マウスピースのリフェイシング!?

 前回、マウスピースの手入れについての考察を書いたばかりだが、その矢先、今月号のPipers(Vol.426)に興味深い記事が載っていた。「マウスピースのリフェイシング」についてだ。

 リフェイシング? 耳慣れない言葉だがその意味するところは察しがついた。フェイシングとはマウスピースでリードと接するあのわずかに傾斜している部分の事。そこを再構築する、ということだろう。
 さっそく雑誌を手に取ってみると、言葉同様、今まで自分では考えもしなかった事が次々と書かれていて目を瞠った。使って摩耗したマウスピースを再生、さらにはチューンナップできるというのだ。

 いや、正確にいうとマウスピースの加工自体には馴染みがあった。例えば先ごろ亡くなったドイツのヴィオット氏が制作したマウスピースにはかつてさんざんお世話になったが、彼は本職は数学教師でありながら、余技としてマウスピースのフェイシングを自らひとつひとつ手作業で削り直し、製品として販売していたのだ。彼の場合もベースはツィンナー製マウスピースであり、自分は最後のひと手間を加えただけ。これも一つのリフェイシングといえるのだろう。しかしこれはあくまで製造過程としての一環であり、使用後に再調整して復活させる、いわば調整としてのリフェイシングという発想はなかった。しかし記事を読み進むうちに、今まで自分が知っていたことのすぐ傍らに、マウスピースのリフェイシングというものが古くから存在していたことを初めて知って驚いた。

 それはマウスピースの歴史とも関係している。そもそもマウスピースはかつて楽器本体同様木で作られていた。それも知っていたけども、木は元々環境その他で変形しやすい素材だから、今よりもはるかに変化を受けやすい。だからこそ頻繁に調整して状態を維持する、あるいはチューンナップしてより良い状態にすることが必須となり、その技術が自ずと発達していったのだという。

 しかし近年エボナイトその他状態がより変わりにくい素材でマウスピースが作られるようになってから、それほど頻繁に調整する必要がなくなり、それに伴いマウスピースの調整技術そのものも次第にすたれていった。その結果、徐々にマウスピースは1回摩耗すればお終いの「使い捨て」のものだという認識が定着するようになって今に至るのだ。
 かといって現在のマウスピースだって"木に比べれば"ましというだけであって、変形しないという訳ではない。前回の書き込みで、吹奏後の手入れによる変形の事を気にしていたけども、今回のPipersの記事によると、それよりも前、実際に吹いているうちに下唇がリードと接触する辺りから摩耗が始まり、徐々に奥に、下にと拡がっていくのだという。となると、マウスピースの摩耗は吹奏後の手入れや保管方法でどうということではなく、長い目で見ると使い減りは避けようのない事となる。

 「マウスピースに息を吹き込んだ瞬間、あるいはリードが振動した瞬間から、すでに変化は始まるのである」筆者はそう言う。もっとも変化は悪いばかりではなく、時にはその人によっていい変化をもたらすこともあるが、いずれにしろその状態がいつまでも続く訳ではない。吹き続ける限り状態は少しづつ変わっていくのだ。
 そして次第にマウスピースとリードの接触面の状況が変わっていき、筆者によると、当初のフェイシングが維持されるのは、使用頻度にも選るがほぼ2年だという。これはだいたい僕の感触的にも納得のいく数字だ。前回の書き込みで取り上げたマウスピースを購入したのは2014年の5月、それから2年半ほど気に入って使い続けてきたが、12月になって急におかしく感じ始めた。僕がマウスピースを「換えよう」と気になるのはだいたい2点、なんか吹いていて気密性がなくなった気がして、息を吹き込んでから音が出るまで何かワンクッション置くような感じになり、ダイレクトに反応してくれなくなるのだ。もしくは妙に音が細く甲高くなって自分の音に納得できなくなり、吹いてて嫌気がさしてくるのだ。
 今回この記事で、筆者がすり減ったマウスピースを使ってて相談を受けた人の悩みの代表的なものを挙げているの。曰く「リードが全然合わなくなった、レスポンスが悪くコントロールしづらくなった、音が明るくキンキンするようになった、響きが不安定になり音の芯が失われた、以前とは違う(通常より硬めの)リードを選ぶようになった、等々」これを読んで思い当たることがありすぎて参ってしまった。実は今回のマウスピースも、使っていて昨年あたりからそれまで使っていたリードが妙に薄く感じるようになって、実際により一段硬めのリードを取り寄せて使ってたりしてたのだから――思えばその頃から既に摩耗が進んでいたのだ、と今になって思い当たる。

