哀悼 吾妻ひでお

 「えっ…」
 その訃報を知った時、仕事中にもかかわらず、しばらく意識が遠のいてしまった。

 まさか…。いや、到底長生きができないような身体だというのは承知していたが、ほんの少し前に「不条理日記 完全版」(復刊ドットコム)を入手して往年の大傑作を改めて通読し、そこにまた2ページとはいえ新作を寄稿していたものだから、まだ"その時"は先の話だ、と勝手に思い込んでいたのだ。でも聞くと食道がんで闘病生活を強いられていたという。全然知らなかった。(その本のあとがきで「薬の副作用が凄い」と確かに書かれていたけども――抗がん剤のことだったのか、と今さらながら気づく)
 いろんな想いが交錯し、自分にとってこの人の作品がこんなにも大きな存在だったんだと改めて思い知らされる。記憶をたぐると…マンガ家の死にこれほどのショックを受けた事って、手塚治虫藤本弘(藤子・F・不二雄)に次いで3人目だと思う。それほどまでに自分にとって多くを占めているマンガ家だったんだと、ほんと今さらながら痛感した。

 初めてその作品に触れたのは――実は定かでない。70年代のチャンピオン全盛期(「ドカベン」「ブラックジャック」「がきデカ」「マカロニほうれん荘」といった一世を風靡する大ヒット作が目白押しだった)に連載を持っていたから、その時の作品のうちどれかを自然に目にしていたんだと思うけど、当時特に印象に残ってはいなかったのだろう。でもなんとなく名前とその絵柄は認識していた。

 ちゃんとその作品を意識したのは…単独作品ではなく「ひでおと素子の愛の交換日記」が最初だと思う。当時まだ新進作家だった新井素子がエッセイを書き、吾妻ひでおが絵を描く。かといって挿絵と言う訳ではなく、本当にお互いが内容にどんどん入り込んできてほとんど掛け合い漫才のような絶妙なやりとりがたまらなく面白かった。両者どちらにも負けず劣らずセンスの高さを感じ、2人の作品をじっくり読んでみたいとこの時思った。で新井素子の小説を読んでみたらそのいくつかはこちらでも吾妻ひでおが表紙や挿絵を描いていて、気がつくとハヤカワ文庫SFの表紙を吾妻ひでおが飾っているのをみて親しみを覚えた。

 でも、僕が彼の真価に気づいたのは、成人してからたまたま古本屋で買った「不条理日記」だった。その時の感興は「なんだこれは!!!!」のひと言。数コマで構成される短いエピソードの連続のような作品だが、そのひとつひとつがほとんど意味をなさない、ただどれにも鮮烈なイメージが炸裂して畳みかけられる。どうやらあるSF作品のパロディのようなものも混じっていて元ネタが分かるとニヤリとするが、分からなくてもそのイメージの飛躍ぐあいに打ちのめされる。なんだかよくわからない、けどこれは間違いなくSFだ。ナンセンスSFとも言うべきまったく新しい世界に打ち震えるような感動に襲われたのをはっきり憶えている。

 さぁそれからは、見つけるそばから吾妻ひでおを買いまくった。幸いその頃ちょうど古本屋を丹念に探すと隅っこにけっこう単行本が掘り起こせて、気がつくとかなりの数が手許に集まってきた。「メチルメタフィジーク」「パラレル狂室」「狂乱星雲記」「どーでもいんなーすぺーす」…どれも目を瞠る作品群だが、とくに「るなてっく」№1を読んだ時の衝撃はトラウマ級だった。どれも掌編と言っていい短い作品だが、その限られたページの中でSF的世界に一気に巻き上げられてしまうすさまじい推進力。そのスタートダッシュのすさまじさは尋常ではない。この時、僕の中で吾妻ひでおは初めて"驚嘆すべき作家"になった。

 だがこれらの作品はあまりにとんがり過ぎてて一般的な人気を得るものではない。当時は知らなかったのだがこれらの作品の多くは同人誌や自販機で売られるエロマンガ誌というあまりにもマイナーな場所で発表されており、「不条理日記」の中でもその状況を「人間界の仕事がだんだんへってゆく」と揶揄している。

 その対策と言う訳ではないだろうが、もう一つの鉱脈として"美少女マンガ家"という路線を発掘していく。元々「出てくる女の子がすごいかわいい」との評判があったが、それに磨きをかけて、所謂"萌えマンガ"の嚆矢のひとりと言っていい存在となっていった。そちらの方でも多くの作品を残したが、正直僕はこちらの方はさして興味が湧かなかった。しかしその路線でもただでは置かない。その中に吾妻的SFテイストを徐々に織り込み始めたのだ。その路線でありながら思い切りぶっとばしてくれた「やけくそ天使」は稀に見る大怪作となったし、美少女路線の中にこっそりSFテイストを混ぜ込んでみせた「ななこSOS」はアニメ化もされて、おそらく彼の一番のヒット作となった。そしてSFテイストと美少女路線を高次元で融合させた「スクラップ学園」を発表、これはある意味"究極の吾妻ひでお作品"とも言っていいかもしれない。

 この時期、吾妻ひでおはマンガ界(のごく一部の領域)で頂点に立ったといっていい。80年代の前半、彼の作品は様々な所で求められる存在になり、作品数も多い。ただ多忙の中で彼は急速に疲弊していった。

 80年代の後半、吾妻ひでおの名は急激にマンガ界から消えていった(実を言うと僕が彼を知ったのにはタイムラグがあり、この頃にようやく「不条理日記」を手にしたのだ)。だからその事に気づいたのはだいぶ後になってからだが――その期間は約10年にも及んだ。

 その"消えた10年"の間に何があったのか、それを自ら明かしたのは実に2005年の「失踪日記」によってだった。仕事から逃げ出すために失踪し、文字通り家族からも行方不明になり、なりゆきで配管工として働いていた期間、相前後して酒におぼれ、その結果アルコール依存症を発症して入院・断酒生活を余儀なくされた日々。これらを赤裸々に、しかしユーモアを絶やさずに綴ったこれら一連の作品により、吾妻ひでおは晩年にまさかの大復活を遂げた。人気絶頂のさ中に連載を放り出して失踪した作家が、こんな風に盛り返すというのはほとんど例がないのではないだろうか。
 「失踪日記」とその続編「アル中病棟」は吾妻ひでおが最後の力を振り絞った渾身の作だった。これにより彼は晩年にして不動の地位を得、その後の作品は言わばその余力で描いていたと言っていい。言わばこの時点では吾妻ひでおの作風そのものが一般にも"芸"として認められたのだ。「ぶらぶらひでお絵日記」や「カオスノート」などは日々の思いつきの断片をただ寄せ集めたといっていい本だが、読者はその中に往年の吾妻テイストを見出して楽しめてしまう、それだけ吾妻ひでおの"芸風"が一般に浸透していたのだ。
 実際、長年の不摂生で彼にはもう新たにきちんと作品をまとめるだけの力が肉体的に残されてはいなかった。だが、かつて志ん生が高座で居眠りしてただけ笑いが取れてしまったという伝説と同様、吾妻ひでおも何かを発するだけで充分面白い、そういう領域に達していたのだ。そんな中で彼の旧作の再評価もどんどんなされ、復刊もいろんな形で進んでいく――。いろいろ紆余曲折はあったが、マンガ家としては幸福な晩年だったと思う。

 こうして振り返ると、ほんとうにとてつもない人だったとつくづく改めて思う。ゆっくりお休みください。そして、彼が生み出したこの名フレーズをもって彼を送り出したいと思う。

 

 クルムヘトロジャンの「へろ」!