈なプレッシャーの中で生きていく、というのを知らされると、今まで気づかなかったことに申し訳なくなってくる。
 こうした様々な事象を、吉本氏はインタビューという形で淡々と描いて行く。変に脚色するでもなく、あるがままに――。そのことが一層事の重大性を際立たせているようで、彼の作風がプラスになっていると思う。

 こうしてみると、足腰が不自由な人に対するバリアフリーとか、視覚障害者に対する点字ブロックその他といった障害者対策はいろいろあるが、聴覚障害者に対しての対策は一番遅れているのではないだろうか? なにより、作中でも触れられているが、聴覚障害者は一見障害者に見えないという状況がある。ひょっとすると彼らは障害者全般の中でも一番不便を強いられている存在なのかもしれない…。

 そしてどの障害でもそうだが、聴覚障害も障害の度合いは人によって違い、また状況も千差万別でひとくくりにできない。この作品中でも"耳鳴り"の事は大きく取り上げられている。
 僕もかなり最近まで、全聾の人というのはまったくの無音状態の"静かな"世界にいるのだと思っていた。しかしそういう人だけではなく、人によっては外からの音は聞こえないくせに自分の内側からの、"耳鳴り"という無限に続く騒音に悩まされ続けている――。その事を僕が知ったのは、白状すると佐村河内の事が大きく取り上げられてからのことだった。最初は小さな耳鳴りだった兆候が、時が経つにつれどんどんひどくなっていき終いには失聴する…。自分自身、子供の頃から軽度の耳鳴り持ちだっただけに、これを聞いた時は(自分もそのうちいきなり聴覚を失うのではないか)と怖気だったのを憶えている。
 この作中で取材を受けた障害者のひとりも「常に頭の上にジェット機が止まったままになっている」ような耳鳴りに常に苦しめられる(他にも日によっていろんな別の音が混じるという)事が語られていて、耳鳴りの状態は自分も覚えのある事なので(程度の差はあれ)その感じが想像できてしまい、より一層のリアリティがあった。
 その他にも、全聾の人がしばしば素晴らしい笑顔を見せる理由とか、"音"を感じた事がない人が日常にあふれる音を最も察することができるのがマンガで多用される擬音だったとか…単行本第1巻だけでも本当に目から鱗が何枚も落ちるような事象にあふれていた。

 しかし今、聴覚障害を取り上げるとなると、どうしても1人の男の事に触れない訳にはいかない。もちろん佐村河内 守のことだ。成人してから全聾になり、耳鳴りに苦しめながら作曲を続ける"現代のベートーヴェン"。その触れ込みで一大ブームを築いた苦難の作曲家。その姿が3年近く前に一気に瓦解したのは記憶に新しいが、この事件のポイントは次の2つにまとめられる。
 (1) 実際は彼は作曲などしていず、すべてはゴーストライターの作品だった。
 (2) 本当は全聾でもなんでもなく、耳は聞こえていた。

 このうち(1)についてはもう間違いがない。佐村河内自身も認めており、その作品のほとんどは新垣 隆氏によって書かれ、彼自身は1音符も書いてないことは明らかである。そしてこのマンガにおいても、(1)については直接関係ないのでまったく触れられてないし、それは妥当だと思う。
 問題は(2)だ。佐村河内の言葉によると「かつては全聾だったが、数年前から少し聞こえるようになってきて、改めて検査したところ"感音性難聴"と診断された」ということだが、(1)で「騙された」人たちには、もはや(2)も信じられるものではない。一緒くたに否定されてしまった。
 実際、前述のように聴覚障害は見た感じではなかなか分からないので、他の障害に比べて、特に検査機器があまり発達していなかった以前は偽装が比較的容易だった。実際、そのようにして大量の偽装者が出た、という「負の歴史」にもこの作品中できっちり触れられている。(ただその大半が貧しい人で、偽装の動機が生活苦を和らげるためだった、というのがなんともやりきれないものが残るが)
 このマンガで特に注視しているのは、一連の騒動後、佐村河内が単独で主催した記者会見のことだ。あの時彼はトレードマークの長髪を切りサングラスも外し、手話通訳者ひとりを介して大勢の記者と相対した。その際に時折記者の言葉に直接反応したように見えた時があったことで、「佐村河内と普通に会話した」という新垣氏の言葉が裏付けられと多くの人が感じていた。

 しかし――本当にそうなのだろうか、と作者は疑問を投げかける。繰り返しになるけども、ほんと我々は聴覚障害者の実態についてあまりにも知らなかった。なによりもまず知らなければならないのは「聴覚障害者=全聾」ではないことだ。他にも一言で難聴と言っても大雑把に言って伝音性と感音性があり、さらにその複合型も存在するらしい。それぞれに程度が人によって違い、dB(デシベル)で表現されるが、同じdBでも人によって、また日によって、その場の環境によって聴こえ方が千差万別だという。佐村河内が例の記者会見の時に開かした「50dBの感音性難聴」というのはかなり微妙なもので、状況によっては聞き取れることもあるが、音がゆがんで入ってくるので脳内で補完して判別できる時もあるがそうでない事も多い。殊に人が大勢いてがやがやしている所では「ほとんど聞き取れない」のが実情らしい。佐村河内と同じ「50dBの感音性難聴」の人にもインタビューしていくが、その状態がどのようなものであるか、その状況を説明し様にも非常に伝わりにくいものではあるが、作者はマンガならではの技法を駆使して一般の人にもうまく察せられるように表現している。その結果、あの記者会見で佐村河内がいったいどのような状況にあったのか…。その姿がおぼろげながら徐々に我々にも"見えて"くる――。そういった意味でこの作品はまさしくエポックメイキングといえるものであり、ひょっとすると吉本浩二はこの作品で「ドキュメンタリーマンガ」というひとつのジャンルを確立させるのではないか、そんな期待すら抱いてくる。

 そして第1巻の後半、作者は遂に佐村河内自身とのインタビューに成功する。もちろん例の事件そのものにはほとんど触れず、彼の現在の耳の状況がどのようなものであるかを主に探っている。それ自体は非常に興味深いものではあるが、ただやはり彼と深く接することに対しては一抹の不安感はぬぐえない。
 それは作者に非がある訳ではない。佐村河内は間違いなく稀代の詐欺師である、それは疑いようがない。今もなお、一応は謝罪するような事を言っていながら、一貫して自分を正当化することに汲々とし、少しでも自分を非難しようとする言動は一切認めようとしない。この期に及んでその鋼のような精神力は驚くべきものだ。佐村河内へのインタビューはその後も回を重ねているようだが、あまり彼に近づきすぎると、いつしか彼に取り込まれて、いつしか作品が彼の都合のいいように捻じ曲げられていくのではないか、佐村河内のプロバガンダに利用されていくのではないか――。
 この作品には大いに期待しているし、「聴覚障害者の事をひとりでも多くの人に知ってもらいたい」という作者の意気込みにも強く賛同しているので、もしそうなってしまっては聴覚障害者全般にとっても不幸な結果になってしまうかもしれない、という危惧がどうしてもぬぐいきれないのだ。
 
 佐村河内とは、それだけ危険な男だと思っている。