「時代が追い付いた」人たち

「いずれ私の時代が来る」
 これは19世紀末から20世紀初頭にかけて活躍した作曲家グスタフ マーラーが言ったとされる言葉。現在ではロマン派末期を代表する大作曲家として誰もが認める存在だけども、生前は指揮者としてこそ名を成したものの作曲家としては"やたら長くて大袈裟"な交響曲を書く変人扱いされていた。今でこそその空前のスケールを持った作品は他に類を見ない巨大さとして認識されているものの、そのスケールを見通すには時間が必要だったということだろう。

 今年"なぜかいきなり"ブレイクした人として加藤一二三出川哲郎が挙げられる。しかしどちらも今年いきなりポッと出た訳ではない。それどころかずっと前からその世界で長い事活躍していた人たちだった。

 加藤一二三と言えば、言わずと知れた将棋界のレジェンドだった。全盛期は中原誠米長邦雄と同時期で、谷川浩司羽生善治より前の世代とはいえ、かなり前に引退している他2人に対して、ほんのこの前まで現役を張りつづけたというのは驚くべきことだ。
 今回注目されたきっかけはあの藤井聡太のプロデビュー戦の相手として対戦したことだった。藤井聡太はそのままデビュー29連勝と空前の記録を作って一躍時の人になったのと同様、加藤もまた同じく「中学生でプロ棋士になった第1号」とも紹介されて脚光を浴び、奇しくもその後まもなく最年長で現役を引退することが決まって再び耳目を集めた。
 そうして何度かTVに出演するにつれ、その業績に止まらずキャラクターに目が行くようになり、一躍「ひふみん」として一気にブレイクしてしまった。
 いや実際、特に将棋好きでなければ僕のようにその名前は前から聞いててもどんな人かなんて普通知りようもない。けどもこうしてTVに立て続けに出るようになった加藤一二三を観て、正直驚いた。「なんだこの愛らしい生き物は!」
 そのまんまるな顔に丸っこい体型と、○だけで似顔絵が書けそうな外見はもちろん、屈託のない笑顔を絶やさず、時折除く口の中はほとんど歯がなく、かろうじて残っている前歯を覗かせている。そのためか、全体的にどこか齧歯類を思わせる。つい最近まで60年以上にわたってプロを続けてきたすさまじい業績とこの愛らしい風貌のギャップ。これは本当に得難いキャラクターとしか言いようがない。
 しかし実際本人はなぜこんな注目されるのか実感はわかないだろう。本人にとっては「ずっと前から変わらずこうだった」んだから。ただ将棋界と言う限られた世界の中に留まっていたからそれが一般に知られてなかっただけで、それがたまたまタイミングが重なっていくつもの点で注目が集まって一気にブレイクしたのだ。

 もう一人の出川について。現在リアクション芸の第一人者として知られているが、リアクション芸の嚆矢としてはかつての稲川淳二がそうと言えるだろう。彼が徐々に怪談噺の方に比重を置いてTVに出なくなった頃からそれに代わるように出てきたのが出川哲郎(あともう一人上島竜兵)だった。
 リアクション芸というのは実はかなり受身な芸で、誰かしらが何かしら働きかけてくれない限り何もできない。漫才であれば相方のツッコミを計算してできるのだがそれがない。稲川淳二の時代はまだそこら辺の加減が成熟してなくっていささか痛々しさを感じたが(正直"いじめ"を見ているような感覚があった)、出川達は「ツッコんでくれなきゃ困る」的な"誘い"のお約束を組み込むことにより、広義のボケツッコミの呼吸が見えるようになった。
 閑話休題。こうしたリアクション芸を成熟させていった出川だが、以前は「女性に嫌われる芸人」のダントツ1位だった。彼が結婚する際、奥さんとなる人の母親がその事を聞いて「なんで出川なの!?」と思わず叫んだという逸話は自分の中で語り草になっている。後に「キモカワ」という言葉が出てくるようになってから多少風向きが変わったようにも思えたが、マイナスがプラマイゼロに戻った程度で、それほど大きな変化ではなかった。
 それが今年まさかのブレイクである。理由は全く分からない。ひふみんはそれまで一般への露出が少なかったのでまだ分かるのだが、出川は以前からタレントとしてTVに露出し続けているし、やっていることは20年ぐらい前から基本的に変わってないのだ。ただ感られるのは自然体。リアクションに屈託がなく、それ故に素直で裏表のない人柄が感じられるのだ。年齢も50を越えてぎらついた所が薄れてきたせいか、そういったところが表だってきたことはあるかもしれない。それにしても…やはり世間の風向きの方が変わったのだと思わずにはいられない。

 加藤一二三出川哲郎。両者に共通するのは長年ひとつことを一筋にやってきたことで、それが年を経て練れてきて、その屈託のない"素"を惜しげもなく表出している所だと思う。
 そしてとなにかと殺伐としたこの現代だからこそ、そういったものが得難い価値としてにわかに注目されるようになったのではないだろうか。本人たちは変わってない、マーラーのように意図したわけではないが、時代の方が彼らに追いついたのだと言えるのかもしれない。