ドイツクラリネットの"音"の変遷

 ウルフ ローデンホイザー・ザビーネ マイヤー・アロイス ブラントホーファー。

 この3人の名前を並べて「ははぁ」と思う人は…まずいないと思うけども、もしいたとしたら嬉しい。この3人は、1970年代から90年代初頭にかけて、カラヤン時代のベルリンフィル後期に「もうひとりのソロクラリネッティスト」として名を連ねた人達です。いずれも優れたクラリネッティストですが、興味深いのは、この3人を比較することによってドイツクラリネットの音の変遷が見えてくるような気がするのです。

 なぜ「もうひとり」かというと、この時代ベルリンフィルクラリネットには、長いことひとりの名手がいすわっていました。
 まずはそのひとり、カール ライスターの名前はクラシック音楽愛好家ならば知る人は多いでしょう。1959年、22歳の若さでベルリンフィルの首席に就任、以来30年以上の長きにわたってベルリンフィルの首席奏者であり続け、ベルリンフィルを辞めた後もソロ奏者として活躍、80歳になる頃までは毎年のように来日しては何らかの形でその演奏を披露していました。
 そして彼がいた時代のベルリンフィルの首席指揮者、それこそが"帝王"と言われたカラヤンでした。

 カラヤンベルリンフィル就任は1955年。前年の暮れに伝説的な指揮者フルトヴェングラーが首席指揮者のまま急逝し、いろいろあって後任としてカラヤンが就任した訳ですが、しかし就任当初はカラヤンもまだ若く、団員掌握には苦労したようです。なにせまわりはあのフルトヴェングラーの許で数々の名演を繰り広げた猛者ばかり。骨の髄までフルヴェンイズムが浸み込んでいる楽員に囲まれ、まったく違うタイプの音楽作りをするカラヤンはいきなり自分を強く出すことができなかったことは容易に想像できます。
 実際残されている録音を聴いても、60年代前半ぐらいまでのカラヤンベルリンフィルの演奏とそれ以降のものとでは、演奏の肌合いがかなり違って聴こえます。先日もNHKで就任後2年、1957年にこの組み合わせでの初来日した際の演奏が放映されましたが、正直「これがカラヤンか!?」とかなり驚かされました。あの、すべてをレガートで塗りつぶしたかのようなきれいだけど一面的な演奏ではなく、実に豪胆で懐の深い響きがして、けっこうアンティな僕ですら魅せられました。まだ50前のカラヤンの音楽作りには思い切りの良さがあり、この頃の演奏にはフルヴェン時代の深い響きにカラヤンのしなやかな音楽作りが絶妙にブレンドされて、フルトヴェングラーとも後年のカラヤンとも違う独自の魅力があるように思えた。

 ただちょっと驚いたのは、ベートーヴェン第5交響曲の第1楽章のオーボエソロで、アップになった奏者の顔を見たときでした。「すごく若いけど、これ、ローター コッホじゃない?」。調べてみるとコッホのベルリンフィル入団は1957年、すなわち入団直後であり、まだ22歳の若さでありながら早くもトップに抜擢されていたことが分かります。
 その2年後には前述のライスター、そしてフルートにはジェームス ゴールウェイも入団します。弦の方でもコッホと同じく57年にはカラヤン自らスイスロマンド管のミシェル シュヴァルベを抜擢してコンサートマスターに据え、団員の新陳代謝と共に徐々にカラヤンの色を強めて行きました。最初のうちは古参団員を尊重しつつじっくりあせらず、約10年かけて「カラヤンベルリンフィル」を作りげて行ったようです。

