"厄災"としてのゴジラ ~「シン ゴジラ」を観て(ネタバレ注意)

 遅ればせながら先日、話題の映画「シン ゴジラ」を観てきました。

 子供の頃、TVや映画で怪獣に囲まれて育ったおかげで今でもそういうものに対する抵抗はないけども、一方でやはり大人になるといろいろ目線も上 がってきて、正直子供だましのものを今更観るのはきつい…と言う感じに近頃はなっていた。殊にゴジラシリーズは歴史が長くて本数も多い。長く続くうちにい ろいろ背負うものが多くなった結果、なかなか新しい展開ができにくくなっていると感じていて、むしろそうしたしがらみをかなぐり捨ててまったく新しい魅力 を創出した金子修介監督の平成版ガメラシリーズの方がよっぽど評価できると思ってたけど、その金子氏ですらゴジラを撮ったらなんだかシリーズの重みに抗お うとしたものの中途半端に終わってしまう始末。新しいゴジラを創りだすためには、それこそハリウッドに期待するしかないのかな、なんてなんとなく思ってま した。

 でも今回の「シン ゴジラ」に関しては公開前から「これはぜひ見に行かねば」と強く感じていた。別に庵野秀明が脚本・総監督を行ったとかそうことではなく、予告編を観た時か ら、なにか今までとは根底から違う、自分が観たいゴジラが観れるのではないかとそんな予感がしたのです。

 そして実際観終わって…嬉しいことにその期待は裏切られなかった。それこそ今までのゴジラの歴史を一旦リセットして、まったく新たな、言わば「もう一つ別の"ゴジラ第1作"」を創り上げたようなものだと思います。

 そんなことが可能になった背景――そこにはあの5年前の大厄災が関係しているとみて間違いないでしょう。

 この映画は明らかに「東日本大震災を経た日本」だからこそ作れた映画だと言えます。考えてみると初代ゴジラが生まれた頃の日本も、ほんの10年 足らず前に広島と長崎の原爆を体験し、また空襲により多くの都市が焼野原になり、瓦礫の山の記憶がまだ鮮明に残っている時代でした。その上に第五福竜丸の 事件が追い打ちをかけたあの時だからこそ、ゴジラによる圧倒的な破壊が非常に身近に、皮膚感覚で迫ってきたのだと思います。そして今から5年前、東日本大 震災に起因する津波による大規模破壊で大量に発生した瓦礫の山、そしてなにより福島第一原発による放射性物質の恐怖を日本中が体験し、その記憶がまだまざ まざと残っている。昭和29年に多くの日本人が感じていた共通認識を、期せずして今の日本人も共有できるようになったのだ。そんな中、映画でゴジラが通っ た後の瓦礫の山を見て震災の惨状を思いださない日本人はいないだろう。そしてゴジラが通った後に放射線の異常値を発見した時の戦慄も――。まさしく今、日 本が作るべきゴジラだと言って過言ではないと思う。

 さらにその背景を生かしきるために、「シン ゴジラ」はシリーズ2作目以降の全ての作品でやらなかった事をやってのけた。即ち、第1作の無視である。今回ゴジラは文字通り世界で初めて日本に出現し た、まるっきり前例のない事象として取り上げられている。「もう一つ別の"ゴジラ第1作"」を作り出すためには、旧"第1作"は打ち消さなくてはならな かったのだ。
 ゴジラと言う想定外の事態に初めて直面した日本――そして「シン ゴジラ」は怪獣映画と同時に政治映画にもなった。そう、ゴジラという未曽有の"厄災"に直面してどう対処するか、ゴジラを描くと共にその対応シミュレー ションが映画の主要テーマとなった。だから怪獣映画とは思えないほどの情報量(セリフの数)が早口で大量に押しこめられていた。
 冒頭の海底トンネル事故の時、政府はまず海底噴火のような自然災害として処理しようとした。しかしその直後巨大なしっぽのようなものが現れて巨 大生物の存在を認めざるを得なくなった時も、川を遡っていく怪物を前に「上陸はできない」と過小評価しようとした。その直後上陸が伝えられて――。このように、当初は希望的観測と事なかれ主義が相混ざって物事を処理して済ませようとする結果、次々と想定外の事象に直面して後手後手の対応になってしまうところ…これもまた、震災直後の情報の混乱・対応の不手際さを思い出してしまう。

 そしてその怪物が川から上陸して初めて全体像を現した時、「ゴジラじゃない」と誰もが思ったろう。それまで体の一部だけ見せていた尻尾、そして 背中の特徴的な背びれを見せられて、絶対ゴジラだと思っていただけにとんでもない肩すかしを食らわせられたと思った。しかし、その直後、これがゴジラだと気づかされた途端――この作品に登場するゴジラの得体の知れなさを初めて実感した。
 そう、このゴジラは何度も変態を繰り返すのだ。今までそのようなゴジラは存在しなかったから予想もしなかった。頭を持ち上げて完全二足歩行する 際にその急激な変態の模様を目の当たりにし、ほとんど信じられない気持ちになった。着ぐるみでなく、CG制作だからこそできる技だったが、しかしこれもゴ ジラにかなり近づいてきたがまだ明らかに違った。