 結局僕が前回書いた手入れについての考察なんて大した意味はなく、普通に吹いていれば摩耗はもう避けられようがない不可逆的なものだということがはっきりしてしまった。どうしたらいいんだろう――。僕はクリスタル製のマウスピースは使ったことがないが、今回の記事の中でクリスタル製が(他の材質に比べて)吹奏による摩耗が格段に少ない事が述べられている。もちろん落としてしまえば一発で砕けてしまうものではあるが、そういう事がなければ、うまくすれば一生もんとして使う事すら可能なレヴェルだという。これを読んで、一瞬クリスタルのマウスピースを購入しようかとすら考えてしまった。

 けどこうした摩耗してしまったお気に入りのマウスピースを復活させる方法として、今回の「リフェイシング」があるのだ、と筆者は述べている。これをすれば気に入っていた元の状態に戻すのはもちろん、場合によってはよりいい状態にチューンナップできるのだと。
 ただ、これはもちろん相当な特殊技能であり、素人が簡単にできるものとは到底思えない。ケーンのリードをトライアルアンドエラーしつつ調整していくのとは訳が違う。でも使い古したお気に入りのマウスピースがまた復活するというのは非常に魅力的な提案だ。この記事の筆者はプロのクラリネット奏者として活動しながらこういうマウスピースのリフェイシングを研究し、現在は既製品の調整だけでなく自ら設計したマウスピースを商品化するに至っているという。
 日本にリフェイシング技術を持つ人がいるのかどうか、聞いたことがないが、もしいてくれたら、時折楽器本体を調整に出すみたいに、マウスピースを調整に出して復活することができたらいいな、とつい考えてしまう。

 ともあれ今回の記事は前半であり、次号にはこの続きの記事が掲載されるそうだから、この先にまた何が書かれるのか、とりあえず今は興味を持って待ちたいと思う。

マウスピースの洗浄、その試行錯誤

 楽器の演奏にはマニュアルは存在しない。そりゃ基本的な吹き方とかそういう指針めいたものはあるけど、個人差があって「こうすれば必ずこうなる」と言い切れるようなものはない。結局のところある程度まで行けばその先は各人がそれぞれ自分に見合った方法を模索していく事が必要となってくるのだろう。そういう奥深さがあればこそ長年趣味としてやっていける面白さに通づるのだが、そのため、あるひとつの事に関してに十人が十人違う事を言うことだってある。

 僕がやっているクラリネットについていえば、マウスピースを普段どうやって手入れをするか、なんてその最たるものだろう。

 マウスピース(金管やボクシングで全く別のものを指すのでややこしい)はクラリネットの先に挿し込んでリードをセットすることによって歌口として機能するものだから、始終息を吹き込んでいくので吹いていくうちにどうしても汚れてくる。だから当然掃除する必要があるはずなのだが、困ったことにその洗浄の仕方に"定説"がないのだ。