 コッホ・ライスター・ゴールウェイ…。これらの奏者の共通点は、技術的に卓越しているのはもちろんの事、いずれも大変な美音の持ち主だということです。いずれも豊かでかつまっすぐどこまでも伸びていくような、聴く者を惹きつけずにおかないような素晴らしい音を響かせてくれます。後年のカラヤンの演奏に見られる極端なまでに美しく流麗な響きを造り上げるのに、彼らの音は非常に有用だったことでしょう。
 ところでライスターの音は今でこそドイツクラリネットの代表的な音と思われていますが、当初はかなり風変わりな音ととられていたようです。なんでも先輩から「君はうまいけども変な音だね」なんてことも言われこともあったとか。実際、ライスターよりも前の世代のドイツ管の音を今聴くと、なんか「これがドイツ管なの?」と逆にとまどうことが往々にしてあるのです。例えば往年のベルリン放送響の首席であったハインリヒ ゴイザーは1950年代のドイツの代表的な名手と言われているけど、その録音を聴くと、その音はけっこう細く剛直、音が突き刺さる感じがあり、ライスターのまろやかな音とは明らかに違う。ゴイザーはモノラル録音しか残っていないが、ベルリンフィルでライスターの先輩格であったヘルベルト シュテールなども結構同傾向の音の持ち主で、こちらはステレオ録音なので必ずしも録音が古いせいとも言いきれない。その他往年のシュターツカペレ ドレスデンコンヴィチュニー時代のゲヴァントハウス管といったドイツを代表する他のオケのクラリネットを聴いてもけっこうそういう傾向があるので、当時のドイツ管クラリネットは一般的にそういう音だったのではないかと推測できます。
 そしてライスター自体、キャリアの最初の頃に録音したものを聴くと、こちらがイメージする"ライスターの音"とは明らかに違うので戸惑う。60年代に録音したブラームスモーツァルトを聴いてみてほしい。やっぱり細くて鋭く、節回しがちょっとヘロヘロした感じで僕は正直あんまり好きになれなかった。

 なのでライスター自信、ベルリンフィル入団後に音が徐々に変わっていったことが見て取れる。なぜ変わって行ったのか。どうやって(What)変わったか、というとハード面で言うと楽器のボア(内径)の設計変更やらマウスピースの仕様やらいろいろな変化が推測できるがその因果関係を簡単に明言する事は容易ではない。でもどうして(Why)変わったか、というと時代背景からしカラヤンの意向があったのでは、と考えられる。
 ベルリンフィルのイメージが強いけどもカラヤンザルツブルク生まれのオーストリア人であり、ドイツ人ではない。案外頑なで、34年にわたってベルリンフィルの首席指揮者を務めながらベルリンではいつもホテル住まいで遂に最後までベルリンに居を構えることはなかった。一方でウィーンフィルに対してに常に関係を途切れさせることなく、ベルリンフィルと仲違いした時など彼は真っ先にウィーンフィルに向かうのが常で、それは最晩年にベルリンと最終決裂した時も変わらなかった。こうしてみるとカラヤンベルリンフィルへの扱いはどこかビジネスライクで、本当の気持ちは常にウィーンフィルに向いていたように思われる。
 日本では同じ「ドイツ管」でくくられてしまう事も多いが、ドイツ式クラリネットとウィーン式クラリネットはやっぱり音色が違う。特に当時は細く剛直なドイツ式/太くやわらかなウィーン式と傾向がはっきりと分かれていたと言っていい。
 そしてライスターはベルリンフィルの首席として長年カラヤンの許でキャリアを積み上げていき、遂にはドイツ式クラリネットの代表格とまで言われるほどになった人だ。その言動からもカラヤンへの敬愛の念は強く伝わってくるもので、そのキャリアの中で、またベルリンフィルのトップとして君臨していくうえでカラヤンの嗜好に影響を受けて自分の音色を徐々にウィーン寄りに変えていった、というのは充分ありうる話だと思う。それほど楽器演奏において奏者の持つ音色のイメージはその音に強く左右される。
 結果としてライスターのクラリネットはヴーリッツァー(※ドイツを代表するクラリネット制作工房)でありながら、徐々にウィーン風のまろやかさを獲得していった。その音は当初はドイツ管らしからぬ音ととられたかもしれない。しかしカラヤンはライスターを重用し続け、カラヤンベルリンフィルのブランドの許その音色は世界を席巻していった。気がつけばライスターはドイツを代表する名手として不動の地位を確立、ライスターの音こそが代表的なドイツ管クラリネットの音と自然に思われるほどになっていた。
 その影響は他へも敷衍していく。壁に阻まれていたのにいささか解せないのだが、ゲヴァントハウス管のクラリネットの音もマズア時代になると明らかにコンヴィチュニー時代とは違い音色がまろやかになってきているのが見て取れる。

