これはアジモフとはいえないな~映画「アイ, ロボット」

 コロナ禍のおかげで最近は家にいることが多く、休みの日などTVに向かう時間が格段に増えた。で、そんな時、以前録画して(いつか観よう)とそのままになっている映画をこの機会にちゃんと観る機会も出てきて、徐々にHDに空きが増えて行った。
 そうして観た映画のひとつが「アイ, ロボット」(2004年公開)だ。そのタイトルはアジモフの代表作「われはロボット」の原題と同じであり、実際彼が案出した「ロボット工学3原則」に基づいて作られているという。そのため公開当時から気になっていた映画だった。

 アジモフの作品は学生時代に集中的に読みこんだ。自分自身はSFマニアとは到底言えない浅いSFファンだけども、アジモフに関してだけはかなり耽溺したという自負がある。特に「銀河帝国興亡史」に夢中になったクチだが、一方で彼が生涯にわたって書き継いできたロボットものにももちろん好きだった。(ついでに言うと「黒後家蜘蛛の会」を始めとするミステリーも、膨大な科学エッセイもどれも手当たり次第に読んだ) 殊に、第1作品集「われはロボット」中の「うそつき!」を読んだ時の衝撃は忘れられない。「これぞSFだ!」と当時感嘆してたっけ。

 そんな経験を持つ自分が「アイ, ロボット」が気にならないはずない。一方で原作厨としての不安も。なにせなにやら耳に入ってくる前情報によると、別にアジモフ作品を原作とした映画化ではなく、一応アジモフの作品世界に則っているとはストーリーは全くなオリジナルで、結局別物だというのだから。
 なので結局気になりつつも映画館に出向くこともなくそのままやり過ごしていた。そして去年BSでノーカット放映されると聞いてとりあえず録画したものの、そのまま何カ月もほおっておいたのだ。

 始まってすぐ、冒頭から「ロボット工学3原則」はちゃんと提示される。ロボットが生活の中にすっかり普及した近未来社会の中、ロボット工学の第1人者たる博士が突然自社ビルから飛び降りて死亡する。誰もが自殺だと考えるが、ただひとり、主人公の刑事だけは「ロボットによる殺人」の疑いを持ち続け――。ロボット工学3原則により他の人は殺人の不可能性を疑わず、ひとり暴走する主人公は次第に孤立する。その主人公と相対するヒロインの名はスーザン カルヴィン博士。原作ではシリーズ最大の重要人物だが、これも名前だけ同じでキャラ的には別人とみていい。

 全体のストーリーは結局「ロボットの(人類に対する)反乱」であり、そのテーマ自体は結局ロボットと言う言葉が初めて生まれたチャペックの戯曲「R.U.R.」の時から提示されており目新しいものではない。というかロボットもののフィクションに一番ありがちなテーマであり、こういう所謂「フランケンシュタイン コンプレックス」からの脱却を図ったのがアジモフのロボットもの、そして「3原則」なのだ。
 アジモフのロボットシリーズのテーマとして根底に流れるのはこの「3原則」に基づく様々なヴァリエーションである。作品世界の中で一見3原則にそぐわない行動をとるロボットが出現し、それがその「3原則」のいかなる解釈でそうなったか、を探り、解決していくのがアジモフのロボットものの主眼なんだが、結局映画はそこをあっさり飛び越してシンプルなバトルアクションものにしてしまった。

 だからやっぱりこの映画はアジモフをはまったくかけ離れたものと言わざるを得ない。ただこの3原則を無視して「ロボットの反乱」を引き起こした理由と言うのが、実はアジモフ自身が晩年に提示した「第1原則のさらに上位にある"第0原則"」が元アイディアになっている事がミソか。にしても原作ではだからといってこんな展開には決してならない。原作のロボットは基本的にもっと思索的で直接的暴力に訴えることはない。映画ではここの造りが非常に粗削りなものになっていた。正直「ここまで単純化しなければハリウッド映画にはならないのか」と内心ちょっとあきれてしまった。

 ただし一応弁護すると、そういった"原作厨"的な考えを捨て去りさえすれば、CG造形されたロボットNS-5が大量に画面狭しと整然と行進し、一斉に暴れまくる様は異様な迫力に満ちており、それなりに見応えがあったのは確かだ。ロボットの中で唯一キャラとして特定したサニーの立場というのもかなり凝っていて面白い。しかし暴力的な内容は極力排してロジカルな展開を一貫して目指したアジモフ作品とはかけ離れていると言わざるを得ない。

 エンドタイトルの中でアジモフの名は「suggested by」とクレジットされている。まぁ日本語に直せば「原案」とするのが一番近いだろう。確かに一応アジモフの原作世界が根底にあるとはいえ、やはりそれ以上のものではない、と肝に銘じてあくまで別物としてして楽しむのが吉だろう。