これはアジモフとはいえないな~映画「アイ, ロボット」

 コロナ禍のおかげで最近は家にいることが多く、休みの日などTVに向かう時間が格段に増えた。で、そんな時、以前録画して(いつか観よう)とそのままになっている映画をこの機会にちゃんと観る機会も出てきて、徐々にHDに空きが増えて行った。
 そうして観た映画のひとつが「アイ, ロボット」(2004年公開)だ。そのタイトルはアジモフの代表作「われはロボット」の原題と同じであり、実際彼が案出した「ロボット工学3原則」に基づいて作られているという。そのため公開当時から気になっていた映画だった。

 アジモフの作品は学生時代に集中的に読みこんだ。自分自身はSFマニアとは到底言えない浅いSFファンだけども、アジモフに関してだけはかなり耽溺したという自負がある。特に「銀河帝国興亡史」に夢中になったクチだが、一方で彼が生涯にわたって書き継いできたロボットものにももちろん好きだった。(ついでに言うと「黒後家蜘蛛の会」を始めとするミステリーも、膨大な科学エッセイもどれも手当たり次第に読んだ) 殊に、第1作品集「われはロボット」中の「うそつき!」を読んだ時の衝撃は忘れられない。「これぞSFだ!」と当時感嘆してたっけ。

 そんな経験を持つ自分が「アイ, ロボット」が気にならないはずない。一方で原作厨としての不安も。なにせなにやら耳に入ってくる前情報によると、別にアジモフ作品を原作とした映画化ではなく、一応アジモフの作品世界に則っているとはストーリーは全くなオリジナルで、結局別物だというのだから。
 なので結局気になりつつも映画館に出向くこともなくそのままやり過ごしていた。そして去年BSでノーカット放映されると聞いてとりあえず録画したものの、そのまま何カ月もほおっておいたのだ。

 始まってすぐ、冒頭から「ロボット工学3原則」はちゃんと提示される。ロボットが生活の中にすっかり普及した近未来社会の中、ロボット工学の第1人者たる博士が突然自社ビルから飛び降りて死亡する。誰もが自殺だと考えるが、ただひとり、主人公の刑事だけは「ロボットによる殺人」の疑いを持ち続け――。ロボット工学3原則により他の人は殺人の不可能性を疑わず、ひとり暴走する主人公は次第に孤立する。その主人公と相対するヒロインの名はスーザン カルヴィン博士。原作ではシリーズ最大の重要人物だが、これも名前だけ同じでキャラ的には別人とみていい。

 全体のストーリーは結局「ロボットの(人類に対する)反乱」であり、そのテーマ自体は結局ロボットと言う言葉が初めて生まれたチャペックの戯曲「R.U.R.」の時から提示されており目新しいものではない。というかロボットもののフィクションに一番ありがちなテーマであり、こういう所謂「フランケンシュタイン コンプレックス」からの脱却を図ったのがアジモフのロボットもの、そして「3原則」なのだ。
 アジモフのロボットシリーズのテーマとして根底に流れるのはこの「3原則」に基づく様々なヴァリエーションである。作品世界の中で一見3原則にそぐわない行動をとるロボットが出現し、それがその「3原則」のいかなる解釈でそうなったか、を探り、解決していくのがアジモフのロボットものの主眼なんだが、結局映画はそこをあっさり飛び越してシンプルなバトルアクションものにしてしまった。

 だからやっぱりこの映画はアジモフをはまったくかけ離れたものと言わざるを得ない。ただこの3原則を無視して「ロボットの反乱」を引き起こした理由と言うのが、実はアジモフ自身が晩年に提示した「第1原則のさらに上位にある"第0原則"」が元アイディアになっている事がミソか。にしても原作ではだからといってこんな展開には決してならない。原作のロボットは基本的にもっと思索的で直接的暴力に訴えることはない。映画ではここの造りが非常に粗削りなものになっていた。正直「ここまで単純化しなければハリウッド映画にはならないのか」と内心ちょっとあきれてしまった。

 ただし一応弁護すると、そういった"原作厨"的な考えを捨て去りさえすれば、CG造形されたロボットNS-5が大量に画面狭しと整然と行進し、一斉に暴れまくる様は異様な迫力に満ちており、それなりに見応えがあったのは確かだ。ロボットの中で唯一キャラとして特定したサニーの立場というのもかなり凝っていて面白い。しかし暴力的な内容は極力排してロジカルな展開を一貫して目指したアジモフ作品とはかけ離れていると言わざるを得ない。

 エンドタイトルの中でアジモフの名は「suggested by」とクレジットされている。まぁ日本語に直せば「原案」とするのが一番近いだろう。確かに一応アジモフの原作世界が根底にあるとはいえ、やはりそれ以上のものではない、と肝に銘じてあくまで別物としてして楽しむのが吉だろう。

一条の光?

 「BCGが新型コロナウイルスの予防に一役買っているかもしれない」
 そんなニュースを聞いて非常に心強いものを感じた。僕の住んでいる東京はきのうと今日と2日続けてコロナ感染者が100人以上を数え、遂に累計感染者は1,000人を突破した。こんな出口の見えない、それどころか今まさに感染爆発前夜が危惧されているこの状況の中、この話は自分の心の中に意外なほどの安堵感をもたらしてくれた。
 もちろん現時点でBCGと新型コロナウイルスの因果関係はまったくつかめていず、あくまでも統計的な推論に過ぎない。しかしイタリアやスペイン、そしてアメリカではBCG接種が行われていず、ヨーロッパの多くの国で義務化されていない、という事実を聞くと、自分の中でなにか腑に落ちるものがあるのだ。

 それはアジアと欧米の間での致死率の大きな差だ。言うまでもないがこのウイルスは最初中国の武漢で爆発的な感染が始まり、日本を含むアジア全域に広まった後、遅れてヨーロッパでも広まり出した。中国の後、爆発的感染が起こったのがイタリアだった。その際目を瞠ったのは、その感染者の爆発的増大はもちろんの事、その死者が信じられないカーブで増大していったことだった。
 今までにないウイルスのため、すべては手探り状態でしかないのだが、中国で爆発的感染が起こった時にはじき出された致死率はおよそ2%、それにより新型コロナウイルスは感染力は強いが毒性はそれほど高くない、というイメージを最初与えた。しかしイタリアの死者はそれをはるかに上回るペースで増大し、致死率はぐんぐん上昇、現在はとうとう10%を越えてしまった。
 TVから流れて行くイタリアの医療現場の壮絶さには身震いさせられるが、それにしてもなぜ致死率にこれほどの差ができたのかは正直解せなかった。その理由の一つとしてイタリアでの医療崩壊、増大し続ける感染者にとても追いつけずに重篤患者を放置せざるを得ない状況に陥っている事が挙げられており、もちろんそれも大きな要因だとは思うが、それにしてもこれほどの差ができるものだろうか――。僕が一番恐れたのはウイルスがより毒性の強いものに変化しているのではないか?ということだった。ウイルスは突然変異を起こしやすく、インフルエンザなど毎年のように昨年とは少し違うものが発生してその都度ワクチン作りを強いられる。新型コロナウイルスも、ヨーロッパで流行したものは致死率10%に至るほどのより強力なウイルスに変貌しているのではないだろうか?。そんなものが今またアジアに逆輸入されたらひとたまりもない。目を覆わんばかりの惨状が展開されるのは目に浮かぶようだった――。(僕が今年もしオリンピックが開催されたとしたら…と最も恐れていたのはそれだった)

 日本も、東京を中心に現在感染者数の数がうなぎ上りに増えている。ほんとうに数日後には感染爆発("オーバーシュート"というカタカナは実感が伴わなくてなんか使いたくない)が起こっているかもしれないが…それでもやっぱり不思議なのは、感染者数に比して重体・重篤者、そして死者の数がそれほど伸びていないことだった。このペースで感染者が伸びて行ったら、今ごろ毎日数十人単位で死者が出ていてもおかしくないのに…。それとも医療崩壊が起きれば必然的にそうなってしまうのだろうか…? やっぱりアジアとヨーロッパのウイルスは別物なのだろうか…?