 ちなみにクラリネット本体は、吹いた後に"スワブ"という紐のついた布を通すことによって管の内側についた唾その他を拭き取ることが必須となっている。マウスピースも一見同じようにしそうなものだが、それは「しない方がいい」とよく言われる。
 マウスピースは非常にデリケートな器具であり、ほんのちょっとした変化で吹き心地が変わってしまう。僕も前に、うっかり手を滑らせてマウスピースを床に落っこどしてしまったことがあるが、それだけでもうぜんぜんダメになってお蔵入りせざるを得なかった。マウスピース自体は楽器と違いエボナイトでできている事が多い(最近他の新素材が使われる例も増えてきた)のだが、このように衝撃にはかなり弱い事は確かだ。
 だから吹くたびにスワブを通したりしていくと、特にデリケートな内側が徐々に削れていって寿命を縮める、というのだ。現に僕が最初にクラリネットを教わった先生(現在も日本を代表するプロオケでトップを吹いている人ですが)からは「マウスピースは自然乾燥しとけばいい」と教わり、なので吹いた後もただそのまま放っておくことを長い事続けていた。

 けど――やはりなんにも掃除しないのもよくないことがそのうちだんだん分かってくる。吹くという事は口の中と常時接触して、そこから絶えず息を吹き込んでいく事だから、息だけでなく口の中のものが一緒に流れ込んでくる。それが少しづつマウスピースの内側に付着していくのは避けようがない。衛生的にも問題があるが、いろんなものが付着して内側に層をなしていき、結局はマウスピースの状態を変えていってしまうのだ。
 やっぱり掃除した方がいいな、とは思いつつもスワブ通せば削れてしまうと言われればそれもためらわれる。ではどうするか――それが、前述のように"定説"がないのだ。考えあぐねた挙句、時折中に水を通したうえでおそるおそる麺棒で軽くなでて汚れを取る、ということを続けてきた。

 「それじゃみんなどうしてる?」と気にかかるのは当然だろう。調べてみるとやはり誰もが知りたい問題らしく、雑誌のQ&Aコーナーとかネットで調べてもいくつかその人なりの回答が目についた。

 その1「コップに水を張ってその中にマウスピースを(コルク部を水に浸けないように)入れ、そこに入れ歯洗浄剤を投入する」
 これはなるほどと思って実際にやってみました。ドラッグストアで(ちょっとこそこそと)ポ〇デントを買ってきて、マウスピースを投入。シュワシュワの泡に包まれていかにもきれいになりそうな感じだったんですが――浸かってた部分が変色してしまったのを見て、なんかヤバい感じがして2度とやる気が失せました。

 その2「コップにポ〇カレモンを入れてそこにマウスピースを突っ込んで一晩置いておけば驚くほどきれいになる。食品だから安全」
 逆に食品を洗浄に使うのに抵抗感を感じてしまって――それにまた浸けた部分が変色してしまうのではないかという不安がよぎり、結局1回もやりませんでした。

 その3「マウスピースなんてしょせん消耗品なんだからさ、気にせずスワブ通していいよ」
 あるプロの人に直接訊いて返ってきた答え。ある意味正論でぐぅの根も出ず、実際一時期マウスピースにスワブを通していた。でも最初に叩き込まれた教えが常に頭の片隅から離れず、暗示かもしれないけど徐々に吹奏感が変わってくる気がして――長続きしませんでした。

 さてそれではどうすべきか。極力マウスピース本体に影響を与えずに汚れだけを落とす方法はないものか…。数年前、某メガネ量販店の前で(これ、いけるんじゃない)とアイディアがひらめきました。
 そう、店舗の前によく置かれているメガネ洗浄機です。超音波洗浄機の事はその以前から話に聞いていましたが、実物を見たのはここが初めてでした。水を張ってある中に眼鏡を突っ込んでスイッチを入れると、蝶番など隅の方に溜まった汚れだけがぶわーっと水の中に浮き出てくる。初めて見た時にはちょっと感動しました。で、なんとなくずっとこれはメガネ洗いのためと思っていたのですが、ある時(ここにマウスピースを突っ込んだら…)と頭の中でつながったのです。まぁいくらなんでも店先でいきなりマウスピースを取り出すのはためらわれたのですが、調べてみるとこの超音波洗浄機、家電量販店で数千円で買えると知り、思い切って"マウスピース洗浄のために"買ってみたのです。

