シューベルトの交響曲第9番ははたして「グレイト」か?

 シューベルト交響曲について7番と8番をこのブログで立て続けに取り上げたけども、やはりそうなると次には9番について触れないわけにはいかない、という気がしてきた。この曲についてもいろいろ思う事があるけども、それは今までとは違ってちょっと複雑なものだった。

 先に「未完成」について書いた際「時折勘違いされるけども」なんて他人事のように書いたけども、実のところこれは中学時代の僕のことなのだ。クラシックを聴きはじめて間もない頃はやはりてっきりシューベルトは「未完成」を書いている最中に亡くなったのだとなんとなく思っていて、だから「『未完成』の後で完成させた交響曲がある」と知った時には「なんで?」と不思議な気がした。
 とはいえ存在は知ってもその交響曲第9番を実際に聴く機会はなかなか訪れない。当時はレコード(死語その1)を買うだなんてのは誕生日かクリスマスか…なんて年に数度の一大イヴェントだったものだから、音源はほとんどFMエアチェック(死語その2)に頼っており、だからいかなる名曲であろうとたまたま放送されなかったり聴く機会を逃したりすると、案外聴いたことのない曲がけっこうあった。これもその1曲だった。
 さて、そんな訳だから聴かないうちに期待ばかりがどんどん膨らんで行った。なにせあの「未完成」の後に作曲された交響曲なのだ。しかも「ザ グレイト」と呼ばれている曲だ。あのシューマンが「天上的」とまで激賞した音楽。いったいどんなすごい曲なんだろうか――。
 結局聴けたのは高校に上がってからだったが、いよいよ聴けるとなった時は放送前からラジカセの前で待ち構えていた。カセットテープを間違いなくセットし、タイミングを計って録音ボタンを押し、そのまま耳を傾ける――。冒頭いきなりホルンだけでゆったりしたメロディが流れてくる。流麗だがどこかバランスが狂ったような不思議な感触があった。「未完成」のようなひりつくような緊迫感はなく、どちらかというと穏やかに進む音楽。それだけでどこか拍子抜けしたものを感じたが、それでも聴き続けるうちに徐々に力を増していき、いやがうえにも高揚していく。そう、まだ序奏部なのだ。これからいよいよ本題、主部に入っていくのだと思い直し再度待ち構えていると、音楽が最初の頂点を迎えると共に一気に第1主題に流れ込んでいく――。
 「ドッソドッレドッソドッレドッ…」
 (なんじゃこりゃー)思わず前のめりに突っ伏しそうになったのを覚えている…。

 いや、変な期待をした自分の方が悪いのだが、それにしても第8番とは方向性があまりに違い過ぎていた。確かに第1楽章コーダで冒頭主題が戻ってきて重々しく壮麗に終わる所などかっこいい。その後も所々「おっ!」と思わせる部分もあったものだから、この時全曲録音したテープをそれでもそれから何度も繰り返し聴き返したのだが、第1印象がこれなもんだから、なんだか妙にガチャガチャした曲だな、との印象をぬぐいきれなかった。シューマンはこの曲のどこにそんな感激したんだろう。考えてみればシューマンは「未完成」を聴くことはなかったので比較しようがないが、それにしても…。

 もちろんそれから何度も聴いているけども、僕の中でもその時々で印象はけっこう変わっている。実際、評価が難しい曲だと思う。演奏頻度の多い人気曲でありながら、まわりに聞いても「あんまり好きじゃない」との声がけっこう挙がる。僕の中でも、「未完成」は疑う余地のない桁外れの名曲なのだが、「グレイト」の評価は時によって「おっ、なかなか」だったり「やっぱりちょっと…」だったり揺れ動いている。

 この曲の印象を決定づけているのは、シューベルトの曲としてはちょっと他にないほどの屈託のなさだろう。というかシューベルトという人、「屈託の作曲家」と言っていいほど、胸の中にいろんなことを抱え込んで、それが音楽ににじみ出ているような人なのだ。それがシューベルトの音楽に何とも言えない憂いを含め、それに対してある時は葛藤し、ある時は諦念し、細やかな感情の襞が表現されていく。そういったものが「グレイト」には第2楽章にちょっと感じるぐらいで、後は見事なほど、きれいさっぱりないのだ。
 それは偶然ではなく、シューベルトの意図するところだったのだろう。

