手塚治虫は死なず!

 元号が平成に変わったばかりの2月10日、なにげなく朝刊を開いた途端憶えのない衝撃が走った。

 手塚治虫死す! その訃報が目に飛び込んできた時の感興はなんとも言い難い。ただなんというか、生まれてこのかたいつも必ずあったはずの精神的支柱がいきなり消滅したかのようだった。それはなんだか、あたかも自分の親がいきなり亡くなったかのような気さえした。そう、なんだろう。手塚治虫だっていつかは死ぬ、それは頭では分かっていたけども、それはまだまだもっと先、少なくともあと10年20年は平気で旺盛な創作活動を続けていくものだと勝手に思い込んでいた。だからなんか現実味がなく、記事中彼の生年が「昭和3年」と書かれているのを見て「あれ、新聞なのに間違えてる。正しくは大正15年なのに」と細かいことが気になっていたのを憶えている。(実はデビューがあまりに早かったために、生前ずっと2歳多くサバを読んでいた事を知ったのはその少し後だった)
 とにかく手塚治虫はこの世からいなくなった。それは突然のように思えたが、実際には胃がんを患っていて前年の秋から体調がずっと思わしくなく、さらに死の少し前の見違えんばかりにげっそり痩せ衰えた写真を見るにつけ、ずっとファンを自認していながらその事をまったく知らなかった不明を恥じた。そのほぼ1月前に昭和天皇崩御して平成に改元していたのだが、申し訳ないが自分の中の衝撃は手塚の比ではなかった。

 ――あれから30年、この時始まった平成も間もなく終わりを告げようとしている。30回目の治虫忌も終え、改めて日本の漫画界を見まわしてみると…。あの時、手塚という支柱を失い、日本の漫画界はこのまま衰退に向かうのではないかと正直心配になったものだが、そんな世迷言は杞憂に終わり、むしろ自在に枝葉をめぐらしてより多彩な作品が生まれてくる土壌ができたようにすら見える。けど一方で、よくよくみると現在のマンガ界には手塚治虫の影が今もなおそこかしこに存在しているのを感じるのだ。作品そのものが今も様々な形で入手可能なのはもちろんの事、その作品が新しい才能の許また別の形で垣間見られたりするのが最近とみに目につく。石ノ森章太郎赤塚不二夫藤本弘(藤子・F・不二雄)等トキワ荘メンバーの多くが平成の間に鬼籍に入り、彼らの作品も生きながらえている事は確かなのだが、手塚作品はその規模も量も桁違いなのだ。
 そしてそれは手塚作品そのものが読み継がれているだけでなく、その血脈が受け継がれて作品の再生産、というか再創造が様々な形で行われているのが見受けられる。ここではそういう、言わば"手塚イズム"が強く感じられる作品を3つほど取り上げてみたい。


 ○カサハラテツロー「アトム ザ ビギニング」(小学館 既刊9巻)
 実は手塚作品のリメイクやらスピンオフは今もかなりの数生み出されている。圧倒的に多いのは「ブラックジャック」だろう。間違いなく医療マンガの嚆矢であり、死後程なくから現在まで様々な形でいろんな人が描いている。だが――正直ブラックジャック関連のものはあまり買わない。なんというか――生前手塚はアニメに登場したBJにダメ出しするとき「ブラックジャックはこんな風に歩かない!」と言って周囲を困らせたそうだが、そのようになんか違和感しかないのだ。キャラクターが確立され過ぎてしまってちょっとしたことが気になってしまって楽しめない。そのため手塚作品のリメイクやスピンオフ自体を敬遠していた時期が長く続いた。
 そんな中ふと書店に平積みしているのを目にしたのがこの「アトム ザ ビギニング」の第1巻だった。BJと並ぶ代表作、鉄腕アトムのスピンオフ作品。本来ならばスルーする所をつい手に取ったのは、製作スタッフの中にある天才の名前を見つけたからだ。
 ゆうきまさみ――僕がいま最も買っている天才的ストーリーテラーだ。その作品は一見なにげない日常を描いているようでいて気がつくと壮大なストーリーに組み込まれている事に気づかされ、そのさじ加減が絶妙なのだ。ただ彼の肩書は「コンセプトワークス」という耳慣れないもので、原作ですらない。実際に描いているのはカサハラテツローという初めて聞く名前だが、おそらく基本的なアウトラインにゆうきも関わっているのだろう。ゆうきまさみが作ったアトム――ただその一点に心が引っかかってお試しで読んでみることにした。

