或るニョーボの死まで~須賀原洋行『天国ニョーボ』

 よしえサンが亡くなった――それを知った時の衝撃は今でも忘れられない。気がつくともうあれから5年以上の歳月が経っているというのに、なんだかついこの間のような気がしてしょうがないのだ。たとえ直接面識がなくとも、長年敬愛していた人の死は哀しいものだが、彼女の場合はちょっと特別な想いがある。

 須賀原洋行氏のマンガを読んだ事のある人ならば、まず間違いなく彼女の事を強烈な印象を伴って憶えていることでしょう。最初、氏の出世作『気分は形而上』の中で作者こと"漫画家S"の「OLの恋人」として初登場。その後結婚すると、彼女は漫画家のニョーボとOLの2足のわらじを履きながら、その周りの者を亜空間に吹っ飛ばすような超絶ボケを連発し、「このOLは実在する」「このニョーボは実在する」の決めゼリフの許"実在OL"もしくは"実在ニョーボ"として史上空前の大ボケマシーンとして、作品中で暴れまくった。
 その後、遂には『気分は形而上』から飛び出して『よしえサン』という単独作品で主役を張るようになるが、そのパワーは衰えるどころかますますぶっ飛んでいく。そんな中、第一子出産を機にOLは辞めてニョーボ業に専念。漫画家Sとよしえサンの2人は、現実と平行しながらその家族の様々な事を書き綴っていった。
 その後よしえサンも3人の男の子の母親となり、子供らを育てていく間に少しづつかつての大ボケっぷりは影を潜め、たくましい母親としての面が目立ってきて、子供らを、そして時おり幼児化するダンナにツッコミを入れる役が増えていった。

 まぁそれとともに、マンガとしてはかつてのギャグパワーが沈静化していくのを避けようがなく、徐々に人気も落ちついてきた。このシリーズは『よしえサンち』『実在ニョーボよしえサン日記』とタイトルと掲載誌を変えて続けていったが、変わるごとにだんだん掲載誌がマイナーになっていって追うのが困難になっていった。作品にも試行錯誤の跡が伺えたが、作者にとっては自分たち家族の記録との面も既に持ち始めていたので、ライフワークとしてなんとしてでも続ける気概を見せていた。
 僕自身、以前ほど積極的に読もうという気は失せていたが、それでも単行本が出れば必ず見つけ出して買っていたし、ダンナとニョーボ、それにタクミくん・ツクルくん・アユムくんの3人の子供を囲んだ家族の様子を観続ける事をやめようという気は起きなかった。

 しかし終わりは突然訪れた。
 シリーズのひとつとして当時連載していた『実在ゲキウマ地酒日記』。そこでもよしえサンは最終回直前まで普通に出演していた。しかしその最終回で作品世界は一変する。
 実は、この作品の連載中によしえサンは病に倒れ、もう既に荼毘に付していることを作者自ら公表したのだ。ただ、「もしものことがあってもマンガの中で生き続けられれば…」(『地酒日記』最終回より)との故人の生前の意志を尊重して、それまでまるで生きているかのように書き続けていたのだ、と。
 ただ、いつまでもそんな事が続けられるはずもない。もう既にいない人間をあたかも生きているかのように描きつづけることに強烈な重圧を感じるようになり、遂に心がぽっきりと折れ、いきなり訪れた最終回で、漫画家Sは遂に現実に向き合うことにしたらしい。

 冒頭でも述べたように、もちろん僕はよしえサンと直接の面識はない。でもこれを知った時の衝撃は、まるで身内をひとり亡くしたかと思えるほど強烈なものだった。ひとつは年齢の事もあるだろう(よしえサンは僕と同世代、ひょっとすると同い年みたいですから)。でもそれ以上に、よしえサンに出会ってからかれこれ20余年、この一家の事を、まるでたまに会う親戚のように、付かず離れず自分はずっと気にかけてきたんだな、という事に改めて気づかされた。

