「号外」症候群 ~"おたく"試論

 "平成"が終わった。
 生まれてから成人するまでどっぷり昭和に浸かっていた世代としては、先の改元時、平成という語感になかなか馴染めずに居心地の悪さを感じていたものだが、あれから30年、気がつくと自分にとって昭和よりも長い時間を過ごしており、いつしかすっかり馴染み深いものになっていた。
 新元号"令和"に関しては、さすがに生まれて2度目の改元のせいかそれほどの違和感もなく、(ただ確かに「"命令"の"令"か」と引っかからなかったと言えば嘘になるが)「けっこうかっこいいじゃん」と得心したが、こうなってみるとやっぱり平成とはどういう時代だったのか、とついつい振り返ってしまう。

 その流れでふと、「平成を代表する言葉と言えばなんだろう」なんて考えていくうちに、昭和にはほとんど使われなかったのが平成の始まりに一気に広まり、この30年紆余曲折を経ながらもいつしかすっかり定着したある言葉に思い当たった。

 そう、"おたく"だ。

 "おたく"という言葉自体は実は昭和の終わりごろから使われ始めていた。今や定着しすぎて語源すら忘れ去られそうなので一応書いておくと、コミケ等に集うような人達の間では、(真偽は知らないが)相手を呼ぶ二人称に「お宅」を使うのが広まっている、という話から、これらマンガやアニメといったサブカルチャー愛好家の総称として"おたく"と呼ぶようになったのが最初と聞いている。
 僕も昭和の末、大学生の頃に初めて聞いたのだが、この頃はこのようにごく一部の人の間にしか通用しない「若者ことば」のひとつでしかなかった。

 しかし平成に変わった直後、この言葉はある事件をきっかけに一気に多くの人の知る所となる。そう、平成元年、日本中を震撼させた連続幼女誘拐殺害事件だ。連日のようにマスコミに報道され、遂に逮捕された犯人宮崎勤の異常性、それを説明するためにマスコミで盛んに用いられたのが「おたく」だった。
 そう、"おたく"は当初から不幸な形で世に広まってしまった。元々はほんのささやかな、ある嗜好をもった人たちを示す言葉だったのが、それが稀代の凶悪犯と結びついてしまったのだ。この頃まるで"おたく"というだけで犯罪者予備軍と言わんばかりの勢いだった。そしてその歪んだイメージをあえて体現したかのような"宅八郎"なる怪人(一応サブカル評論家だったのだろうか?)がマスコミを席巻したのもこの頃だった。
 さすがにそこまでひどい誤解は一時的だったものの、"おたく"のマイナスイメージは覆うべくもなかった。平成の始めの数年、"おたく"の趣味は秘すべきものとなった。
 それが徐々に変わったのはいつからだろう。日本のマンガや特撮・アニメ、そして平成に入って加わったゲーム文化が花開いて西欧でも愛好家が増え、これらから日本文化を知る外国人も増えた。「クールジャパン」なんて呼び名のもと、少しづつ復権を果たしていった。
 だがそれとともに"おたく"も一人歩きをし始める。サブカルに関わらず、なんらかのものを深く愛好する人たちの事も「○○おたく」と呼びだした。これらはかつて"マニア"と呼ばれてたんじゃないのか?と突っ込みたくもなるが、今や"おたく"と"マニア"の違いは曖昧で、特に定義づけされないまま時は流れ、徐々に"おたく"は本来の意味が希薄になり、一般化されていった。

 では改めて、"おたく"とはなんだろう。

 現在では確かにその意味合いは曖昧となり、一層定義づけが難しくなっている。オタキングとまで呼ばれた岡田斗司夫が自らの著書で"おたく"を定義してみせたが読者から「それは違う」と総ツッコミを喰らったなんてこともあった。ここまでくればひとりひとりがそれぞれ違った"おたく"像を認識しているのかもしれない。しかし僕も自身が"おたく"であるという自覚があるし、平成を総括する意味でも自己分析も兼ねて自分なりの"おたく"の姿を改めて考え直してみたい。

 "おたく"の特徴をできる限り広く考えてみて、その共通項を探ってみると、当初は一部のサブカルチャーだけが対象だったかもしれないが現在の対象は文化全体に広がり、範囲の特定は難しくなっている。しかしその行動パターンに目を向けるとひとつの共通項が見えてくる。「特定の対象に向けての飽くなき大量消費」だ。今や作品のジャンルは問わない。でもやはりなんらかの対象となる"作品"は存在し、それを骨の髄まで楽しむために蒐集することから始まり、それに飽き足らなくなると二次創作やらコスプレといった"自己表現"に走り始める。"自己表現"といっても物事を一から作りだす"創造"まではまずいかず、あくまで元となる対象作品を消費するための"縮小再生産"に留まってしまうのだ。だってあくまで"作品"を楽しむための手段なのだから、その殻を破ってしまっては本末転倒になってしまう。

