さようなら、ノムさん


 「就職お願いします!」

 今から10年余り前、楽天クライマックスシリーズのファイナルステージで敗退し初の日本シリーズ進出の希望を断たれた試合直後のインタビューで野村監督(当時)は第一声にこう言い放った。辞める気なんかさらさらないぞ、と言わんばかりの力のこもった声だった。既に成績如何に関わらずこの年を最後に監督退任が決まっていたノムさんの、これが現場での最後の姿だった。さすがにもうこれから新たに監督要請するプロ球団はないだろう、とその時にも感じていたし、実際その通りになったが、本人は最後まであきらめてはいなかったらしい。つい最近も(どこまで本気かは分からないが)今期から新たにヤクルト監督に就任した高津に対して、自らヘッドコーチ就任を志願したというからすさまじい。さすがに実現には体力的に無理はあったけど、なんか特別顧問でもなんでもいいから何らかの形で現場復帰させてあげたかったな、と今でも思う。もう一度、最後の雄姿を見てみたい、そんな気持ちが常にあった。

 僕が野球に本格的に興味を持った昭和50年代前半は、巨人の王選手が文字通り「世界のホームラン王」として次々と記録を樹立していった時期だった。一方当時のパリーグときたら今とは比べ物にならないほど冷遇されていた時代だったが――それでもパにも王に次ぐとてつもない記録男がいることだけはなにかと伝わってきた。
 しかも、その男は南海ホークスの現役選手でありながら同時に監督でもあるという。「監督とは引退した選手がなるもの」と思い込んでいた僕は、そんなことができるとはにわかには信じがたかった。しかしそれは本当で、なんとチームの正捕手・4番打者・監督という重責3役を兼ね備え、しかもそのいずれもが球界を代表する存在だという。ますます信じられなかった。
 俄然その選手――野村克也という男に興味を持ち、いつしかパリーグでは南海ホークスを応援するようになっていった。彼のプレーに接する機会は、前述のように非常に少なかったが、それでもごく稀に中継される南海戦で活躍する彼を見て、不思議な力を感じた。そのバッティングフォームは王の一歩足打法のようにキッチリと型のあるものではない。構えててもどこにも力が入っていないかのように体がやわらかく、ゆったりとしている。しかしいざスイングが始まるとその体がやわらかさを失わないままグィンと回転し、インパクトの瞬間バットが鞭のようにしなってボールを捉える。ボールはその力をまともに受けてライナーでレフトスタンドへ…。当時もう既に全盛期を過ぎていたにも関わらず、その印象は鮮烈だった。

 当時から"智将"と言われ続け、南海をほぼ毎年のように優勝争いに加わえ続けてきたが、77年にいきなり更迭(当時はなんで辞めたのか全然分からなかった)、南海を去る事に。既に42歳という年齢から言ってそのまま引退してもおかしくはないかったのに、本人は「ボロボロになるまでやる」と宣言してロッテで一選手として現役を続行、その後創立当時の西武に移籍、45歳まで現役を続けるが、さすがにこの頃は試合出場機会も激減し、南海以外のユニフォームを着てプレーする様を見た記憶はない。でも記録を見ると現役最終年、78打席しか立ってないのにホームランを4本打っている所を見ると決して長打力は衰えているとはいえないだろう。
 現役時代はONに対して自分の事を「月見草」に例えていたが、打撃三冠(本塁打数・安打数・打点)の通算記録がすべて歴代2位というのはなんともノムさんらしい。いや、1位は王と張本が分け合ってるんだから、2位独占は立派過ぎる記録というべきだろう。

 引退後は野球解説者として活躍するが、当時やはり一番印象に残っているのは「野村スコープ」だろう。画面上にストライクゾーンを映し出し、配給を予測して「ここをこう攻めれば」とリアルタイムで解説する様は、他の解説者とは一線を画す、野球をより積極的に楽しませるものだった。
 一方この頃から講演や著述も激増。当時連載していた野球時評を集めた「負けに不思議の負けなし」(朝日文庫)を読んだりすると、その内容の深さ・角度の多彩さには心底驚いた。これほど読み応えのある野球本って、他にちょっと思いつかない。

 ただ、解説者として優秀であればあるほど「実際に指揮してみてもこんなにうまくいくはずないよな」と言われてしまうのも人情。だから9年もの解説者の実績を積み上げた後に、いきなりヤクルトの監督を任されたのには驚いた。しかも――。
 また時間を戻してしまうが、僕が野球を観始めた当時、ヤクルトは「12球団唯一優勝経験のないチーム」だった。それが広岡監督の下で悲願の初優勝を遂げるも、喜びもつかの間、程なく広岡監督はフロントと衝突して辞任。その後再びヤクルトは低迷を続け、野村の前任の関根監督は、いかにも好々爺然としていて人間的に非常に好感を持てたが、監督としての能力は正直「?」だった。そこに野村が監督として乗り込んできたのだ。
 当時のヤクルト選手は、前任者との間のあまりのギャップの大きさにとまどったという。しかし野村が打ち出した「ID野球」が選手の間に浸透するにつれチームは力を増し、就任3年目に、チーム2度目となるリーグ優勝を果たす。その後ヤクルトはセリーグの強豪チームの一員になり、結局ヤクルト監督9年間の間にリーグ優勝4回、うち日本一3回は監督としての実績として充分すぎるだろう。