 シューベルトは作曲当時28歳、よもや自分が31歳で亡くなるとは思っていないから、晩年の意識はまだなかろう。作曲家として自分はまだまだと感じ、なんとかそれまでの殻を破りたいと思っていた。そして飛躍のためにむしろ足かせになっていると感じたのが、その抒情に満ちたメロディの才能だった。
 音楽の授業とかでシューベルトにつけられた称号は「歌曲王」。実際10代の頃から「魔王」「野ばら」をはじめまさしく泉がわき出るがごとく珠玉の名品を次々と生み出してきた。クラシック音楽界で歌曲の世界に限れば、彼を凌駕どころか比肩する者さえ見当たらない。それほどまでに突出した存在なのだ。
 1曲数分の歌曲の世界では彼は無敵だった。しかしシューベルトは徐々にそれでは満足できなくなっていく。彼が目指すのは同時代の大先輩、ベートーヴェンだった。そのあまりに偉大すぎる姿を仰ぎ見ながら、それに続く存在になりたい、シューベルトの後半生はその想いに尽きると言っていい。
 シューベルトの天賦の才であるメロディは抒情的でセンシティヴだが、一方で交響曲のような長時間の楽曲を構成するには不向きだった。メロディだけで世界がほぼ完結してしまうからだ。
 一方ハイドンからベートーヴェンに連なるウィーン古典派の音楽は、メロディそのものの魅力はさほど重要ではない。むしろ必要なのはメロディの構成要素的な動機(モティーフ)であり、それを分解・拡大・統合等様々に展開をしていって(動機労作)まるで建造物のように組み立て上げることこそが大切なのだ。
 典型的な例としてはやはりベートーヴェン交響曲第5番を挙げるべきだろう。かの有名な「ジャジャジャジャーン」という単純極まりない動機、ベートーヴェンは偏執的と言えるほどにその動機をありとあらゆる手を使って積み上げていき、遂にはほとんど冒頭動機を緻密に組み立て上げるだけであの一縷の隙もない音楽の大伽藍たる第1楽章を作りあげてしまった。第2楽章以降もこの動機は根底に流れる暗渠のように存在感を発揮し続け、最後の和音を鳴らし終わるまで、結局「この曲は冒頭動機だけでできている」と思わせるだけのとてつもない有機的構造物に組み上げてしまった。
 シューベルトはその自分の欠点に気付いていた。10代の頃は、自分のメロディを使ってハイドンモーツァルト的な交響曲を次々に書き上げて行った彼が、20代にはいるとぱたりと交響曲の筆が止まる。その代りに書かれたのが7番の稿にも触れたいくつもの未完成交響曲である。前述の7番・8番はその中でもちゃんとまとまった方で、他の者は書き始めてはぱたりと筆が止まったままほっとかれた断片ばかりである。そこには殻を打ち破りたいのに破れない試行錯誤の跡が垣間見えている。
 まとまった未完成交響曲2曲のうち、第7番は魅力的ながらもまだ10代の頃の影を引きづっている所があるのに対して、やはり惜しいのは8番だ。彼は自分のメロディの才を前面に押し出しながらも、独自のせめぎ合いをみせてすさまじい音楽の"場"を作り上げてみせた。これを無事最後まで完成させていたらその後のシューベルトの作品はまた違った展開を見せていたろうし、おそらくその音楽は後のシューマンブラームスさえ追い抜き、時代を越えてマーラーのような境地にまで達することが可能だったろう。しかしご存じのように第3楽章で行き詰まり――不本意ながらそこで放棄せざるを得ないことになってしまった。
 おそらくはここら辺から「今の行き方ではだめだ」と思ったのだろう。ベートーヴェンに続けるような交響曲を書き上げるにはどうすべきか…。そしてシューベルトは自らの一番の才である"メロディ"を捨てた。

 そして交響曲第9番となった「グレイト」を書き始めた時、ベートーヴェンに倣って、極限まで単純化され、もはやメロディとは言えないような動機を積み上げて曲を作ろうとしたのだと思う。
 そして生まれたのがあの「ドッソドッレドッソドッレドッ…」だった。本当に何の変哲もない、ただハ長調の主和音の音を順に組み合わせただけのような音型。しかしシューベルトは自信満々だった。第4楽章に至っては「ドッドミーッ!」というほとんど一瞬のシグナルのような動機を用いて一気に駆け上がっていく。
 ただ、シューベルトが自分の一番の持ち味を殺してまでして挑んだ挑戦、その結果は…。やはりいささか意余って力足らずの感なきにしもあらず、という所だろうか。第1楽章など単純化した動機を組み上げて立体的な建造物にしたかったのに、うまく積み上がらずに結局どんどん横に並べていって、なんだか長屋みたいなものなってしまったように見える。