 内容はアトム誕生の数十年前、主人公は若き日の天馬午太郎とお茶の水博士。この2人が大学院の同級生として共に「自我のあるロボット」の制作を目指して研究に没頭する話だった。ちょっと待て、2人が同級って…と思ったが、天馬は飛び級を繰り返してお茶の水は浪人を繰り返して実際に年齢差が6歳ある事が後に判明。しかし驚くことはそれよりも、「鉄腕アトム」では絶対に合い入れない2人が、ここではお互いの才能を認め合って無二の親友として共同研究している事だ。自我を持ったロボット「A10シリーズ」を制作、作中ではその6番目の自立型ロボット「A10-6」が2人と並ぶ最重要キャラとして登場する。「A10-6」即ち"アトム"と読める判じ物が嬉しい。

 手塚がアトムを描いた時代には、正直コンピューターにおけるソフトウェアとハードウェアの境界線すらあいまいで、そうした科学的なバックボーンが現在の目から見ると弱いのだが、この作品ではそうした所も巧みに補強されている。A10シリーズを制作するにあたってはその基幹OSとして「ベヴストザイン」(ドイツ語で"自我"の意)なるものを開発しており、2人はその名の通り「人形ではない、自我を持ったロボット」の開発に全精力を注ぎこんでいる。2人の関係性もそれぞれ得意分野が分かれており、一見我の強い天馬の方が主導権を握っているようにも見えるが、彼は主にハード系が得意で、お茶の水はソフト系が得意。実際ベヴストザインの基本設計もお茶の水の方が行っていた。理想のロボットを創り上げるのにお互いの得意分野を合わせるのが不可欠と2人とも認識しており、それぞれの才能も認め合っている。なにか成果が上がるごとに、2人が臆面もなくお互いの大きな鼻をつまみ合い、「おれたち天才!」と叫ぶ様は何とも微笑ましい。

 そして2人はいくつもの壁(その大きなものは研究費不足、要は金欠も含まれる)にぶち当たり、資金調達のためにロボットプロレスに出場したことをきっかけに世間的な注目を集めると共に様々な事に巻き込まれるようになり――と徐々にストーリーが拡がって行くのだが、それと共に本家「鉄腕アトム」にも登場するキャラクター(の若き日の姿)や事象が徐々に絡みだすストーリー展開がファンにとってはたまらない。(想像だが、こうした所にコンセプトワークスたるゆうきまさみが絡んでいるのではないだろうか) 最近では、原作アトム番外編である「アトム今昔物語」のサイドストーリーの様相も呈してきた。「アトム今昔物語」はTVアニメ版最終回の後日談として書かれたタイムスリップものである関係上、ちょうどこの「アトム ザ ビギニング」と時系列的に交差するのだ。この作品はアトムの前日譚である。だから本家アトムの世界にどうリンクしていくのか――今、そこの所に非常に注目が集まっていく。手塚治虫ゆうきまさみカサハラテツロー、新旧2人の才能がスパークしてより作品世界が広がっていくのではないか――。その展開を今どきどきしながら見つめている。

 ○コージィ城倉「チェイサー」(小学館 全6巻)
 これは昨年末に連載が完結、単行本最終巻が先日発売されたばかりの作品だが、これは手塚治虫を生涯かけて追跡し続けた架空のいちマンガ家の生涯を描くことによって、鏡像のように手塚の業績を浮かび上がらせるという一風変わった手法によった手塚伝だ。
 正直言って今まで彼の作品は買っていなかった。コージィ城倉(マンガ)と森高夕次(マンガ原作)の2つの名を使い分けつつ何作も並行して作品を量産し続け、ある意味現在マンガ界の台風の目的存在になっているのは承知していたが、その作品はなんか全体的に泥臭く、妙に大げさで受け付けられなかったのだ。だからこの「チェイサー」の存在を知った時も最初はその相変わらずの泥臭さに辟易していたのだが――やっぱり手塚治虫を描くとなると気にかかってついつい連載を追ってしまう。そうするうちにどんどん気になってきて、いつしかこの作品の"チェイサー"になっている自分に気づく――完全に作者の術中にはまってしまった。