 そんな時に飛び込んできたのがBCG説だった。言うまでもなくBCGは結核用の予防接種で、腕の付け根に皮膚が引き攣れたようなBCG跡(ツベルクリン反応跡)がある日本人は多かろう。この結核用のワクチンが同じく肺に炎症をもたらす新型コロナウイルスにもなんらかの作用をもたらし、重症化を防いているのではないか?との仮説のようだが、最初に申しあげた通り現在では推測でしかない。しかし帰納的にではあるがBCGの接種率とコロナウイルスの被害者数とを見比べると明らかな因果関係が見て取れ、素人目にも「何かあるのではないか」と思えてしまう。もしやこの致死率の差は、BCGを打ったか否かの違いなのではないだろうか、と。

 今まで新型コロナウイルス感染者が重症化する条件として、高齢者や糖尿病のような疾患を前から持っている人、即ち基礎体力が低下している人が言われているが、それ以外にもBCG接種したかどうかの情報をぜひ見てみたいと思う。ちなみに日本でBCG接種が法制化されたのは1951年、そして志村けんが生まれたのは1950年2月…。志村はBCGを打ってなかった可能性が高い。もし打っていたらひょっとして状況は変わっていたかもしれないと思うとつくづく残念だ。

 もちろんBCGを打っているから安全だなんて口が裂けても言えないし、感染拡大を少しでも減らすための"3密"回避は極力厳守すべきことだ。しかしこの状況の中ではいずれ感染は避けられない気がするし、ひょっとすると無症状なだけで既に感染しているということだってありうる。だから"3密"回避やマスク着用は、予防と言うよりも、自分を感染者と仮定してウイルスを周囲にまき散らすことを回避するために必要という意識を持っておいた方がいい。
 それとともに、今はむしろ感染後に重症化しないことが重要に思える。感染しても軽く済めばそれで抗体を体に得ることができる訳だし…。しかしもし、まったく意識せずに子供の頃に打たれたBCGがその一助となるのであれば…それはこのコロナ禍を救う一条の光となるかもしれない。

エイプリルフールネタかと…

 現在、全世界を席巻している新型コロナウイルスに関して僕は何も言う事が出来ない。最初のうちはそれほど重大だとは思っていなかった。しかし状況がどんどんめまぐるしく変わっていく様に追われて自分の素人考えなどは後から後から吹き飛んでしまい、今から思えばそんな浅はかな考えを持ったこと自体が恥ずかしくなるほどだ。

 幸いなことに日本は現時点ではそこまで重大な事態までは行っていない。感染者数に関しては検査数を絞っているから実態とはかけ離れている事は十分考えられるが、それでも死者・重篤患者の数を見ればヨーロッパやアメリカに比してそこまでひどい状態とは言えない。(志村けんを失った事はほんとうに断腸の思いだが)
 ただ、これもあくまで「現時点では」であって、ほんといつ取り返しのつかない状態に陥るか分からない、まさに瀬戸際の所にいることは間違いない。

 今日は4月1日、だからといってコロナ関連の嘘をつくことはそれこそ洒落にならないので控えようという動きが世界的にあったけど、まさか日本政府自らが「エイプリルフールか?」と耳を疑うような事を言いだすことになろうとは――。

 「全世帯に布マスク2枚配布」初めて聴いた時は、てっきり誰かが飛ばしたデマかと思ったよ。それがどうやら正式発表だと分かった時はおかしな話だけど気が動転した。
 今回のコロナ対策としては、全世帯に一定の現金支給だとか「お肉券」「お魚券」といった明後日の方向のものとかいろいろ言われてたけども、蓋を開けてみれば「繰り返し使えるマスク」を「1世帯2枚」ときたもんだ。
 言っちゃあなんだがいきなり思いっ切りセコくなったと言わざるを得ない。

 百歩譲って時期を逸している。これが1か月前、3月1日に言うならばそれなりにインパクトはあったろう。この頃政府はマスクについては「現在大増産しているのでじきにこの品薄状態は解消する」と明言していた。それが結局今もなお入手困難が続いている事は見ての通り。例えばこの時点で「それまでのつなぎとして布マスク2枚配布する」とか続けてたらなかなか納得のいく処置に思えたろう。そうなってたら今日の時点で「まだ品薄状態が続いているのでさらにもう2枚配布する」とか言えたんだろうな。それならまだ恰好がつく。
 しかし今になって言っても焼け石に水で、正直失笑するしかない。

 それにしてもここにきての安倍内閣の弱腰、というか事なかれ主義は目を覆わんばかりだ。各所からの警告を受けても強制的な禁止・制限処置はなんらとらず「自粛」を求めるばかり。強制的な処置を行った場合は当然それに対する損害補償が発生するので、それがしたくないばかりに"自主判断にゆだねた"自粛という形で押し通したいのだ。
 アベノミクスと言う張子の虎が破れ、積極的な協調外交も結局うやむやになり、そして今回の世界的有事の際にもなんだかんだいって一向に積極的な政策を取れない、これが安倍政権の本当の姿なのかと今さらながら落胆してしまう。

 でもなぁ、もう奇蹟でもなんでもいい。なんとかこの新型コロナウイルスの席巻が少しでも穏便に、壊滅的な事態を回避できるよう祈るしかない。

さようなら、ノムさん


 「就職お願いします!」

 今から10年余り前、楽天クライマックスシリーズのファイナルステージで敗退し初の日本シリーズ進出の希望を断たれた試合直後のインタビューで野村監督(当時)は第一声にこう言い放った。辞める気なんかさらさらないぞ、と言わんばかりの力のこもった声だった。既に成績如何に関わらずこの年を最後に監督退任が決まっていたノムさんの、これが現場での最後の姿だった。さすがにもうこれから新たに監督要請するプロ球団はないだろう、とその時にも感じていたし、実際その通りになったが、本人は最後まであきらめてはいなかったらしい。つい最近も(どこまで本気かは分からないが)今期から新たにヤクルト監督に就任した高津に対して、自らヘッドコーチ就任を志願したというからすさまじい。さすがに実現には体力的に無理はあったけど、なんか特別顧問でもなんでもいいから何らかの形で現場復帰させてあげたかったな、と今でも思う。もう一度、最後の雄姿を見てみたい、そんな気持ちが常にあった。