 そのゴジラがなぜかいきなり海に消え、次に登場するまでに様々な情報と予測が飛び交い、話はますます混迷の度を増していく。破壊された瓦礫の山・ゴジラの進路跡で検出された放射性物質…。ますます震災のあの記憶がフラッシュバックしていって胸が詰まった。

 が次にゴジラが鎌倉に登場するに当たって、それらはすべて吹き飛んだ。再度の変態で今度こそほぼ誰もがゴジラと認識する姿になって戻ってきた時、今度はその存在感の大きさに戦慄する。
 それから遂に自衛隊との攻防になり、通常兵器が全く効かないのは怪獣映画のお約束と言っていいのだが――なんだろう、今回の生々しさは。今回多 摩川を絶対防衛ラインとして総攻撃をするのだが――発射した弾は全弾間違いなく当たっているのにまったく効果がなく、次々と強烈な武器に切り替えているの に効果に変わりなし。攻撃するうちにむしろだんだん無力感が増してくる。まったくお構いなしに歩みを進めるゴジラに対し自衛隊は必死で追いすがるが、結局 最後はあっさりと払い落とされ多大な被害が出る。強烈な虚脱感と共に、圧倒的破壊神としての恐怖感が目覚めてくる。余談だが、この多摩川攻防戦の時、これ が突破されたらすぐ自分の家の方に来るという思いが去来した――映画だという事を忘れ思わずそう身構えてしまうほど真に迫っていた。
 そして東京を無人の荒野のごとく進み、遂には都心部に迫る。そこで米軍によるさらなる強烈な攻撃を受け、初めてゴジラに傷をつけることに成功するが――真の恐怖はこれからだった。


 ここでちょっと話を横にそらす。タイトルの事だけど、「シン ゴジラ」…この"シン"とは…。今までにない"新"ゴジラということか、それともこれこそ"真"のゴジラだという意気込みなのか。おそらくは特定せず、こ ういう風に観る者に勝手に考えさせるが故のカタカナ表記なのだと思うが(海外で上映される際、どのようなタイトルがつけられるか気になる…)、ここはひと つ勝手に"神"ゴジラとして考えてみたい。
 もともとゴジラを"荒ぶる神"とする見方は新しいものではない。というかシリーズが進むにつれて次第に神格化されていって、逆に倒すのがためら われるという逆説的なところまできてしまったぐらいだ(先に振れた「シリーズが長くなるにつれて増えた背負うものの」の最たるものがこれだ)。この場合の 神とは当然西欧の一神教の神:"全能の神"ではなく、日本土着の多神教の神のひとつだろう。しかしゴジラは荒ぶる神にしても規格外だ。「シン ゴジラ」を見ているうちに思ったのは、このゴジラは格が違いすぎて、人間というものを"相手"として認識しているかどうかすら危ういものだと思った。何し ろ体内に生体原子炉を有し、何も食べずして完全に自立して生きていけるという究極の生物なのだ。神だけあって意思の疎通など最初からまったく無理なような 気がするし、そもそも意思と言うものがあるのかさえ危うい。本当に本能のままだけで行動しているように見えて、それだけに手におえない"怪物"なのだ。前述の多摩川攻防戦で、自衛隊の攻撃はえげつない程に頭と、それから足に集中していた。そして無駄弾なく、そのすべての攻撃がゴジラに命中しているのだ。しかしゴジラの様子は毛ほども変わりはない。というかこれが攻撃だということすら気づいていないのではなかろうか。執拗に、徐々に強力な 武器を用いるにつれてゴジラもようやくうるさく感じ始めたのか、ちょっと辺りのものをはらったら――それだけで自衛隊は攻撃不能状態にまで追い込まれてし まった。

 しかしこのゴジラ、同時に危うさも感じる。その体内の核分裂のおかげで膨大なエネルギーを有する一方、放射線の影響で体細胞は絶えず変化を続 け、非常に短期間の間に変態を繰り返し続けている。自分がやりたくてそうなるわけではないし、時折その体内エネルギーを制御しきれずに苦しんでいるように 見える。 そんな折、港区にまで移動したところで米軍の攻撃を受け、初めて体に傷を追わせるところまでいったが、その途端、おそらくゴジラの体内エネル ギーは暴走を始めたのだろう。再び変態が始まりかけて下あごは2つに割れ、しっぽも形状が変化し始めた。攻撃そのものよりも、制御不能に陥った体内エネル ギーの処理にのたうちまわっているかのように見えた。そして――不思議に思っていたのだ、今回のゴジラがそれまでただの1度も口から熱線を吐かない事に。 そしてこの時初めて、それも暴走するエネルギーを体内から放出するために、そう、まさしくエネルギーを"嘔吐"した。それは辺り一面に地を這い炎の絨毯と なって東京中を焼き尽くす。あの東京を一瞬にして火の海に変えたあの熱線は、まさしくゴジラが制御不能でひたすら体内エネルギーを無作為に吐き出し続け た結果に思えた。
 そして膨大な余剰エネルギーを放出したことにより体の制御を取り戻したゴジラは、その熱線をも制御し始め、その結果熱線は徐々に絞られていき細 い光線となって辺りのものを次々切り落としていく。同時に自分を傷つけた者を明らかに敵と認識したのだろう。さらには背びれの辺りから無数の光線がまるで 爆発するように放射してすべてをなぎ落していく(この新技はまったく予想してなかっただけに驚いた)。ここにゴジラの破壊神ぶりは極限に達し、観ていてどうしようもない閉塞感に襲われ息が詰まりそうになった。前半で政府の中枢として束ねていた首相以下閣僚もこの際にその多くが命を落とし、後半は生き残った 者だけでどうしていくかがカギになる。