 特に変わった使い方はしていない。張る水に関しては「エボナイトは塩素はよくない」とのことなので浄水器を通した水を使っているぐらい。コルク部分に水を浸けない方がいいとは聞いているので、コルク部分を持って張った水の中に先の方を突っ込み、手でホールドしたままスイッチを入れて終わるまでそのままの体勢で待つ、そのぐらいか。頻度は月1回ぐらいだが、思った通り、スイッチを入れるとマウスピースからは驚くほどの汚れが湧き出てきて、(こんなに汚れてたんだ)と驚く。超音波で共振する影響はどうなんだろうと不安はあるが、元々吹いている時にも共振しているんだから考えないことにした。

 こうしてここ数年、マウスピースの洗浄はもっぱら超音波洗浄機でやってきた。気のせいかもしれないがマウスピースへの影響も少なく、寿命も延びたような気がしていた。ただ、先日ある事があって以来、これだって他と大差ないやり方なんじゃないかと思えてきた…。

 というのも去年の暮れ、練習してなんか妙に音が細く、薄っぺらい音がするようになってしまったのだ。いきなりどうしてだ?としばらく訳が分からずとりあえずまた超音波洗浄機で洗ってみたのだが、その時に内側を覗き込んであることに気がついた。
 コルク側の内側、つまり洗う時手で持っている方の接合部近くに、なにやら薄く盛り上がりが見えたのだ。なんだか分からなかったがこれが関係してそうな気がして、内側に水を通してまんべんなく濡らしたうえで、麺棒を使ってその盛り上がりをこそげ落してみた。それで分かったのだが自分の痰のかけらがへばりついていたのだ。そういえあばその少し前に風邪を引いて鼻水や痰がひどい状態の時があって、そんなときでも楽器吹いていたものだから息と一緒に痰が吹きこまれ、マウスピースの内側にくっついて乾燥したものらしい。前述のように超音波洗浄機に突っ込むときコルク部分を持っているからそこは水に浸かってない。つまり超音波洗浄の死角に入ってしまっていたのだ。

 仕方がないのでマウスピース内部に水を通して濡らしたうえで麺棒をあててそっとこそげ落とす。その上で改めて吹いてみて、とりあえずは状態が好転したようには思えたのだが…それでも、その前と同じようには戻らなかった。吹いているうちに思うようにならない不満がだんだんに溜まってきて――その時たまたま別の具合のいいマウスピースに出会い、結局新しいのに乗り換えることにした。

 自分の中では超音波による洗浄はなかなかいい方法だと思っていたのだが、とんだ落とし穴があった。そして水に浸ける以上、どうあってもコルク部分は洗浄範囲内になってしまう訳で…。息と共に汚れが溜まるのが先端部分が主なので気にしてなかったが、これは結構大きな問題だ。(入れ歯洗浄剤やレモン果汁にも同様の死角が存在する)
 結局このマウスピースの寿命は2年半余り。気に入ってたのだが、結局これまでとさして変わらない寿命で終わってしまった。

 こうして話は半ば降り出しに戻った。結局一番いいのは「気にせずスワブを通すこと」になるのだろうか…???

「響け!ユーフォニアム2」を観終えて

 昨年放映された「響け!ユーフォニアム2」に関しては、放映開始前に「期待と不安」と題して投稿し、かつ各回放映ごとにコメントの形で所感を述べていったが、無事最終回が終了した今の時点で、改めて全体の総括をしてみたいと思う。

 結論から申せば期待は決して裏切られずに全体的に素晴らしい出来栄えだったけども、一方で危惧していた部分も予想通り出てしまい、必ずしも第1期のような完成度には至らなかった。

 危惧していた部分――それは前回も書いたように原作第1巻と第2巻の「性格の差」だった。第1巻が最初らしくさまざまな要素がからみあって徐々に組織が組み立てられていく過程が描かれていて、非常に多様な内容を持っていたのに対して、第2巻はそれを受ける形で、第1巻で少しだけ触れられていた前年発生の「1年生大量退部」によって生じた部内の歪み、それが端的に表れた「みぞれと希美問題」の発生と解決に至るまでを一気呵成に描いた作りになっていたのだ。それだけに第2巻は第1巻や第3巻に比べて少し短めで、他の要素を加えづらい。結果的に第1期のように第2巻1冊分を1クールでやるのは分量的に足りなかったのだ。