 僕が野球に本格的に興味を持った昭和50年代前半は、巨人の王選手が文字通り「世界のホームラン王」として次々と記録を樹立していった時期だった。一方当時のパリーグときたら今とは比べ物にならないほど冷遇されていた時代だったが――それでもパにも王に次ぐとてつもない記録男がいることだけはなにかと伝わってきた。
 しかも、その男は南海ホークスの現役選手でありながら同時に監督でもあるという。「監督とは引退した選手がなるもの」と思い込んでいた僕は、そんなことができるとはにわかには信じがたかった。しかしそれは本当で、なんとチームの正捕手・4番打者・監督という重責3役を兼ね備え、しかもそのいずれもが球界を代表する存在だという。ますます信じられなかった。
 俄然その選手――野村克也という男に興味を持ち、いつしかパリーグでは南海ホークスを応援するようになっていった。彼のプレーに接する機会は、前述のように非常に少なかったが、それでもごく稀に中継される南海戦で活躍する彼を見て、不思議な力を感じた。そのバッティングフォームは王の一歩足打法のようにキッチリと型のあるものではない。構えててもどこにも力が入っていないかのように体がやわらかく、ゆったりとしている。しかしいざスイングが始まるとその体がやわらかさを失わないままグィンと回転し、インパクトの瞬間バットが鞭のようにしなってボールを捉える。ボールはその力をまともに受けてライナーでレフトスタンドへ…。当時もう既に全盛期を過ぎていたにも関わらず、その印象は鮮烈だった。

 当時から"智将"と言われ続け、南海をほぼ毎年のように優勝争いに加わえ続けてきたが、77年にいきなり更迭(当時はなんで辞めたのか全然分からなかった)、南海を去る事に。既に42歳という年齢から言ってそのまま引退してもおかしくはないかったのに、本人は「ボロボロになるまでやる」と宣言してロッテで一選手として現役を続行、その後創立当時の西武に移籍、45歳まで現役を続けるが、さすがにこの頃は試合出場機会も激減し、南海以外のユニフォームを着てプレーする様を見た記憶はない。でも記録を見ると現役最終年、78打席しか立ってないのにホームランを4本打っている所を見ると決して長打力は衰えているとはいえないだろう。
 現役時代はONに対して自分の事を「月見草」に例えていたが、打撃三冠(本塁打数・安打数・打点)の通算記録がすべて歴代2位というのはなんともノムさんらしい。いや、1位は王と張本が分け合ってるんだから、2位独占は立派過ぎる記録というべきだろう。

 引退後は野球解説者として活躍するが、当時やはり一番印象に残っているのは「野村スコープ」だろう。画面上にストライクゾーンを映し出し、配給を予測して「ここをこう攻めれば」とリアルタイムで解説する様は、他の解説者とは一線を画す、野球をより積極的に楽しませるものだった。
 一方この頃から講演や著述も激増。当時連載していた野球時評を集めた「負けに不思議の負けなし」(朝日文庫)を読んだりすると、その内容の深さ・角度の多彩さには心底驚いた。これほど読み応えのある野球本って、他にちょっと思いつかない。

 ただ、解説者として優秀であればあるほど「実際に指揮してみてもこんなにうまくいくはずないよな」と言われてしまうのも人情。だから9年もの解説者の実績を積み上げた後に、いきなりヤクルトの監督を任されたのには驚いた。しかも――。
 また時間を戻してしまうが、僕が野球を観始めた当時、ヤクルトは「12球団唯一優勝経験のないチーム」だった。それが広岡監督の下で悲願の初優勝を遂げるも、喜びもつかの間、程なく広岡監督はフロントと衝突して辞任。その後再びヤクルトは低迷を続け、野村の前任の関根監督は、いかにも好々爺然としていて人間的に非常に好感を持てたが、監督としての能力は正直「?」だった。そこに野村が監督として乗り込んできたのだ。
 当時のヤクルト選手は、前任者との間のあまりのギャップの大きさにとまどったという。しかし野村が打ち出した「ID野球」が選手の間に浸透するにつれチームは力を増し、就任3年目に、チーム2度目となるリーグ優勝を果たす。その後ヤクルトはセリーグの強豪チームの一員になり、結局ヤクルト監督9年間の間にリーグ優勝4回、うち日本一3回は監督としての実績として充分すぎるだろう。

 監督としての評価を決定付けて、98年にヤクルトを勇退したと思ったら、いきなり阪神タイガースの監督に迎えられたのには驚いた。しかし阪神監督としての3年間――。黒歴史と言ってもいいでしょうね。当時の阪神、本当にどうしようもないチームでしたから。

 当時、阪神にまつわるこんなジョークがあった。
 「ねえ、どうして阪神はいつも6位なの?」
 「それはね、セリーグには6球団しかないからだよ」
 つまり、最下位は当然、と言う空気だったのだ。

 とにかくめちゃくちゃ弱かった。野村も立て直しに躍起になってどうにかこうにかあがいたが結果は出ずに3年連続最下位を記録して辞任に追いやられる。しかしその時のあがきはその内部で着実に実を結び始めていた。それが後任の星野監督時代になってようやく実が結び、辞任後わずか2年でリーグ優勝を果たすまでになった。

 阪神でミソをつけて、さすがにもう野村の出番はないだろう、と思ってたら今度はいつの間にかノンプロのシダックスの監督に。しかも監督就任後それまでほとんど名を知られてなかったがシダックスをいきなり優勝させちゃうというとんでもないことをやってのける。まぁこれは「プロがノンプロ行っていい気になってる」みたいな感じがあったんだけど、2005年秋、新興球団楽天の監督に就任してまたまたまたまた驚かされる。

 この頃には野村の監督としての役割みたいなのは完全に定着していた。「弱いチームを立て直して強くする」 オーケストラの指揮者の中にも"オーケストラビルダー"と呼ばれて、音楽監督になったオケを次々と立て直す能力に秀でているタイプがいたが(往年のアンタル ドラティあたりが代表格)、野村監督もまさしくそのタイプだった。有名になった「野村再生工場」も、補強もままならないチーム状況の中で、今ある戦力をどううまく使って戦うか、と智恵を絞っていくうちに必然的に生まれていったものだという。もちろんこれに関しては批判もあり、確かにこうして"再生"なった選手も活躍したのはほんの一時で終わった人も多い。一方で彼によって潰してしまった選手も少なくないのもまた事実だ。しかし目の前にいる選手の特質を見ぬき、それをなんとか生かしてチームに貢献させるようとした結果、成功も失敗もそれだけ発生してしまった、ということだろう。決して貶される事ではないと思う。
 楽天というチームは、こういっちゃ失礼だが、まさしく野村監督の腕のふるいどころがありあまったチームだった。なにせ近鉄オリックスが合併統合する中で、はじき出された選手をかき集めて作られたチームなのだ。創立当初の戦力的な差は歴然としていた。初年度はもちろん最下位。しかも「シーズン100敗するのではないか」と本気で心配されるほどの悲惨な成績だった。それほどの状態から、就任4年目で文字通り「優勝を狙えるチーム」に鍛え上げたのだ。そのやり方についてはいろいろ言う人もいるけども、この結果の前には頭を下げるしかない。その間にも山﨑武司を二冠王に"再生"し、そして"最後の教え子"とも言うべき田中将大を育成しているのだ。運命のいたずらか退任後にはまたもや星野監督が監督に就任し、結果的に星野の許楽天は優勝を果たしたので、なんだか「星野にいいところ全部もってかれちゃう」イメージがついたのは皮肉なものだ。

 楽天監督辞任後の10年、結局予想通り野球界の現場に戻る機会には恵まれなかったが、解説・講演・執筆活動は盛んに行い続け、長年の実績が花開いた不動の地位を築き上げた幸せな晩年だったと言っていいだろう。奥さんのサッチーは正直かなり問題のある人物ではあったが、ノムさんにとっては終生変わらずかけがえのない存在だったのは疑いようがなく、その点については傍から何か言うことはできないだろう。