 今、改めて『実在ゲキウマ地酒日記』を読み返すと、作者Sのとどまるところを知らない日本酒愛にまぎれて、随所にそれまでないほどよしえサンへの愛情を気恥ずかしいまでにストレートに表出している事に気がつかされる。殊に第39話「達磨正宗」の話は泣ける。飲み手が自ら事前購入して記念日に向けて古酒に熟成させるというユニークな商品で、Sとよしえサンは記念日に向けてそれを購入しようと検討するが、気がつくと2人が既に銀婚式を過ぎていることに気づく。ひと悶着あった上、最終的に金婚式に向けて購入する事を決める。そのラベル用に2人のイラストと言葉を添えているのだが――。
  ニョーボ「よく50年も続いたわね」
  ダンナ 「続くだろ、フツー」
 ――しかし実際には、この時点で「フツー」のことが奇跡でも起こらない限り決して訪れない事は既に明白だったのだ…。

 そして最終回、よしえサンが闘病の末既に亡くなっている事を明かし、連載は唐突に終了する。わずか6ページとはいえ、その最期の壮絶さが伝わってきて鬼気迫るものがある。ほんと、作者Sにもよしえサンにも長い事お疲れ様でした、と万感の想いがあふれる最終回だった。

 こうしてすべてを明かし、よしえサンとは名実ともにお別れをして作者Sはまた新たな道を探るのだとこの時は思っていた。しかしその後の展開は思いもかけないものだった。
 死を公表した上で、新たにキャラクターとしてよしえサンの復活を図ったのだ。まずは前述『実在激ウマ地酒日記』単行本最終第2巻の巻末描き下ろしとして描かれた「帰ってきたヨッパライ編」の最後でちょっとよしえサンを復活させてみた。この時は「最後にちょっとやってみた」的なサーヴィスだと思っていたのだが、そうではなかった。並行して連載していた『よしえサンのクッキングダンナ』でも引き続き出演させていたのはもちろんのこと、更には"死後のよしえサン"をメインにした新連載まで始めたのだ。それこそはこの『天国ニョーボ』だった。

 『天国ニョーボ』は「帰ってきたヨッパライ編」の設定を引き継ぎ、Sの家に突如現れた"どこでもホホホドア"(許可取ったのか?)からよしえサンがあの世から訪れてまた一緒にいろいろとやりとりするというものだった。第1話は2人の出会いから生前を回顧した上で、突然の発病から闘病・他界からそれを公表するまでを走馬灯のように駆け抜けた後、よしえサンの「キャラクターとしての復活」を画策するもその方法に行き詰っていたところを前述"どこでもホホホドア"から本当にニョーボが還ってきて…という導入部だった。
 第2話移行はこうして「世間的にはいないことにはなっている(一般の人には姿は見えない)けども実際には家にいる」ニョーボと自分たち家族を舞台にしたメタフィクションコメディ…を目指していることは伝わってくる。なんでニョーボが戻ってこれたのか、宗教やお墓や仏壇購入にまつわる話、現実の子供に関する問題…といったものが取り上げられていくが――僕は須賀原氏のファンなのであんまりこういうのは言いたくないが、はっきりいって面白くはなかった。いや事情は知っているからあまりおおっぴらに文句は言えないけども、でも古くからのファンはともかくこのマンガで新たな読者を得るだけの力があるか…というと正直疑問を投げかけざるを得なかった。
 そしてそれは杞憂ではなかったらしい。単行本1巻弱の連載が続いた後に作品は大きく舵を切り直すことになる。その理由はおそらく内外両方の理由が考えられた。外面的には低迷する人気のテコ入れのため、そして内面的には――ニョーボへの喪失感があまりに大きく、結局よしえサンを使ってコメディを描く事自体が作者自身苦しくなったんだと思う。
 そして第16話から『天国ニョーボ』はよしえサンの闘病記へと方向転換する。まずはニョーボの野辺送りの日の回想から始まり、それから最初の病気(乳がん)が見つかった時に戻り、それからは時系列で、よくぞここまで…と思うほど微に入り細を穿ち最期に向かう日々を描写していく――。
 本当に、ここには当事者でしかうかがい知ることのできない様々な感情が渦巻いて尽きることがない。作者Sにとって、この話はいずれどうにかして描かない訳にはいかなかったという思い入れがひしひしと感じてくる。考えてみるとがんという病気はちょっと特異な特徴があり、時にはなかなか死ななかったりする。昨年遂に亡くなった樹木希林が数年前から「全身がん」を公表しながらも亡くなる直前まで精力的に仕事をこなし、「死ぬ死ぬ詐欺」なんて自嘲していたのも記憶に新しい。よしえサンも闘病の初期はわりかし普通に生活しており、病状の進行具合はどちらかというと検査の数値等でなければわからない。そんな中、がんという決定的な治療法のない(故に数多くの治療法がある)病気に対してこちらの望む治療を受け付けない現在の医療体制に対する不信感というのも随所に表れている。でもそれは結局「どの治療法が効くのか」が人によって違い、やってみないと分からないという所にすべての原因がある。
 例えば昨年本庶佑氏のノーベル医学・生理学賞受賞で一躍注目を集めたオプシーボだって効く人は限定されており、これにより劇的に病状が改善した人がいる一方、これに頼ったがために手遅れになり結果的に命を落とした人も多い。作者Sもエビデンス金科玉条のように振りかざす医者に対して強い拒絶の気持ちを抱きながらも、様々な可能性を考慮した結果結局医者の言う治療法を選択してしまう。作中でもマンガ的フィクションの手法を用いて様々な治療を試そうとパラレルワールドを彷徨うのだが、その挙句、結局すべての結論が手術に行きついてしまう様子が描かれている。誰にも本当の正解は分からないのだ。
 結果的によしえサンの選んだ道は再発→治療法のない袋小路へと進んでしまう。それだけに今になって「あの時この道を選んでいたら…」という思いが湧き出てくるのだろう。すべての結論がひとつにまとまってしまう描写は作者Sが「いや、あれでよかったのだ」と無理矢理自分を納得させようとしているようにも見える。後半、よしえサンの身体や行動にじわじわと病の影響が表れてくるともう目が離せなくなる。そしてダンナである作者Sの、ニョーボを思いやるその言動にも…。これだけの事が描けるという事は、おそらく相当細かい記録を日々取っていたのだろうと推測される。