 1970年代に入ってひとつの転機が訪れる。ライスターと共にベルリンフィルのトップを務めていたシュテールが首席を降りて2番に下がり、定員2人の首席奏者に空席ができたのだ。空席を埋めるべく当然ながらオーディションが行われ、1972年、最初に名前を挙げたローデンホイザーがライスターと並んでベルリンフィルの首席になった。時はカラヤンベルリンフィルの絶頂期とも言っていい時期。だがこの頃の録音を聴くと、ソロクラリネットの音に妙な違和感を覚えることがある。ローデンホイザーがトップを吹いている1978年のジルヴェスターコンサートの模様が映像で残されているが、それを観るとどうやらローデンホイザーの音色はいわゆる昔ながらのドイツ管の音で、細く鋭いその音色はライスターとは明らかに傾向を異にしているのが分かる。
 この頃になるとライスターの音がドイツを席巻しており、既にローデンホイザーの音の方が浮いて聴こえるほどになっていた。どうやらローデンホイザーにとってベルリンフィルは必ずしも居心地のいい場所ではなかったらしく、結局10年足らずでその職を辞すことになる。そして再びベルリンフィル首席にひとつ空席ができた。

 もちろん直ちに後任の募集は行われたが、この時の空席はなかなか埋まらなかった。1年ほど空席のままエキストラで演奏会を回している中、カラヤンはひとりの女性奏者を見出していた。
 ザビーネ マイヤーだ。
 彼女は当時まだ22~23歳、ただコッホもライスターもローデンホイザーもそれぐらいの年齢でベルリンフィルに入ったのだから決して早い訳ではない。しかし10代の頃から頭角を現して、20歳そこそこでバイエルン放送響(ベルリンフィルと比肩するほどのドイツの代表的なオケ)の首席奏者に抜擢されるほどの逸材だった。そしてドイツ南部のバイエルン地方出身の彼女の音は、やはりヴーリッツァーでありながら肉厚で豊かな響きを当時から持っていた。おそらくはカラヤンの嗜好にもぴったりと合ったのだろう。マイヤーが最初にベルリンフィルに出向いたのはローデンホイザー辞任後すぐのオーディションで、その際は合格者が出なかったのだが、カラヤンはマイヤーの演奏がいたく気に入り、彼女こそはベルリンフィルの首席にふさわしいと入団させるよう強く迫ったのだ。
 だがこれは団員の猛反発にあった。マイヤーの入団に対して、団員は圧倒的多数で否決の票を投じたのだ。カラヤンはなんとかしてマイヤーを入団しようとあの手この手でごり押しし、当初はエキストラ要員、次いで支配人を巻きこんで独断で仮採用(試用期間)するに至るが、それは徒に団員を頑なにするだけで、本採用については何度はかっても「Nein」を突きつけられるだけに終わった。かくして両者の関係は決定的なまでにこじれてしまい、一時は完全に決裂するかと思われた。所謂「ザビーネ マイヤー事件」だ。
 一番の被害者はマイヤー本人と言っていい。いくら才能があると言ってもキャリアの浅い若手にすぎない。当初はカラヤンに見出されて有頂天だったかもしれないが、いざ蓋を開けてみればまわりから白い目が集中して針のむしろ。それでも2シーズンにわたって試用期間としてベルリンフィルに在籍、カラヤンはその間見せつけるかのようにマイヤーを重用したが、遂には耐えられず自らベルリンフィルを辞した。結局ベルリンフィルも、もちろんバイエルン放送響の職も失うことになった(バイエルン放送響の方の後釜には前任者のローデンホイザーが入れ替わるように入団したのだが、それはまた別の話)が、その後もう懲りたのかどこのオケに属することなくソリストとして現在も活躍し続けているのはご存じのとおり。
 しかしマイヤーの登場は「ライスター以後」のドイツ管の傾向を決定づけることになった。マイヤーの太く豊かな音は、ライスターとも違うが昔のドイツ管とは明らかに一線を画すものだ。ライスターとは親子ほども年が違う後の世代から、最初から新たなドイツ管の音を持った奏者が生まれてきたのだ。ベルリンフィルが彼女にダメ出した表向きの理由は「音が合わない」。もちろんその裏にはカラヤンへの反発はもちろん、当時はまだベルリンフィルにひとりもいなかった女性奏者に対する不安(一応、この騒動の最中に「性差が問題なのではない」ことを示すかのようにヴァイオリンに初の女性奏者を採用するに至るのだが、これもまたマイヤーがきっかけでこの動きが生まれたことは明らかだ)が背景にあったが、ライスターにとって彼女の存在は自分を「ベルリンフィルの顔」から引きずり降ろすぐらいの脅威があったと思う。なにせ自分以上の「カラヤンのお気に入り」が現われたのだから。ただ音色はともかくその資質はソリスティックでオケ向きでなかったことは言えるので、結果的に彼女がソリストの道に進んだのは必然だったかもしれない。ただ思う。彼女だってまだ若かったのだから、もしカラヤンの目に留まらずにバイエルンでオケ活動のキャリアを積んでいけば、オーケストラ奏者としても非常に優れた名手になったのではないか、と。