 監督としての評価を決定付けて、98年にヤクルトを勇退したと思ったら、いきなり阪神タイガースの監督に迎えられたのには驚いた。しかし阪神監督としての3年間――。黒歴史と言ってもいいでしょうね。当時の阪神、本当にどうしようもないチームでしたから。

 当時、阪神にまつわるこんなジョークがあった。
 「ねえ、どうして阪神はいつも6位なの?」
 「それはね、セリーグには6球団しかないからだよ」
 つまり、最下位は当然、と言う空気だったのだ。

 とにかくめちゃくちゃ弱かった。野村も立て直しに躍起になってどうにかこうにかあがいたが結果は出ずに3年連続最下位を記録して辞任に追いやられる。しかしその時のあがきはその内部で着実に実を結び始めていた。それが後任の星野監督時代になってようやく実が結び、辞任後わずか2年でリーグ優勝を果たすまでになった。

 阪神でミソをつけて、さすがにもう野村の出番はないだろう、と思ってたら今度はいつの間にかノンプロのシダックスの監督に。しかも監督就任後それまでほとんど名を知られてなかったがシダックスをいきなり優勝させちゃうというとんでもないことをやってのける。まぁこれは「プロがノンプロ行っていい気になってる」みたいな感じがあったんだけど、2005年秋、新興球団楽天の監督に就任してまたまたまたまた驚かされる。

 この頃には野村の監督としての役割みたいなのは完全に定着していた。「弱いチームを立て直して強くする」 オーケストラの指揮者の中にも"オーケストラビルダー"と呼ばれて、音楽監督になったオケを次々と立て直す能力に秀でているタイプがいたが(往年のアンタル ドラティあたりが代表格)、野村監督もまさしくそのタイプだった。有名になった「野村再生工場」も、補強もままならないチーム状況の中で、今ある戦力をどううまく使って戦うか、と智恵を絞っていくうちに必然的に生まれていったものだという。もちろんこれに関しては批判もあり、確かにこうして"再生"なった選手も活躍したのはほんの一時で終わった人も多い。一方で彼によって潰してしまった選手も少なくないのもまた事実だ。しかし目の前にいる選手の特質を見ぬき、それをなんとか生かしてチームに貢献させるようとした結果、成功も失敗もそれだけ発生してしまった、ということだろう。決して貶される事ではないと思う。
 楽天というチームは、こういっちゃ失礼だが、まさしく野村監督の腕のふるいどころがありあまったチームだった。なにせ近鉄オリックスが合併統合する中で、はじき出された選手をかき集めて作られたチームなのだ。創立当初の戦力的な差は歴然としていた。初年度はもちろん最下位。しかも「シーズン100敗するのではないか」と本気で心配されるほどの悲惨な成績だった。それほどの状態から、就任4年目で文字通り「優勝を狙えるチーム」に鍛え上げたのだ。そのやり方についてはいろいろ言う人もいるけども、この結果の前には頭を下げるしかない。その間にも山﨑武司を二冠王に"再生"し、そして"最後の教え子"とも言うべき田中将大を育成しているのだ。運命のいたずらか退任後にはまたもや星野監督が監督に就任し、結果的に星野の許楽天は優勝を果たしたので、なんだか「星野にいいところ全部もってかれちゃう」イメージがついたのは皮肉なものだ。

 楽天監督辞任後の10年、結局予想通り野球界の現場に戻る機会には恵まれなかったが、解説・講演・執筆活動は盛んに行い続け、長年の実績が花開いた不動の地位を築き上げた幸せな晩年だったと言っていいだろう。奥さんのサッチーは正直かなり問題のある人物ではあったが、ノムさんにとっては終生変わらずかけがえのない存在だったのは疑いようがなく、その点については傍から何か言うことはできないだろう。


 そして2月11日、野村克也氏、虚血性心不全のため死去。享年84歳。

 こうしてつらつら思い出して書いてみみても、ほんと野村克也という男には一体何度"驚き"を与えられたか分からない。確かにクセのある人物だし嫌われる要素も沢山あるが、その選手として・監督として築き上げてきた実績の巨大さには感嘆するしかない。
 だからこそ、楽天最後の試合後、相手チームも交えた合同の"胴上げ"なんて前代未聞の事が実現したのだ。こんなこと、もう2度とありえないだろう。
 こんな"驚き"を与え続けてくれた巨人に長く接することができたことを、幸せに思います。

 けど、本音を言うと、あともうちょっと接していたかった…。
 先ごろ金田正一が他界し、高木守道も、昨年は星野仙一にまで先立たれた。長嶋が病に倒れて久しく、王もだいぶ前に現場を離れている。僕が野球を観始めた頃に球界を代表していた名スラッガー達が、気がつくとほんと残り少なくなっていることを実感するが、その中でもノムさんの死は特に哀しい。