 そして2月11日、野村克也氏、虚血性心不全のため死去。享年84歳。

 こうしてつらつら思い出して書いてみみても、ほんと野村克也という男には一体何度"驚き"を与えられたか分からない。確かにクセのある人物だし嫌われる要素も沢山あるが、その選手として・監督として築き上げてきた実績の巨大さには感嘆するしかない。
 だからこそ、楽天最後の試合後、相手チームも交えた合同の"胴上げ"なんて前代未聞の事が実現したのだ。こんなこと、もう2度とありえないだろう。
 こんな"驚き"を与え続けてくれた巨人に長く接することができたことを、幸せに思います。

 けど、本音を言うと、あともうちょっと接していたかった…。
 先ごろ金田正一が他界し、高木守道も、昨年は星野仙一にまで先立たれた。長嶋が病に倒れて久しく、王もだいぶ前に現場を離れている。僕が野球を観始めた頃に球界を代表していた名スラッガー達が、気がつくとほんと残り少なくなっていることを実感するが、その中でもノムさんの死は特に哀しい。

ドイツクラリネットの"音"の変遷

 ウルフ ローデンホイザー・ザビーネ マイヤー・アロイス ブラントホーファー。

 この3人の名前を並べて「ははぁ」と思う人は…まずいないと思うけども、もしいたとしたら嬉しい。この3人は、1970年代から90年代初頭にかけて、カラヤン時代のベルリンフィル後期に「もうひとりのソロクラリネッティスト」として名を連ねた人達です。いずれも優れたクラリネッティストですが、興味深いのは、この3人を比較することによってドイツクラリネットの音の変遷が見えてくるような気がするのです。

 なぜ「もうひとり」かというと、この時代ベルリンフィルクラリネットには、長いことひとりの名手がいすわっていました。
 まずはそのひとり、カール ライスターの名前はクラシック音楽愛好家ならば知る人は多いでしょう。1959年、22歳の若さでベルリンフィルの首席に就任、以来30年以上の長きにわたってベルリンフィルの首席奏者であり続け、ベルリンフィルを辞めた後もソロ奏者として活躍、80歳になる頃までは毎年のように来日しては何らかの形でその演奏を披露していました。
 そして彼がいた時代のベルリンフィルの首席指揮者、それこそが"帝王"と言われたカラヤンでした。

 カラヤンベルリンフィル就任は1955年。前年の暮れに伝説的な指揮者フルトヴェングラーが首席指揮者のまま急逝し、いろいろあって後任としてカラヤンが就任した訳ですが、しかし就任当初はカラヤンもまだ若く、団員掌握には苦労したようです。なにせまわりはあのフルトヴェングラーの許で数々の名演を繰り広げた猛者ばかり。骨の髄までフルヴェンイズムが浸み込んでいる楽員に囲まれ、まったく違うタイプの音楽作りをするカラヤンはいきなり自分を強く出すことができなかったことは容易に想像できます。
 実際残されている録音を聴いても、60年代前半ぐらいまでのカラヤンベルリンフィルの演奏とそれ以降のものとでは、演奏の肌合いがかなり違って聴こえます。先日もNHKで就任後2年、1957年にこの組み合わせでの初来日した際の演奏が放映されましたが、正直「これがカラヤンか!?」とかなり驚かされました。あの、すべてをレガートで塗りつぶしたかのようなきれいだけど一面的な演奏ではなく、実に豪胆で懐の深い響きがして、けっこうアンティな僕ですら魅せられました。まだ50前のカラヤンの音楽作りには思い切りの良さがあり、この頃の演奏にはフルヴェン時代の深い響きにカラヤンのしなやかな音楽作りが絶妙にブレンドされて、フルトヴェングラーとも後年のカラヤンとも違う独自の魅力があるように思えた。

 ただちょっと驚いたのは、ベートーヴェン第5交響曲の第1楽章のオーボエソロで、アップになった奏者の顔を見たときでした。「すごく若いけど、これ、ローター コッホじゃない?」。調べてみるとコッホのベルリンフィル入団は1957年、すなわち入団直後であり、まだ22歳の若さでありながら早くもトップに抜擢されていたことが分かります。
 その2年後には前述のライスター、そしてフルートにはジェームス ゴールウェイも入団します。弦の方でもコッホと同じく57年にはカラヤン自らスイスロマンド管のミシェル シュヴァルベを抜擢してコンサートマスターに据え、団員の新陳代謝と共に徐々にカラヤンの色を強めて行きました。最初のうちは古参団員を尊重しつつじっくりあせらず、約10年かけて「カラヤンベルリンフィル」を作りげて行ったようです。

 コッホ・ライスター・ゴールウェイ…。これらの奏者の共通点は、技術的に卓越しているのはもちろんの事、いずれも大変な美音の持ち主だということです。いずれも豊かでかつまっすぐどこまでも伸びていくような、聴く者を惹きつけずにおかないような素晴らしい音を響かせてくれます。後年のカラヤンの演奏に見られる極端なまでに美しく流麗な響きを造り上げるのに、彼らの音は非常に有用だったことでしょう。
 ところでライスターの音は今でこそドイツクラリネットの代表的な音と思われていますが、当初はかなり風変わりな音ととられていたようです。なんでも先輩から「君はうまいけども変な音だね」なんてことも言われこともあったとか。実際、ライスターよりも前の世代のドイツ管の音を今聴くと、なんか「これがドイツ管なの?」と逆にとまどうことが往々にしてあるのです。例えば往年のベルリン放送響の首席であったハインリヒ ゴイザーは1950年代のドイツの代表的な名手と言われているけど、その録音を聴くと、その音はけっこう細く剛直、音が突き刺さる感じがあり、ライスターのまろやかな音とは明らかに違う。ゴイザーはモノラル録音しか残っていないが、ベルリンフィルでライスターの先輩格であったヘルベルト シュテールなども結構同傾向の音の持ち主で、こちらはステレオ録音なので必ずしも録音が古いせいとも言いきれない。その他往年のシュターツカペレ ドレスデンコンヴィチュニー時代のゲヴァントハウス管といったドイツを代表する他のオケのクラリネットを聴いてもけっこうそういう傾向があるので、当時のドイツ管クラリネットは一般的にそういう音だったのではないかと推測できます。
 そしてライスター自体、キャリアの最初の頃に録音したものを聴くと、こちらがイメージする"ライスターの音"とは明らかに違うので戸惑う。60年代に録音したブラームスモーツァルトを聴いてみてほしい。やっぱり細くて鋭く、節回しがちょっとヘロヘロした感じで僕は正直あんまり好きになれなかった。