 結局マイヤーはベルリンフィル正式入団には至らず(しかしこれ以上ないほどの爪痕を残した)、もうひとりの首席の座はさらに空席が続いた。しかしこのような騒動があった以上その次はなかなか決まらない。一応和解したとはいえベルリンフィルカラヤンの間にはもはや以前のような信頼関係はなく、お互い慎重にならざるを得なかったのだろう。
 結局マイヤー退団から2年経った1986年(ローデンホイザー退団からは実に5年)、ようやく後任の首席奏者が正式に決定した。その名はブラントホーファー、なんと前職でウィーン響の首席を務めていた男だった。
 ライスター、そしてマイヤーとベルリンフィルクラリネットの流れはカラヤンの許ウィーンのそれに近づいてきていたが、今度はなんと本家ウィーンで実績を積んだ男が入団してきたのだ。もちろんブラントホーファーは元々ウィンナクラリネットの象徴とも言うべきハンマーシュミットの楽器を使っていたのだが、入団にあたりヴーリッツァーに持ち替えた。もっともボア(内径)をウィンナに合わせた特殊なものだったが、僕も吹いた事はあるがウィンナボアのヴーリッツァーはどう見てもハンマーシュミットではない。それでもベルリンフィルでウィーン風の素晴らしい音色を響かせて、最晩年のカラヤン時代に新風を吹き込んだとみていい。
 ただどうだろう。結局カラヤンベルリンフィルはその後も最後までぎくしゃくしたまんまだったし、カラヤンはもう思うように体が動かせなくなっていて出番も減り、往年の輝きは既にない。ベルリンフィル自体が端境期に入っていたと言えるかもしれないし、そのせいかブラントホーファーもイマイチ目立った活躍はできなかった。

 1989年、カラヤンは遂に終身だったベルリンフィルの首席指揮者を自ら降り、ウィーンフィルと活動をし始めたが、その直後に急死した。ベルリンフィルも後任のアバド時代に入り、ブラントホーファーは1992年に退団、彼もまた短命に終わった。退団後もまだしばらくの間ベルリンフィル八重奏団には参加して演奏活動を続けていたが、その頃はどうやらまた楽器をハンマーシュミットに戻したようだった。その後とんと名前を聞くことはなくなり、今どうしているのか――あまりよくない噂を耳にした事はあるが、確証がない事を記すのは控えておこうと思う。

 そして翌93年、これらをすべて見届けてきたライスターも「カラヤンのいないベルリンフィルに用はない」と言わんばかりに定年を待たずしてその席を去る。ベルリンフィルの首席クラリネットがこの時一旦流れが途切れることになった。

 そしてライスターの後任として首席に就任したのが現在も在籍しているヴェンツェル フックス。彼もまたウィーン(オーストリア放送交響楽団首席)からの転入組だった。入団にあたりブラントホーファー同様ハンマーシュミットからヴーリッツァーに持ち替えてもう四半世紀以上。ようやく久しぶりに長期で所属する首席クラリネット奏者が登場した。
 そして問題の「もうひとり」は――2001年、バイエルン放送響首席も務めたカール=ハインツ シュテフェンスが就任するが、2007年に指揮者転向するということでまたもや在籍期間6年で退団、その後またしばらく空位の後就任したのは、なんとウィーンフィルの首席を長く務めたエルンスト オッテンザマーの次男であるアンドレアスだった。即ち現在のベルリンフィルの首席は2人ともウィーン組(フックスはシュミードル門下、オッテンザマーはヒンドラー門下)なのだ。ライスターから始まったドイツクラリネットの"音"の遺伝子は後任に受け継がれていき、ドイツクラリネットの音は明らかに昔とは異なるものになって定着していた。僕などはそれこそライスターやマイヤーから入り、その音に憧れてヴーリッツァーを手にした方なので違和感はないが、自分がイメージする音が作り上げられたのがわりかし最近だという事実はけっこう不思議な気がする。