 ただ続く第2楽章は、緩徐楽章ということもあって最初から自分のメロディを前面に押し出すことにしているようだ。とはいえ曲調からいって「未完成」のように心を引き裂かれるような重苦しいものではなく、おだやかで澄明なものだが、それでもやはりシューベルトの持ち味が自然に発揮されており、曲が進むにつれていつしか重力から解放されてどこまでも高みに昇っていくような感じがする。シューマンが「天上的」という言葉を思いついたのも、そのあたりかもしれない。

 続く第3楽章。かなりざくざくと突き進むスケルツォで、エネルギッシュだが一方で音楽としてそれほど突出しているか、というとそれほどとは思えない。どこか通り一遍なところがあるのだ。トリオのメロディもシンプルすぎて心に引っかからないし。ただ大曲としてのスケール感は妙にあるのだ。とにかく構えだけは巨大なこの楽章、全体のバランスをとるためにはスケルツォにもこれぐらいの器の大きさが必要だ、ということだけは妙に納得できてしまう不思議な存在感を持っている。

 そしてフィナーレ。前述のようにシグナルのように極限まで短い動機をいきなり提示して猛スピードで駆け出していく。シューベルトは以前から時折無鉄砲なまでに走り出してそのままブレーキを失いいつまでも駆け回る、という事があるのだが、この曲もそれに近い。ただ違うのは、一見無軌道に見えてちゃんとコントロールができていることだ。第1楽章のように徒に構えを大きくしようという意図はなく、ギャロップ風にどんどん駆けていくのに、いつしか動機をきっちり確保して第2主題に移る。その第2主題も第3楽章トリオ以上にシンプルこの上ないが、駆け抜けようとする第1主題に対してちょうどいい緩衝剤のように妙にフィットする。そうして提示部をきっちり組み立てた上で展開部に、そして再現部へと…とソナタ形式の必要充分な構成がきっちりと浮かび上がってくるのだ。
 最終楽章に至ってようやくシューベルトは自分が目指していた境地に手がかかったように見える。それはベートーヴェンの世界とはまた明らかに違うが、疾走する中にも"意"がきっちりと感じられ、形式も自然と形作られていく。そうなると駆け回るエネルギーは明確な方向性を持ち、ぐいぐいと上へ上へと昇華していくかのような無限の生命力となって燃焼する。先ほど触れた第2主題の後半に出てくるさりげない下降音型が後に非常に重要な展開要素へと変貌していくのに気づくとハッとする。
 そしてその生命力はコーダに至ってまったく予想だにしない境地に達する。一旦静まったと思わせといてまたぐいぐいと力を増していき、その力をあろうことか弦全員で主音である「ド」を何度も何度も大地に押さえつけるがごとく叩きつける。(そしてこの「ド」の連打も、実はあのシンプルすぎる第2主題の変形なのだ) だが一旦勢いがついた音楽はそんなことで押しつぶされはしない。叩きつけられればられるほど抗する力は増していき、遂には「ド」の呪縛から解き放たれてどこまでもどこまでも飛翔していく。こうなるとあの弦の低音すら生命力を鮮やかにするための彩にすら見えていく。こうしてすべてを凌駕して全曲を閉じる。

 オールリピートで1時間を超える長大な音楽で、途中完璧とは言えないようないろんな所があるが、このフィナーレに接するとそのすべてを越えて「グレイト」な音楽を聴いた、という思いに至るのだ。ほんと、第1楽章からこのような音楽が書けてたら文句ない名曲になっただろうに、本当に惜しい――だがその最後に行きついた境地と絶え間ざるエネルギーの噴出は、やはりどうしても打ち捨てるには忍びない魅力がある。はたしてこの曲は名曲なのか…結局のところ、なんて判断に迷う曲を書いてくれたんだ、シューベルトは、と最後の最後まで結論の出ない叫び声をあげてしまうのだ。