 なのでライスター自信、ベルリンフィル入団後に音が徐々に変わっていったことが見て取れる。なぜ変わって行ったのか。どうやって(What)変わったか、というとハード面で言うと楽器のボア(内径)の設計変更やらマウスピースの仕様やらいろいろな変化が推測できるがその因果関係を簡単に明言する事は容易ではない。でもどうして(Why)変わったか、というと時代背景からしカラヤンの意向があったのでは、と考えられる。
 ベルリンフィルのイメージが強いけどもカラヤンザルツブルク生まれのオーストリア人であり、ドイツ人ではない。案外頑なで、34年にわたってベルリンフィルの首席指揮者を務めながらベルリンではいつもホテル住まいで遂に最後までベルリンに居を構えることはなかった。一方でウィーンフィルに対してに常に関係を途切れさせることなく、ベルリンフィルと仲違いした時など彼は真っ先にウィーンフィルに向かうのが常で、それは最晩年にベルリンと最終決裂した時も変わらなかった。こうしてみるとカラヤンベルリンフィルへの扱いはどこかビジネスライクで、本当の気持ちは常にウィーンフィルに向いていたように思われる。
 日本では同じ「ドイツ管」でくくられてしまう事も多いが、ドイツ式クラリネットとウィーン式クラリネットはやっぱり音色が違う。特に当時は細く剛直なドイツ式/太くやわらかなウィーン式と傾向がはっきりと分かれていたと言っていい。
 そしてライスターはベルリンフィルの首席として長年カラヤンの許でキャリアを積み上げていき、遂にはドイツ式クラリネットの代表格とまで言われるほどになった人だ。その言動からもカラヤンへの敬愛の念は強く伝わってくるもので、そのキャリアの中で、またベルリンフィルのトップとして君臨していくうえでカラヤンの嗜好に影響を受けて自分の音色を徐々にウィーン寄りに変えていった、というのは充分ありうる話だと思う。それほど楽器演奏において奏者の持つ音色のイメージはその音に強く左右される。
 結果としてライスターのクラリネットはヴーリッツァー(※ドイツを代表するクラリネット制作工房)でありながら、徐々にウィーン風のまろやかさを獲得していった。その音は当初はドイツ管らしからぬ音ととられたかもしれない。しかしカラヤンはライスターを重用し続け、カラヤンベルリンフィルのブランドの許その音色は世界を席巻していった。気がつけばライスターはドイツを代表する名手として不動の地位を確立、ライスターの音こそが代表的なドイツ管クラリネットの音と自然に思われるほどになっていた。
 その影響は他へも敷衍していく。壁に阻まれていたのにいささか解せないのだが、ゲヴァントハウス管のクラリネットの音もマズア時代になると明らかにコンヴィチュニー時代とは違い音色がまろやかになってきているのが見て取れる。

 1970年代に入ってひとつの転機が訪れる。ライスターと共にベルリンフィルのトップを務めていたシュテールが首席を降りて2番に下がり、定員2人の首席奏者に空席ができたのだ。空席を埋めるべく当然ながらオーディションが行われ、1972年、最初に名前を挙げたローデンホイザーがライスターと並んでベルリンフィルの首席になった。時はカラヤンベルリンフィルの絶頂期とも言っていい時期。だがこの頃の録音を聴くと、ソロクラリネットの音に妙な違和感を覚えることがある。ローデンホイザーがトップを吹いている1978年のジルヴェスターコンサートの模様が映像で残されているが、それを観るとどうやらローデンホイザーの音色はいわゆる昔ながらのドイツ管の音で、細く鋭いその音色はライスターとは明らかに傾向を異にしているのが分かる。
 この頃になるとライスターの音がドイツを席巻しており、既にローデンホイザーの音の方が浮いて聴こえるほどになっていた。どうやらローデンホイザーにとってベルリンフィルは必ずしも居心地のいい場所ではなかったらしく、結局10年足らずでその職を辞すことになる。そして再びベルリンフィル首席にひとつ空席ができた。

 もちろん直ちに後任の募集は行われたが、この時の空席はなかなか埋まらなかった。1年ほど空席のままエキストラで演奏会を回している中、カラヤンはひとりの女性奏者を見出していた。
 ザビーネ マイヤーだ。
 彼女は当時まだ22~23歳、ただコッホもライスターもローデンホイザーもそれぐらいの年齢でベルリンフィルに入ったのだから決して早い訳ではない。しかし10代の頃から頭角を現して、20歳そこそこでバイエルン放送響(ベルリンフィルと比肩するほどのドイツの代表的なオケ)の首席奏者に抜擢されるほどの逸材だった。そしてドイツ南部のバイエルン地方出身の彼女の音は、やはりヴーリッツァーでありながら肉厚で豊かな響きを当時から持っていた。おそらくはカラヤンの嗜好にもぴったりと合ったのだろう。マイヤーが最初にベルリンフィルに出向いたのはローデンホイザー辞任後すぐのオーディションで、その際は合格者が出なかったのだが、カラヤンはマイヤーの演奏がいたく気に入り、彼女こそはベルリンフィルの首席にふさわしいと入団させるよう強く迫ったのだ。
 だがこれは団員の猛反発にあった。マイヤーの入団に対して、団員は圧倒的多数で否決の票を投じたのだ。カラヤンはなんとかしてマイヤーを入団しようとあの手この手でごり押しし、当初はエキストラ要員、次いで支配人を巻きこんで独断で仮採用(試用期間)するに至るが、それは徒に団員を頑なにするだけで、本採用については何度はかっても「Nein」を突きつけられるだけに終わった。かくして両者の関係は決定的なまでにこじれてしまい、一時は完全に決裂するかと思われた。所謂「ザビーネ マイヤー事件」だ。
 一番の被害者はマイヤー本人と言っていい。いくら才能があると言ってもキャリアの浅い若手にすぎない。当初はカラヤンに見出されて有頂天だったかもしれないが、いざ蓋を開けてみればまわりから白い目が集中して針のむしろ。それでも2シーズンにわたって試用期間としてベルリンフィルに在籍、カラヤンはその間見せつけるかのようにマイヤーを重用したが、遂には耐えられず自らベルリンフィルを辞した。結局ベルリンフィルも、もちろんバイエルン放送響の職も失うことになった(バイエルン放送響の方の後釜には前任者のローデンホイザーが入れ替わるように入団したのだが、それはまた別の話)が、その後もう懲りたのかどこのオケに属することなくソリストとして現在も活躍し続けているのはご存じのとおり。
 しかしマイヤーの登場は「ライスター以後」のドイツ管の傾向を決定づけることになった。マイヤーの太く豊かな音は、ライスターとも違うが昔のドイツ管とは明らかに一線を画すものだ。ライスターとは親子ほども年が違う後の世代から、最初から新たなドイツ管の音を持った奏者が生まれてきたのだ。ベルリンフィルが彼女にダメ出した表向きの理由は「音が合わない」。もちろんその裏にはカラヤンへの反発はもちろん、当時はまだベルリンフィルにひとりもいなかった女性奏者に対する不安(一応、この騒動の最中に「性差が問題なのではない」ことを示すかのようにヴァイオリンに初の女性奏者を採用するに至るのだが、これもまたマイヤーがきっかけでこの動きが生まれたことは明らかだ)が背景にあったが、ライスターにとって彼女の存在は自分を「ベルリンフィルの顔」から引きずり降ろすぐらいの脅威があったと思う。なにせ自分以上の「カラヤンのお気に入り」が現われたのだから。ただ音色はともかくその資質はソリスティックでオケ向きでなかったことは言えるので、結果的に彼女がソリストの道に進んだのは必然だったかもしれない。ただ思う。彼女だってまだ若かったのだから、もしカラヤンの目に留まらずにバイエルンでオケ活動のキャリアを積んでいけば、オーケストラ奏者としても非常に優れた名手になったのではないか、と。