 この作品の主人公である海徳光市は手塚治虫作品に内心心酔しながらも表では絶対に認めずに批判的な言動を繰り返す男である。しかしある時年上だと思っていた手塚が自分と同い年であること(冒頭で述べたように手塚は年齢をサバ読んでいたので、実年齢はほとんど知られていなかった)を知り、同じ歳で質・量ともにとてつもない差がある事を痛感し、生来の憧れもあって手塚治虫をひたすら追跡(チェイス)するようになっていった。
 海徳は元々戦記ものを得意とする一点特化型の作風であり、ジャンル問わずオールマイティに描き分ける手塚とは資質が違ったのだが、「手塚になりたい」病にかかった後はできる範囲で仕事を増やし、また今まで手を出さなかったジャンルにも乗り出し作風を広げようとする。それは海徳の作品や生活にもプラスに作用したのだが、困ったことにこの海徳さん、なにかというとすぐ"形から入"りたがる傾向があって…。手塚の執筆風景やら生活について編集者経由でなにか情報を仕入れると、すぐさまそれを表面だけ真似してしまうのだ。それがあまりにあからさまだから周りにも「手塚の真似」であることが筒抜けで、迷惑に感じながらもどこか微笑ましく感じている。
 だがそんな海徳の”努力(?)”も空しく、手塚はますます手を広で作品も深化していって、終いには虫プロ創設してアニメ界に進出し、TVアニメ第1号「鉄腕アトム」で大人気を得、名実ともに到底海徳の手が届かない領域にまで行ってしまった。しかし海徳の内面にとって手塚はライヴァルではなく目標であり、それでもチェイスをやめようとしない。その結果現在の手塚の状況(良くも悪くも)も客観的に把握でき、自分もアニメ化に手をかけようとあれやこれやと試行錯誤して――。

 作品中手塚治虫はまともに登場しない。海徳と相対するシーンも何度かあるが、一貫してシルエットで描かれて(トレードマークのだんご鼻ベレー帽、眼鏡でそれと判別つく)おり、あくまで黒子に過ぎない。それでいて、この作品で描かれているのはあくまでも海徳の目を通して描かれた手塚治虫その人と業績そのものなのだ。海徳はただひたすらに手塚を追い求め続けて(しょっちゅう回り道をしながらも)マンガ道を突き進み、遂には手塚低迷期に少年漫画でヒットを飛ばすことによってほんの一瞬ながら手塚をも追い抜く人気を得た時期もあった。もちろんその後「ブラックジャック」をきっかけに手塚は完全復活を告げ、海徳は再び手塚の後塵を拝することになるのだが、不思議と海徳に悔しさはない。むしろ「決して追いつけない永遠の目標」としての手塚の存在にある種の安堵感があるようにも思えた。そして最終回、自ら病床にありながら手塚の若すぎる死に接した時、海徳は作中で唯一涙を流しながらこうつぶやく。「勝手に死ぬなよ…。もっともっと、色々と追いかけたかったのによ…」この時の涙は悲しさ故か、それとも悔しさ故か…。
 この作品の主人公は間違いなく海徳光市だが、本当の主役は、彼の目を通して映し出された手塚治虫の生涯とあまりに大きすぎる業績そのものであり、結果的に「手塚治虫とその時代」を生き生きと活写している、非常にユニークな手塚伝として長く語り続けられるであろう力作と言っていい。


 ○TVアニメ「どろろ」(東京MX他で現在放映中)
 そして最後は実に50年ぶりにアニメ化された「どろろ」である。
 「どろろ」自体は"時代を先走りすぎた"不幸な作品と言っていい。現在では手塚の代表的な作品として認知されているが、雑誌連載時はその陰惨な雰囲気が少年誌に合わずに打ち切りを食らい、その後アニメ化に連動して復活したものの結局最後まで描かれることなく中途半端な結末のまま終わった、言わば不完全な作品である。
 だが平成に入ってからは時代が追い付いて再評価著しく、実写映画化やスピンオフ作品が作られてきたのだが、その「どろろ」が改めて再TVアニメ化されたのだ。なぜ今…その情報を聞いた時には正直とまどった。しかも絵柄的にも手塚タッチとはいささか違った雰囲気だったので、原作から離れた奇ッ怪な代物になってしまうのではないかと最初は危惧していた。
 とはいえ気になるので録画して観はじめたのだが――。第1話を観た時から「これは…」と期待感が沸々と湧いてくるのを感じた。
 まず絵柄についてだが、やや劇画タッチに寄せていて当初は違和感を覚えたものの、それでもどこか手塚の線を思わせるところもあって必ずしも遠い所にあるものでもない。観ていくうちに不思議と共通項の方が多く感じられて馴染みがでてきた。それに基本プロットは同一にしろ細かい所で様々な改変が行われいるのだが、この改変、全然いやではない。いや、というか原作を良く読み込んでそれを最大限尊重した上で、「でもこちらのほうがよりよくなる」と自信を持って作品をブラッシュアップしているのだ。
 前述のように原作の「どろろ」は不完全な作品であり、まずちゃんと完結してない上にそのいびつな連載故に途中での設定改変とかも行われており、もちろん単行本作業の際手塚自らが統一感を目指して手を加えているのだが、それが必ずしも徹底されていず、元来のいびつさがそこかしこに残ってしまったままなのだ。それが読み進む際に澱のように引っかかり、全体をすっきりさせない要因になっている。
 今回のアニメ化で行われたのは全体の構成を再構築する事だった。そのため原作を徹底的に見直し、原作の要素をきちんと残した上で再創造と言っていいほどの組み直しをしている。それはあたかも不完全に終わった「どろろ」という作品を自分たちの手で完成させてやろうと言わんばかりの意気込みが感じられる。

