哀悼 三好 銀

 来月発売されるマンガの新刊をチェックしていて"三好 銀"の名前を見つけ、「おお、久々に新刊が出るのか」と喜んだのもつかの間、「追悼作品集」の文字が目に入って硬直した。
 え…三好 銀って――亡くなったの?

 あわてて検索してみると、今年の8月末、膵臓がんで亡くなったという。享年61歳。早すぎる…。ここ数年、九重親方(元千代の富士)を始め膵臓がんで命を落とす方が妙に目につくが、ここにもまた早すぎる死を迎えざるを得なかった人が1人。個人的にはデビュー作で注目して以来長らく消息不明だったのだが、ここ数年になって新作をぽつりぽつりと発表して健在ぶりを示していただけに、残念でならない。


 「三好さんとこの日曜日」――平成も始めの頃に、スピリッツ本誌および増刊に時たま掲載されていた掌編マンガのタイトルだ。作者の名前は三好 銀。登場人物は作者と同じ名前の中年夫婦と「梅」と言う名の猫一匹。それから時おり近所の人が出る程度。タイトルの通り、日曜日のなにげない日常の出来事を切り取ったような、フィクションともエッセイマンガともつかない作品だった。
 絵柄は妙に薄っぺらで各人の表情も張り付いたように動きが無い。往年の「ガロ」でよく見たような雰囲気をかもしだしているが、作者のプロフィールとかは一切分からず、どのような経歴かは不明だった。

 そんななんとも言いがたいようなマンガに――僕はどうしようもないほど強く惹かれてしまった。

 僕はどうやら、「なにげない日常」の中に潜む「なにげなくない心の動き」を鮮やかに描き出していくような作品がどうしようもなく好きらしい。そのさりげない描写の中に描かれた日常のきらめきをその中に見つけて、幾度ハッとさせられたか分からない。こうなると作者に対する興味も湧いてきて、この人はどういう人なんだろう?――ずっと気になっているうちに、この作品が単行本として1冊にまとめられた事を知り、その単行本『三好さんとこの日曜日』を手に入れた読みふけった。
 僕が知った時にはもうこの作品が始まってもうしばらく経っていたらしく、単行本に収録されているものは未読のものばかりだった。これはこれでもちろん楽しめたのだが、やはり雑誌で読んで最初に強く心惹かれた作品もまた読みたい。僕はそれらが収録されるであろう第2集の発売を心待ちにしていた。

 ――だが、それっきりだった。

 間もなく新作が雑誌に掲載されることもなくなり、続きの単行本が出るなんて話もまったく聞かない。いや、作者:三好 銀の名前自体、かき消されるようにマンガ界からいなくなってしまっていた。
 自分の手許に残ったのは単行本1冊のみ。これすらなかったら、ひょっとしたらあれは夢だったのではないか?と自分を疑いたくなるほど見事な消えっぷりだった。

 それから10数年の歳月が流れた。その間まったく情報はなく、時おり『三好さんとこの日曜日』が古本屋に並んでるのを見て悲しくなる日々が続いた。その後、比較的方向性が似ている「神戸在住」(木村 紺)という素晴らしい作品に出会うことができ、そちらも深く愛読していながらも、逆に読み返すたびに「それにしても三好 銀はどうしているんだろうな」とついつい思ってしまうのが常だった。このようにインターネットが普及してからは、何度となくネットで「三好銀」を検索してみたりもしたが、ほとんど情報らしい情報はひっかからず、改めてその消えっぷりを思い知らされるだけだった。
 そう、この長い長い期間、三好 銀はまごうことなき「消えた漫画家」だった。


 ところが――2009年の末、いつものようにネットで次月の新刊情報をチェックしていたら「三好 銀」の名前がいきなり飛び込んできて、思わず目を疑った。本当か?同姓同名の別人じゃないのか? 本人だとしても本当に出るのか? あまりに長く待たされたおかげですっかり半信半疑のおももちで発売日を期待と不安半々で待った。
 そして発売を心待ちにして実際に本を手に取ると、間違いなくあの"三好 銀"が戻ってきた!という感慨で胸がいっぱいになった。
 この時はなんと2冊同時発売で、うち1冊は、僕がずっと熱望していた『三好さんとこの日曜日』の続編、そこには雑誌で読んだきりずっと読み返したかった諸短編が皆収録していた。まごうことなきあの世界が目から飛び込んでくる。初めて読むものですら「ああ、やっと読めた」と感慨に浸ってしんみりしてしまうももありました。
 子供のいない三好さん夫婦は、日曜日、仕事も休みで家にいることが多いし、出かけても近所ばかし。しかしそんな狭い行動範囲の中でも、落ち着いて視線をめぐるといろんなものに出会うし、いろんなことに気づく。そうした事を丹念に拾い、描いているのだが――なんでこんなに心に残るのだろう。なんというか――こういう言い方は口幅ったいが、作中に豊かな"詩"を感じるのだ。その当時ググってみたら、「ちゃんと出汁を取って作ったシンプルなお吸い物みたいな感じ」と評している人がいたが、言いえて妙だと思う。さりげなく、あっさりしているようでいて、ちゃんと味わうとなんとも奥が深い、日本のマンガ界の中でもこういう作風の人は稀で、ちゃんとした評価が定まって欲しいと思う。まぁ、ほんとうに地味すぎるほど地味な作品なので、間違っても大ヒットすることはないとは思うけど――。
 ブランク中何をしていたのかは結局よく分からないけども、復活の少し前からコミックビームに改めてマンガ家として復帰していたそうだ。この時発売された「海辺へ行く道」は実に不思議な作品世界を持っていた。絵柄は根っこの部分では同じながらも、やはり年月を経てかなり印象が変わってきている。内容も日常を淡々と描いているようでいて、その日常自体がどこかでぐにゃりと曲がってシュールな趣が出てきていた。一応連作で一つの街を舞台として登場人物もある程度連続性があるのだが、いったいどこまでつながっているのかが曖昧であり、どこかで現実のボタンを掛け違えて非現実に踏み入ってしまって、その非現実がいつしか現実めいた色合いを帯びていくような、読み進むにつれて多層的な迷宮に迷い込んだような感じがした。ひとつひとつのシーンを読み進むうちに心のどこかが引っかかって軋みを上げ、言葉はどこか虚空に浮かび上がって意味を失っていくうち、いつの間にか別の意味を持ってまた地上に降りてくるような――それは「三好さんとこの日曜日」で僕が求めていたものとは明らかに異質でありながら、また引きこまれずにはいられないような求心力を確かに持っていた。
 この「海辺へ行く道」は最終的に全3巻のシリーズとなり、三好 銀は長いブランクのうちにいったいどこに進んでいくのか分からない独自な作風を確立していた。

 その後も寡作ながらビームに新作を描き続け、次の「もう体脂肪率なんて知らない」でも変わらず、どこに進んでいくのか分からない、でもひとつひとつのシーンが心に引っ掛かってしょうがない世界を描き出していて、僕の中では「他に真似のできない作風を確立した唯一無二の大家」との評価が定まっていった。新刊が出るのはほんと数年に1度だが、あの長いブランクの時を思えばはるかに気が楽だった。そして次の新刊が出るのを心待ちにしていたのだ。

 ――そこにこの訃報である。
 もうこれを最後に、三好 銀の新刊を心待ちにすることができないのだと思うと心から残念だ。せめて来月24日に発売される遺稿集「私の好きな週末」を心行くまで味わいたいと思う。