 結局マイヤーはベルリンフィル正式入団には至らず(しかしこれ以上ないほどの爪痕を残した)、もうひとりの首席の座はさらに空席が続いた。しかしこのような騒動があった以上その次はなかなか決まらない。一応和解したとはいえベルリンフィルカラヤンの間にはもはや以前のような信頼関係はなく、お互い慎重にならざるを得なかったのだろう。
 結局マイヤー退団から2年経った1986年(ローデンホイザー退団からは実に5年)、ようやく後任の首席奏者が正式に決定した。その名はブラントホーファー、なんと前職でウィーン響の首席を務めていた男だった。
 ライスター、そしてマイヤーとベルリンフィルクラリネットの流れはカラヤンの許ウィーンのそれに近づいてきていたが、今度はなんと本家ウィーンで実績を積んだ男が入団してきたのだ。もちろんブラントホーファーは元々ウィンナクラリネットの象徴とも言うべきハンマーシュミットの楽器を使っていたのだが、入団にあたりヴーリッツァーに持ち替えた。もっともボア(内径)をウィンナに合わせた特殊なものだったが、僕も吹いた事はあるがウィンナボアのヴーリッツァーはどう見てもハンマーシュミットではない。それでもベルリンフィルでウィーン風の素晴らしい音色を響かせて、最晩年のカラヤン時代に新風を吹き込んだとみていい。
 ただどうだろう。結局カラヤンベルリンフィルはその後も最後までぎくしゃくしたまんまだったし、カラヤンはもう思うように体が動かせなくなっていて出番も減り、往年の輝きは既にない。ベルリンフィル自体が端境期に入っていたと言えるかもしれないし、そのせいかブラントホーファーもイマイチ目立った活躍はできなかった。

 1989年、カラヤンは遂に終身だったベルリンフィルの首席指揮者を自ら降り、ウィーンフィルと活動をし始めたが、その直後に急死した。ベルリンフィルも後任のアバド時代に入り、ブラントホーファーは1992年に退団、彼もまた短命に終わった。退団後もまだしばらくの間ベルリンフィル八重奏団には参加して演奏活動を続けていたが、その頃はどうやらまた楽器をハンマーシュミットに戻したようだった。その後とんと名前を聞くことはなくなり、今どうしているのか――あまりよくない噂を耳にした事はあるが、確証がない事を記すのは控えておこうと思う。

 そして翌93年、これらをすべて見届けてきたライスターも「カラヤンのいないベルリンフィルに用はない」と言わんばかりに定年を待たずしてその席を去る。ベルリンフィルの首席クラリネットがこの時一旦流れが途切れることになった。

 そしてライスターの後任として首席に就任したのが現在も在籍しているヴェンツェル フックス。彼もまたウィーン(オーストリア放送交響楽団首席)からの転入組だった。入団にあたりブラントホーファー同様ハンマーシュミットからヴーリッツァーに持ち替えてもう四半世紀以上。ようやく久しぶりに長期で所属する首席クラリネット奏者が登場した。
 そして問題の「もうひとり」は――2001年、バイエルン放送響首席も務めたカール=ハインツ シュテフェンスが就任するが、2007年に指揮者転向するということでまたもや在籍期間6年で退団、その後またしばらく空位の後就任したのは、なんとウィーンフィルの首席を長く務めたエルンスト オッテンザマーの次男であるアンドレアスだった。即ち現在のベルリンフィルの首席は2人ともウィーン組(フックスはシュミードル門下、オッテンザマーはヒンドラー門下)なのだ。ライスターから始まったドイツクラリネットの"音"の遺伝子は後任に受け継がれていき、ドイツクラリネットの音は明らかに昔とは異なるものになって定着していた。僕などはそれこそライスターやマイヤーから入り、その音に憧れてヴーリッツァーを手にした方なので違和感はないが、自分がイメージする音が作り上げられたのがわりかし最近だという事実はけっこう不思議な気がする。

史上空前のM-1

 お笑いは好きでよく観ているが、その中でも特に楽しみにしているのは毎年12月に行われているM-1グランプリ(TV朝日)だ。この成功を受けて各局が次々とR-1グランプリ(フジTV)・キングオブコント(TBS)・The W(日本TV)といった年1回のお笑い大会を立ち上げたが、やはり最も見応えがあるのはM-1に他ならない。この日ばかりは万難を排してTVの前に待機し、毎年リアルタイムで視聴することになる。

 そして今回、今年は初めてその前の敗者復活戦から観ることになった。理由は明確。直近4年連続決勝進出・3年連続準優勝となった和牛がまさかの準決勝敗退で決勝に残れず、後はこの敗者復活戦を勝ち上がるしかなくなったからだ。しかも今年の敗者復活戦、他にも何度も決勝に進出し今や人気者の兄弟漫才ミキや、昨年の決勝で衝撃のナンセンス漫才を披露して強烈な爪痕を残したトムブラウン、最近妙に人気が出てきた四千頭身といった気になる顔ぶれがぞろぞろ。一方決勝に残った方が――よく知ってるのは かまいたち ぐらい。後は…ほとんどが初登場組で、初めて聞く名前ばかりが並んでいる。海のものとも山のものとも分からず、正直どうなる事かまったく分からなかった。

 実際、毎年楽しみに観ているが、決勝に残った漫才師のネタを観ていてもレヴェルはまちまちで、正直「なんでこれが決勝に残った?」と首をかしげざるを得ない芸人も少なくない。毎年この決勝で初めて観る人も多く、その中からその後人気者になるものもいるが、ここで観たのが最初で最後、というのも多い。例えば数年前の決勝で初めて観たメイプル超合金、彼らは非常に強烈なインパクトを観る者に与え、その後2人とも、特にカズレーザーはTVで観ない日はないというほどの売れっ子になったが、その時披露したネタは、正直"ビミョー"としか言いようのないものだった。決勝に全然知らないコンビばかり残り、むしろ敗者復活にその実力を知る顔ぶれが揃っている。敗者復活の方が実質決勝になるんじゃなかろうかと言うぐらいの当初予想だったのだ。

 しかしその予想は――嬉しいことにいい意味で覆った。全く未知数な顔ぶれだったこの決勝が、史上稀に見るハイレヴェルな戦いとなって嬉しい悲鳴を上げるほどだったのだ。「なんでこんなのが無名なんだ?」といつもとは逆の疑問が湧き出るほど、新しい個性・新しい切り口のネタを見せてくれるコンビが次々と出てきたのだ。
 まぁ1組目はイマイチだったので「またこの流れか」と予想通りだったのだが、2組目に常連かつラストチャンスの かまいたち が登場。漫才冒頭に出てきたちょっとした言い間違い(USJとUFJ)を徹底的にツッコんで捻じ曲げていき、圧巻の話芸でステージを盛り上げてくれた。このボケが決して間違いを認めず、ツッコミを凌駕するほどの口八丁で場を制していき、終いには「ひょっとしてこっちの方が間違ってんじゃ…」と常識を捻じ曲げるほどの力感はすごい。その練り上げられた話芸におそらくはラストイヤーの気迫がひしひしと感じられ、「さすが」と思わせた。圧倒的高得点で暫定1位に座ったのも納得の出来だった。