 まず中心人物の百鬼丸の設定について。生まれてすぐ多数の鬼神に体のあらゆるパーツを奪われて、言わば"生きる屍"として生まれ出た運命の子であり、当初は手足はもちろん目も鼻も耳も口もない。言わばヘレンケラー以上の多重苦を抱えているのだが、それではキャラとしてマンガの中でコミュニケーションが成り立たない、ということで手塚はテレパシーのような超常能力でどろろ達と会話ができることとし、それで話を進めていった。しかしこれは考えてみれば設定上かなり無理があり、言わば話の都合上無理を力づくで通した感がある。
 今回のアニメではまずそこに思い切った設定変更がなされている。第1話初登場時、百鬼丸はまったくのコミュニケーション不全の状態なのだ。しかも体の皮膚すらない状態なので、やむなく顔には木製の仮面をつけている。このことにより、彼は当初人間と言うよりも生きた人形のような不気味な存在でしかなく、到底ヒーローには見えない。ただ鬼神を倒すのにはそれを判別・特定できることが必要なので、唯一心眼のような能力が身についており、対象が持つ"魂の色"により相手が有害か無害かわかるようにした。(そして同等の能力は後述する琵琶丸にも兼ね備えており、これにより能力の相対化が図られてより鮮明になっている) そして第1話で鬼神を倒したことにより、百鬼丸にはまず体の皮膚が戻り、それによりまず付けていた仮面が取れ、中から人間の顔が表れる――これにより彼が機械人形ではなく人間である事、鬼神を倒すことにより奪われた体のパーツが百鬼丸に戻る事が鮮明に印象付けられる。

 百鬼丸の設定改変は当然相方であるどろろにも影響を及ぼす。とにかく最初の数話、百鬼丸は全くと言っていいほど意思の疎通が取れない状態なのだ。第1話で百鬼丸と遭遇したどろろは彼に興味を持って同道するものの会話がなりたたないのにとまどう。しかしどろろはとにかくお構いなしに百鬼丸に話しかけまくるのだ。最初の数話、百鬼丸役の鈴木拡樹は全く出番がなく、どろろ役を託された子役の鈴木梨央は大量のセリフをよどみなくしゃべり続ける。これはその後百鬼丸が耳そして声を取り戻した後、生まれてこのかた言葉を発したことのなかった彼にどろろがのべつまくなししゃべり続けるのを聞くことによって、言わば良き先生役となっているのだ。そのおかげで最近では、百鬼丸は回を追うごとに語彙が増え、少しづつ普通にしゃべれるようになりつつある。

 原作でもかなり存在感を持って描かれている琵琶丸は、アニメではより重要な役どころになっている。どろろたちと付かず離れず、いつの間にかいなくなったと思えばひょいとまた現れ、2人のよきアドバイザーとなっている。また彼は目が見えないものの百鬼丸と同様の心眼を持ち、琵琶に仕込んだ刀を使って妖怪を退治する腕にもたけている。見識も経験も豊富で、百鬼丸が置かれている立場も正確に把握し、結果的に登場人物の中で百鬼丸の行動を解説する役割を持たされた。また琵琶丸同様、百鬼丸の育ての親である寿海も原作以上にキャラクターの掘り下げが行われており、それが物語に深みを持たせている。

 そしてなにより一番の改変は、百鬼丸が鬼神を倒して体を取り戻す、その負の部分を明確にしたことだろう。まずは百鬼丸側だが、当初彼の体の多くは寿海によって作られた作り物だった。もちろん不便なことは確かなのだが子供の頃からの訓練の結果、その義手義足を自在に操る事に長けており、こと鬼神退治に関してはほぼデメリットはない所まで来ている。そうなってくるとこれらのパーツは痛みもなく替えも効く、非常に便利なものとなっている。それが鬼神を倒して順次自分本来の体を取り戻すことによって、生身の、替えの効かないもろい部分が増えていっているのだ。身体の部分だけでなく百鬼丸は「痛み」を始めとする感覚も取り戻していく。そのため初登場時は言わば無敵の鬼神殺戮マシーンだった百鬼丸は徐々に人間化し、総体的に"弱み"を増やしていく。実際聴覚を取り戻した時、耳から否応なしに入ってくるその覚えのない膨大な情報量に混乱し、一時的にほとんど動くことができなくなってしまっているのだ。他にも取り戻した方の足を鬼神に今度は食われ(後で取り戻せたが)、ようやく取り戻した"声"で生まれて最初に発したのはその痛みに耐えかねた叫び声だった――。こうして百鬼丸が心身ともに良くも悪くも"人間"を取り戻していく様を原作以上に鮮明に描いているのだ。