 その特徴を考えていくうちに、僕はずっと昔に読んだある小説を思い起こす。国木田独歩の短編「号外」だ。

 国木田独歩の作品は今どれぐらい読まれているのだろうか。一応明治の文豪の一人としてその名は知られているが、正直国語の授業で名前だけを憶えている人の割合が多そうな気がする。僕はたまたま10代の頃にその作品に触れたけども、ひとつひとつの作品が短い事もあってあまり時間をかけずに読め、また早世したため作品数が限られているので数冊読んだだけで気がつくと主要作品はあらかた読んでいた。
 それになんか当時の僕には妙に心に引っ掛かるものが多かった。独歩は自然主義派の作家と目されており、市井のありのままの姿を描こうとしたなんて言われているけども、改めて見ると彼の作品は小説と随筆の切り分けが曖昧で、一応小説の体をとっていても内容的には実質随筆めいたものが多い。「忘れえぬ人々」なんて、単に今まで印象に残った人のことを、ある登場人物の口を借りて書き連ねたにすぎない。すぎない、のだが――なんでこんなにぐさっと突き刺さるものがあるんだろう。特にラスト1行の破壊力はすごい。独歩の作品は短い中にも言葉の選び方が繊細で、なにげない一言の中にすさまじい意味合いを封じ込めることができた人なのだと思う。やはり優れた文学者だ。

 話がそれてしまったが、「号外」も独歩らしい、小説と随筆の中間にあるような作品だった。なにせ銀座のホール(神谷バーみたいなもんか?)に集まった酔っ払いどもがくだ巻いている会話をただ書き取っただけのような体裁なのだ。
 一応中心人物となるのは加藤男爵、通称「加と男」。この男が「つまらない」と嘆くのだ。しかも「戦争(いくさ)がないと生きている張り合いがない」と恐ろしい事を言う。なんとか戦争がまた起きないかと物騒な世迷言を繰り返すのだ。
 いったいどんな好戦家なのかと思いきや、読み進めていくと本人は戦場にに行くだなんてとんでもない、という人間だった。彼は一応高等遊民の類らしく、特になにをするでもないがとりあえずは食っていけるうらやましい立場らしい。逆に言うと何かをして生き甲斐を感じるという事がなく、生まれて初めて生き甲斐を感じてしまったのが――困ったことに「号外を読む」ということだったのだ。
 時代は日露戦争集結間もない頃。戦争中、たびたび戦争の状況を伝える号外が日本を舞い、「加と男」はそれを読むことによってそれまで感じたことがない興奮を覚える。次第に号外の魔力に取りつかれていくが、やがて終戦を迎え――日本の勝利を最後に号外もぱったりとやんでしまった。「加と男」は号外の急激な渇望を感じ、前述のとんでもない発言につながっているのだ。

 「号外」を初めて読んだのは高校生の頃だったが、正直最初は「なんじゃこりゃ」と思った。だがやはりどこか心に引っ掛かっていたのだろう、時折ふと思い出すことがあり、そして次第に恐ろしくなっていった。「加と男」の悲劇――それは号外と言う、他者から与えられた物にしか喜びを見いだせなかったことにあるのではないだろうか。その生まれのせいで自ら進んで何かをするということなく育ち、徹底して受け身になり、喜びすら外から受け取る事しかできなかった男の悲劇では、と。
 「加と男」の場合はたまたま号外だったが、振り返ると今の世にも似たような状況の人はたくさんいることに気づく。そう、"おたく"との類似性だ。対象は号外でもマンガでもゲームでも、はてまた音楽でも文学でもなんでもいい。ただ他者が創造した「作品」を享受することにのみ喜びを感じてそれ以外への感性が鈍ってしまった人たち、対象とした作品が完結してしまっただけで「○○ロスだ」とまるで世の中が終わってしまったかのように嘆く人たち、それこそが"おたく"の本質ではなかろうか。

 もっと興味を外に向けろ、と言うのは簡単だ。だが僕自身そうした要素が自分の中にあるのを自覚しているので、それが本当は簡単ではないことを知っている。ただそうした自分の中の"おたく"的要素を認識することによってこそ、初めてそれから抜け出す道を探し出せるのではないかと思う。
 「号外」の最後の一文、国木田独歩はこう締めくくった。
「そこで自分は戦争(いくさ)でなく、ほかに何か、戦争(いくさ)の時のような心持ちにみんながなって暮らす方法はないものかしらんと考えた。考えながら歩いた。」

 100年以上も前にその"おたく"の本質を見出した国木田独歩に敬意を表して、僕は"おたく"の事を「号外」症候群と名付けたい。