 そして訪れる最期の日――ここから先の事は、ぜひ読んでほしい、としか部外者の僕は言う事ができない。
 正直これほどまでに読むのがつらいマンガというのも少ないと思う。いつもの通りのギャグ漫画の絵でありながら、その内容はまさしく鬼気迫り、その最期に向けた壮絶さには言葉を失う。今回改めて読み返してみても、分かっていながらいきなり慟哭のようなものがこみあげてきて思わず涙が噴き出し、気がつくと眼鏡のレンズに霧のように跡がついていた。
 だがその身を切るようなつらさが、雑誌を手にする一般読者から敬遠されたのだろう。終盤は本誌での連載を切られ、その後ネット上での掲載でかろうじて最終回を迎えた。そのラストも、いささか駆け足になったきらいがある。

 闘病記としては圧倒的な内容を持つこのマンガ、ただ全体像を見渡すと途中で方向転換した分いびつな印象を残すことは否めず、そのことが作品の評価を難しくしている。しかし作者Sにしてみれば、公私ともに長年連れ添った大切な人を失ったその痛みを乗り越えるために、3人の子供とともにこれから"生きて"いくためにも、是が非でも書かなくてはいられなかった壮大なレクイエムのように感じられるのだ。
「マンガで子供たちをちゃんと食べさせるのよ。(中略) 必要なら、わたしの闘病記だって描いていいから。(中略) 治らなくても描くのよ。それでちゃんと稼げて、子供たちを養えるんなら、描くのがどんなにしんどい話になっても描くのよ」(『天国ニョーボ』より) よしえサンが生前言い遺したこの言葉で、須賀原氏はおそらく何度も何度も自分を鼓舞していたに違いない。

 実は須賀原氏がこれをもってよしえサンを描くのを辞めた訳ではない。今も描きつづけている『クッキングダンナ』シリーズによしえサンは今も登場し続けている。ただ――なんだろう、『天国ニョーボ』完結後、その存在感がだんだん希薄になってきているのだ。代わりに遺された3人の子供たち、彼らとのやりとりが生き生きと活写されることが多くなっている。
 マンガの中で生き続けたい…。よしえサンが遺したというその言葉を今も忠実に守っているのだろうが、年を経るにつれて彼女のいない、子供たちとの生活が徐々に日常になってきているのが感じられる。そしてある時気づいたら「あれ、そういえば最近よしえサン全然出てこないな」ということになっている日が来るのかもしれない。

 でも、それでいいのだろう。