 さらに景光側から。元々百鬼丸の体は、父醍醐景光が自らの野望達成のために鬼神と契約し、景光のいわばその生贄として差し出したものである。これは原作にも明確に描かれている。なのに百鬼丸がその鬼神を次々と倒して奪われた体のパーツを取り戻していくとどうなるか――当然景光と鬼神の間に交わされた契約は反故になり、それまで鬼神が景光に与えていた恩恵は次々と消滅していく――。
 さらに原作では景光の野望は天下取りのためとシンプルだったが、今回のアニメ化では彼の領土は元々天変地異等で荒廃しており、生き地獄と言っていいほどに荒れ果てていたことが描かれている。景光が鬼神と契約した背景には、自らの野望もあるが、このままでは滅亡の恐れすらある領土を鬼神の力を借りてでも安定させ、民が安心して暮らせることを願ってのことでもあった。実際そのおかげで、周りの国が相変わらず荒廃しているにもかかわらず、醍醐の地だけは凶作に悩まされることも戦乱に苦しめられることもなく、他からは不思議がられるほどの繁栄を誇っていたのだ。これもみな醍醐景光の御威光のおかげと、地元からは名君扱いされていた。
 それが百鬼丸が体のパーツを取り戻すごとに、ひとつ、またひとつとその繁栄に陰りが見られ、旱魃や氾濫、さらに隣国との緊張悪化と様々な問題が噴き出し始めた。景光もその不穏な様子から、百鬼丸の存在を疑い始める――。
 さらに原作では単なるやられキャラだった百鬼丸の弟多宝丸も重要性をぐっと増し、むしろ文武共に長けた、まだ若いが名君の器を感じさせる人物に成長している。以前から自分が親からどこかないがしろにされているような喪失感に苛まれ、その本質を探るうちに百鬼丸の真実を知り衝撃を受けるも、結局(おそらくは鬼神の影響を受けてしまい)「民を守るためには兄といえども犠牲にならなければならない」という思想に取りつかれてしまう。その結果百鬼丸最大のライヴァルとも言える立場になった。

 このように原作を知っていても随所に新たな発見があり、観ていて実に新鮮に感じる。総体的にこのアニメを俯瞰してみると、ひょっとして今回のスタッフは不完全に終わった原作を補完し、自分たちなりの「どろろ」完全版を作ってやろうとしているのではないかと穿ってしまいたくなる。その結果アニメは原作から次第に"離れ"始めている。この物語がどのような帰結点を迎えるのか、原作を知っていても次第に予測が難しくなってきたのだ。しかしこれら改変により、ストーリーはより立体的・重層的になってきており、予断を許さない。
 もちろんその結果がはたして最終的に評価できるものになるのかは分からない。鬼神・妖怪退治の個々のエピソードでも毎回必ずと言っていいほどの改変が加えられているのだ。「万代の巻」など原作よりもぐっとやるせない展開に目を瞠ったものだが、回によっては改変によって原作の魅力が殺がれているように思える時もある。今までの所あくまで原作尊重の上での改変と感じられたのだが、改変することが目的となって原作をないがしろにするようなきらいがもし出てきたら、せっかくここまでいい流れで来たものがねじ曲がってしまうだろう。下手に改編にこだわらずに、是々非々で素晴らしい仕事をしてくれることを願ってやまない。


いずれの作品も、手塚治虫なくしては決して生まれなかった、その遺伝子が色濃く残った注目すべき作品たちだ。振り返れば平成の時代、他にも手塚作品が元となった新作はいくつも存在した(もちろん中には正直許しがたいものもあったが)のが分かる。平成の幕開きと共に手塚治虫はこの世を去ったが、平成を通して手塚治虫作品の生命は今も絶えることなく脈々と生き続けている事が感じられるのだ。次の令和の時代には果たしてこの状況が続くかはわからないが、手塚作品を愛する一人として、この生命が火の鳥の如く燃え続けることを願ってやまない。