 しかしこの攻撃はゴジラ自身にも強烈な負荷を強いるものだった。身体のほとんどのエネルギーを使い果たし、まるで凍結したかのようにその場で動 かなくなるゴジラ。これは一時的な休眠状態であり、その間着々とエネルギーが蓄積されていっているのだが、しかしこれが人間側に考える時間と、ゴジラの生 物としての特性のヒントを与える結果となった。特性が分かれば対応策も考えられる。ゴジラを意図的に永久凍結させる手段を思いつかせた。
 しかし――ああやはりここまでくると、やはり核攻撃の話が出てきた。国際問題化して、国連決議として核攻撃が決定される。もちろん避難するため の時間を与えるが、たった2週間とは規模から言ってあまりに少なすぎた。「避難とは国民の生活を奪う事だ」というセリフが非常に身に染みる。余談だが核を 率先して議決したあの国を、「アメリカ」とは1度も言わず、不自然なまでに「米国」と呼び続けたのは、「米国」はアメリカではないとの言い逃れの余地を残 したのだろうか。ちょっと気になった。
 その決議をなんとか政治的な腹芸で1日延期して、独自の永久凍結作戦をなんとか間に合わせるが、しかしその実行作戦もスマートさのまったくな い、なんとも泥臭いものだった。いきなり"画期的新兵器"が出現してゴジラを退治するなんて展開がない分、むしろ第1作よりも現実路線と言える。「無人在 来線爆弾」なんてのはちょっと愛嬌があって笑ってしまうが、周辺の高層ビルをすべて爆弾で破壊してゴジラを瓦礫に埋め、無理矢理凍結液を口から注ぎ込むな んてのはアナログの極みで、どんくさい。しかしだからこそなりふり構わずギリギリの必死さが出ていた。
 最終的にはそれが功を奏してなんとか凍結に成功するが、その勝利にカタルシスはまるでない。なにせ凍結したとはいえゴジラはそこにそのままいる のだ。はたしてこの凍結はいつまでもつのか、ある日また動き出すのではないか…そんな危惧はいつまでも消えないし、もし活動再開の兆候が見えた場合、今度 こそただちに核攻撃を行うことをほのめかしている。言わば石棺に埋めたチェルノブイリ原発のようなものだ。第1作ゴジラは「このゴジラが最後の1匹とは思 えない」と締めくくったが、今回のは「このゴジラがもう2度と動かないとは思えない」というセリフが出てきそうだった。最後まで"核の恐怖"を匂わせるラ ストだったと思う。

 ゴジラ核兵器…といって思い出すのは1984年の「ゴジラ」のことだ。あれも当時の東西冷戦を背景に、この世界情勢の中にゴジラと言う巨大怪 獣が現れたらどうなるか、というシミュレーションドラマの一面があった。そのためソ連の核ミサイルがゴジラに向けて誤発射されると言った非常に興味深い シーンもあったのだが、この映画の場合それと同時にどうしようもなく過去のゴジラを引きづってもいた。そのため両者がうまくかみ合わずにストーリーに軋轢 を生み出し、結局どっちつかずの中途半端な出来に終わってしまった。僕は最初にこの映画を観た時、「よし、基本方針はこれでいい。そのまま台本を1から作 り直せ!」と叫びたくなったのを記憶している。そして今回、東日本大震災を経て、本当の意味で過去のゴジラをばっさり切り捨てて、再度強烈なシミュレー ションを得て、今の日本で作るべきゴジラを作ってみせた、それが「シン ゴジラ」だ、という思いを強くした。ゴジラの出現を徹底して想定外の厄災と位置づけ、それにどう対処すべきかを徹頭徹尾人間の側から描いてみせた。はたし てゴジラに意思や感情があるのか、自分の行動をどう思っているのか、すべてはまったく分からない。分からず、得体がしれないからこそ恐ろしい。恐ろしいか らこそ、どうしようもないほど強いからこそ活動停止に成功した時にはただただただただほっとした。泥臭い攻撃・カタルシスなき結末は最後までリアリティを 保持することに必要不可欠だった。間違いなく、全ゴジラシリーズ屈指の傑作だと言えるでしょう。

 このラストだと「その後」が気になってしまうし、今回の成功により続編の話が出てくる可能性は高い、とは思うが――このレヴェルを維持した続編 をつくるのは並大抵ではないし、やはりリセットした1回めだからこそできたことも大きいと思う。だから続編作るぐらいだったら――全く別の、もうひとつの 「シン ゴジラ」を観てみたいと思う。