 続く3組目に早くも敗者復活枠が登場。以前「敗者復活有利」と風評が立ち、その後敗者復活枠の条件がどんどん厳しくなっていったが、今回はそれが極まった感がある。なにせ今回は決勝戦会場の建物のすぐ脇に敗者復活会場を設置、演者を決める「笑神籤」で敗者復活が引かれたその時になってから敗者復活の結果を発表、勝者は間髪入れずにすぐ隣のスタジオに移動してネタを披露しなければならないのだ。以前ならば勝ち抜いてから決勝会場に移動するまでの時間を利用して最低限ネタ合わせぐらいはできたが、今回はそんな暇(いとま)もまったくない。寒い屋外で長い事宙ぶらりんのまんま待たされた挙句、勝ち抜いた喜びを噛みしめることなく決勝の舞台に立たざるを得ないのだ。
 いくらなんでも非情じゃなかろうかと思うが、これが決勝に残れなかった者へのハンデということなのだろう。そして敗者復活枠を制したのは――やはり和牛だった。これはやはり納得の結果であり、敗者復活枠の面々(昨年衝撃を与えたトムブラウンは、あの時が最大瞬間風速だったのかな…と期待してただけにちょっと残念だった)の中では群を抜いていた。そして上がった決勝の舞台。披露したネタが敗者復活戦と同じだったのは、この条件ではしかたないことなのだろう。むしろさらに精度を上げて、持ち味である巧みな話芸で畳みかけてきたのはさすがと言う他はない。かまいたちには及ばないものの非常に高い得点を挙げ、この時点でこの2組が群を抜いた高得点で1・2位を独占。まだ序盤とはいえ、この2人を追い抜くのはおそらく難しいだろうとこの時は思った。

 ところがここからがすごかった。次の演者は すゑひろがりず。控室に「なんか知らんけど昔の三河万歳みたいな格好しているのがいる」と妙に気になっていたのだが、扇子と鼓を使って今風のネタを昔の言葉を駆使して巧みに笑いのツボを突き、その古そうで新しい掛け合いは新鮮この上ない。あっさり上位2組に続く3位に食い込んだ。しかしこの2人、新しいのに同時になにか懐かしさを感じる。そう、彼らの口調は海老一染之助染太郎を思い出させるのだ。この2人はもういないし、今度の正月、この2人の芸をまた観たいな、あちこちで呼んでくれないかな、そんなことを考えてしまう。

 しかし順番が進む先にとんでもない爆弾が待ち受けていた。その名はミルクボーイ。まったく初めて聞く名前であり、片方が角刈りと昭和なために一見昔風なしゃべくり漫才に最初は思った。ひとつのフレーズを延々と繰り返して次第にエスカレートしていくというのも昭和の漫才でよく見たパターンだけども、コーンフレークをネタに延々といじりまわしてどんどん盛り上げていき、なんかわからんうちにもう異次元レヴェルの大爆笑を生み出していった。なんだろう、一見古そうで実は新しかったという意味では すゑひろがりず と同じだが、これをなんと言っていいのか言葉が見つからない。ツッコミが突っ込み続けていくうちに「実はこっちの方がボケなんじゃ?」と自分の感覚がおかしくなっていくような感覚だった。今年TVで漫才を披露するのはこれが初めて、という無名にこんな逸材が隠れていたとは――まさしく驚嘆としか言いようがない。なんとM-1史上最高得点をたたき出してダントツの1位に躍り出た。

 そのすぐ次に出たオズワルドはすごいやりにくかっただろう。しかしこれまた無関係なものを無理矢理結びつけてぐちゃぐちゃにするようなネタを展開していて亜空間に投げ出されるような笑いに陥れ、こちらも感嘆した。
 この頃になるともう「今年のM-1はすごい」と言うことは疑いようがなかった。無名のコンビだらけだけでどうなることやらと不安になった当初予想は吹き飛び、全国から無名ながらも逸材をより集めて斬新なネタを次々と披露している。敗者復活枠の方にいいのが揃ってるなんて思ったのはとんだお門違い。彼らは皆これら無名の逸材に文字通り蹴落とされたのだ、と。オズワルドの得点は残念ながら和牛に一歩届かずに涙を飲んだが、しっかり爪跡を残したと思う。
 しかし同時にほっとしている自分がいる。この時点で1位ミルクボーイ、2位かまいたち、3位和牛と和牛が最終決戦通過ギリギリのラインに立っていた。個人的には和牛に今年こそ優勝してほしい。それも敗者復活からの劇的な逆転劇と言う最高のシナリオで、と思っていたからだ。けどこの調子では和牛の3位通過は風前の灯、もうこの次には2人を蹴落とす逸材が出てくるかもしれなかった。

 その後も決して悪くはないが及ばないコンビが続く。これならなんとか…と思ったその時、ラスト10組目に ぺこぱ が登場。しょうもないボケに対してツッコミが
一旦はツッコもうとするものの次の瞬間思い直してボケを認めてしまう、という見た事もないパターンを生み出し(番組内で「のりツッコまない」と評されていた)、その新たな角度(そのツッコミのタイプは霜降り明星粗品をちょっと彷彿させたがやっぱり違う)から斬新な笑いを生み出してまた他とは明らかに違った不思議な空間を生み出していった。観終わった途端「やばい!」と思った予感は的中。遂に和牛を2点上回り3位に食い込む。こうして和牛は今年も優勝は――というかラスト3組に残る事もなく敗退が決定してしまった。その時のインタビューで、水田が平静を装っていながら涙目になっていたのは、偽らざる心境を表わしていたんだと思う。


 そして最終決戦。3組とも自分の持ち味・特徴を生かしたネタを披露した。特に彗星の如く現れて決勝戦のすべてをかっさらったミルクボーイに注目が集まるが、今度はコーンフレークをモナカに置き換えたネタを披露。同じパターンのネタにどう評価が下るか、と思ったが、間の小ネタはすっかり入れ替わっていて「同じ器に違う料理を並べた」感じになっており、パターンが分かっているだけに笑いのツボがとらえやすく、先ほどに負けず劣らずの爆笑を誘う。結果は――圧倒的な票数を集めてミルクボーイが勝利した。いや、この評価は文句ないと思う。終わってみれば今回のM-1はミルクボーイのためにあったようなものだ。まさしく彗星の如く登場した新スターだ。もし和牛が3位に残ったとしても、この場を完全に制していたミルクボーイには到底太刀打ちできず、4年連続準優勝に終わるだけだったと思う。

 それにしてもほんと今回は今までと段違いのレヴェルの高い大会であり、最後までまったく目が離せなかった。もし昨年の覇者:霜降り明星が今大会に出ていたら、おそらく最終3組に残る事は正直難しかったと思う。まさしく「史上空前のM-1」と言っていい。そして今年の大会が「絶後」でない事を切に祈ってやまない。

 最後に――今回思ったのだが、和牛はもうM-1は卒業した方がいい。今回のネタも話芸もトップクラスだったと思う。ただ、和牛は和牛というだけでその世界が浸透されてしまい、この怒涛の新星ラッシュの中にいるとそれ故に(実力以外で)目立たなくなってしまっていた。昨年の霜降り明星・今年のミルクボーイを観ても分かるように、一発勝負の大会では実力の他に、大会の場を制し、その勢いに乗ったことによって結果が左右されることは防ぎようがない。(そしてその勢いに乗る事も芸人としての才能のうちなのだろう) 昨年、和牛は"3年連続準優勝"という名誉なんだか不名誉なんだか分からない称号を得て、「今年こそは」といろいろ模索していたようだが、それにより却って迷走していた時があったように思う。これ以上M-1にこだわり続けたら――今度は和牛が自分の世界を自ら壊して自滅してしまうリスクすら出てきたように感じる。それよりも、和牛は今までの練り上げられた路線をしっかり磨いていってほしい。そう、見渡せば偉大なる先人がいるではないか。かつてナイツはどうしてもM-1で優勝することができなかった。しかしそれでも腐ることなく自らの腕を磨き続け、今まさしく孤高の存在として君臨し、優勝経験がないにも関わらず塙はM-1に審査員として登場している。和牛はこれから、M-1勝者よりも「第2のナイツ」を目指してほしい。それだけの実力があるし、これは名誉ある撤退だと思う。

木管五重奏随想

「もしハイドン弦楽四重奏にかけた労力の10分の1でいい、木管五重奏のために割いていてくれたら…」こんな歴史のifを何度思ったことだろう。

 定期的に木管アンサンブルをやり始めて気がつくと早10数年。演奏会が終わって「次は何やるか」を考える度に、木管五重奏曲というジャンルのオリジナル曲の"層の薄さ"というものを毎回痛感させられる。"木管五重奏"というとなんとなく"弦楽四重奏"みたくひとつの確立された形態のように感じられるけど、歴史的に見るとその差は歴然としている。

 弦楽四重奏ハイドンが確立し、次いでモーツァルトが相競うように傑作を書き、さらにベートーヴェンが大きな花を咲かせた。以来室内楽の代表ジャンルとして、20世紀に至るまで数多くの大作曲家がここぞとばかりに腕を振るってきた。その結果、主要作品だけでも100に届かんばかりの傑作が綺羅星のごとく並んでいてまぶしいぐらいだ。
 一方木管五重奏曲は――そのハイドンモーツァルトの時代には存在すらしていなかった。いや、厳密には皆無というわけではないのだが、例外的にこの編成で書かれたものがいくつかある、という程度で、ジャンルとして確立されたものではない。むしろこの時代の木管アンサンブルとしてはハルモニームジークという別の形の木管多重奏の方がはるかに主要だった。標準編成としてオーボエクラリネット・ホルン・ファゴット各2本ずつの八重奏から成り、それなりに傑作が生まれているが、どちらかというとオペラのさわりを気軽に演奏できる代替形態としての意義が主であり、気軽な内容なものが多い。ベートーヴェンもそのキャリアの初期にその手の作品を数曲残したとはいえ、彼がいよいよその独自性を高め内容を深化させていく中期になると木管だけのアンサンブルからは離れて行って二度と戻る事はなかった。
 木管五重奏というジャンルが確立されたのは、奇しくもそのベートーヴェンと同じ年に生まれたライヒャ(1770-1836)によってだった。ベートーヴェンとも親交があり、当代きっての理論家・教育者として名をはせた人物との事だが、創作者としての手腕は正直なところ疑問符が残る。木管4種+ホルンという5つの楽器を組み合わせてみたきっかけも、自分の生徒たちにアンサンブルの訓練をさせるため、そのテキストとして実作したのが最初だということを聞いたことがある。むべなるかな、その作品は(対位法のお手本として実によくできていると今でも評価されているが)どうも頭で音をこねくり回して作った感がぬぐえない。ライヒャはその生涯に24曲もの木管五重奏曲を完成させ、その作品は管楽器奏者の間で今でもけっこう愛好されているとはいえ、なんというか「演奏する側に立つとそれなりの面白みがあるが、聴く側にとっては魅力に乏しい」曲のような気がする。結果として、その名は一般の(管楽器を吹かない)音楽愛好家にまでは今もなお拡がりを見せることはない。

 こうしてライヒャによって確立された木管五重奏というジャンルを引き継ぐように書いたのが、彼より7歳年長の同時代人、ダンツィ(1763-1826)だった。彼が木管五重奏曲を書いたのはその晩年、1820年代に入ってからで、時代は既に古典派からロマン派へと大きく動き出していたはずだが、ダンツィの書いた木管五重奏曲は古典の枠から大きく飛び出したものではない。そのせいか旧態依然の古臭い音楽と切り捨てられる事も少なくないが、僕はそのすべてではないにせよ、中にはキラリと光る音楽があるのを感じる。全9曲残した木管五重奏曲の中には、まるでハイドンを思わせる味わい深い作品も何曲か含まれており、もっと広く聴かれてもいいと思う。ただ彼の作品は総じてフィナーレが弱く、そのため全体の印象をぼやけさせているきらいがある。

 さて、このようにライヒャが確立し、ダンツィが引き継いだ木管五重奏曲をさらに花開かせたのは――それが誰もいないのだ。19世紀ヨーロッパには、シューベルトシューマンメンデルスゾーンブラームスドヴォルザークチャイコフスキーブルックナーマーラー・R.シュトラウス…と数多くの大作曲家が輩出したが、これらの誰一人として、木管五重奏作品を残した人はいない。先達2人にしても、弦楽四重奏ハイドンモーツァルトと比べたら格の違いは歴然としているわけで…。もちろん19世紀に木管五重奏曲を書いた人が皆無という訳ではないが、タファネル(1844-1908)やクルークハルト(1847-1902)、それにピアノ入りの魅力的な六重奏を書いたラインベルガー(1839-1901)にテュイレ(1861-1907)といった相当マニアックな名前を持ち出さなければならない。編成を木管アンサンブルとして視野を広げても、メジャーな作曲家の中では、オーボエの代わりにピアノが入った変則五重奏曲を書いたリムスキー=コルサコフ、"小交響曲"という名の木管九重奏を書いたグノー、クラリネットファゴット・ピアノの情熱的なトリオを残したグリンカ…と数曲引っかかるぐらいで、この時点で、木管五重奏というジャンルはほぼ消滅してしまったと言っていいぐらいだ。

 そんな"死に体"だった木管五重奏だが、20世紀に入ってからにわかに復権する。ニールセンを筆頭に、ホルストシェーンベルクイベール・ミヨー・ヒンデミットリゲティ・バーバーといった人たちが次々と木管五重奏のジャンルに作品を残し、またフランセやプーランクと言った木管アンサンブルに特に力を入れて様々な編成で作曲した重要な作曲家も出現、レパートリーは一気に豊かになる。大変魅力的な曲も多い。ただ――改めてその作品を俯瞰すると、ある傾向が見えてくる。一部の例外を除いては、軽い、気の利いた小品が多い。要は全体的に小粒なのだ。
 おそらくこれは木管五重奏という編成そのものが持つ宿命なのだろう。5種類の発音形体の違う楽器の組み合わせは、室内楽としては他に例のないほど多彩な音色感を持っているが、一方それ故に、作曲家はそうした音色を駆使することに興味が行ってしまい、結果的に、求心的・重厚な作風よりもこういうきらびやかな作品になってしまうのだろう。聴いていて感じ入るよりも「面白い」と感じさせる作品が並んでいる。

 やはりなんといっても古典派・ロマン派のビッグネームが1人もいないというのはさびしい。演奏会でそういった作品を入れようとすると勢い編曲ものに頼らざるを得ないのが実情だ。実際数多くの編曲譜が出版されており、もちろんいい編曲も少なくない。歴史をたどればハルモニームジークの時代だって前述のように「オケ曲やオペラを小編成で手軽に」ということで流行してきたものだから、編曲ものが当時から主流だった。となると木管五重奏に編曲ものが多いのは歴史的必然か――。できればオリジナルでいきたい気持ちはあるが、そうするとどんどんプログラムが地味になってくる。それはそれでフラストレーションがたまり、一方で「どうせなら皆によく知られている曲やりたいよなぁ」と有名曲の編曲ものに走りたくなる。これによってようやくプログラムに彩りができるのだが、やっぱりこういうものばかりだと、なんというか「他の家の庇を借りている」気になってきて、なんのために木管アンサンブルをやってるのか分からなくなってくる。

 結局これからもそういう自己矛盾を抱えつつ、オリジナルと編曲もののバランスをとったプログラムになっていくんだろうなぁ、なんて思いつつ、木管五重奏というものが置かれた状況が実に微妙な位置にある事を考えずにはいられない。