 結局、「響け!ユーフォニアム2」の制作において一番の壁となったのは、1クール13回という放送業界の枠組みそのものだったのだろう。このスタッフなら、おそらく第3巻をアニメ化するならば1クールでぴったり収まるだけの内容を組み込めただろうし、結果第1期に勝るとも劣らぬものができたと思う。しかし第2巻を飛び越して第3巻を創る訳にもいかないし――。おそらくこの点は制作の最初の段階で原作をどう処理するかさんざん検討されただろうし、結論として、1クールで第2巻と第3巻を一気に駆け抜けるという策を取ったのだろう。
 だがそうすると今度は無理矢理その内容を押し込む形となり、あちこちで駆け足or端折るという場面が出てきてしまった。第1回を倍の1時間枠にすることにより実質14回分の時間を確保したとはいえ、それだけでまかないきれるものではなかった。

 殊にそれは第2巻分で顕著になった。なにせ最初の5回(実質6回)分の時間しか割り当てられなかったのだから。その展開の速さはこちらの予想を超えていた。第2回の前半でプール回を処理し、後半と第3回で合宿を駆け抜け、第4回では早くもクライマックスに――。その結果、さすがに原作のすべてを処理することができず、重要な要素がぽろぽろと抜け落ちてしまっていた。
 そのひとつが「強豪ひしめく関西大会突破の困難さ」だ。幸先よく府大会を勝ち抜いたものの、その次の関西大会は圧倒的な強さを誇る"3強"がひしめいていて北宇治の突破はほぼ絶望的だった。「みぞれと希美問題」と並行して、そのプレッシャーが原作ではひしひしと感じられたのだが、その部分が駆け込みで申し訳程度にしか描かれなくて、そのため関西大会突破のドラマ性が薄れてしまった。ここで姿を消す梓とのやりとりももっとしっかり描いてくれれば…と悔やまれる。
 その影響は、第5回の関西大会の描き方にも表れてしまった。もちろんここではこちらが待ち望んでいた「三日月の舞」ノーカット演奏なんてとんでもないものを見せてくれたのであんまり文句はいいたくないが、北宇治がどうして"3強"の一角を破って関西大会を突破できたのか――北宇治の後に演奏した"3強"のひとつ秀大附属に起こった事件、これは第2巻の中でも特に強烈に印象に残った部分だけに、ここがばっさりカットされてしまったのには悲嘆にくれた。
 その結果、北宇治が強烈なプレッシャーの中いかにギリギリで薄氷の勝利を得たのか、そのところが描かれず、なんとなく関西大会を突破したかのような風になってしまったのが、今回一番残念に思う所だ。

 そして「みぞれと希美問題」に関しても、やはり駆け足でやったためか踏み込み不足になった事は否めない。第4回の衝突も、なんか「いろいろ誤解もあったけどなんとか和解できてよかった」みたいな感じで非常にマイルドに描かれてそれで終わってしまった。これもまぁ外面的にはそんな風にも見えることは確かなんだけど、原作を読むと2人の間の断絶の深さにぞっとするほどなのだ。みぞれの想いは希美にはまるっきり伝わってない、というか想像の埒外にある。詳しくは原作を読んでもらうしかないだろうが、2人の溝は実は全然埋まってない。そのことを思い知らされながらも、みぞれは希美がまた自分のそばに戻ってきてくれたことが嬉しくてその表面的な和解を受け入れる――。
 僕はこんなところに作者の(決してラノベの域にとどまろうとしない)"作家魂"を見た思いなのだが…アニメでは時間の制約もあったのかもしれないが、なんかあえて踏み込まないという判断をして表面的な(きれいな)解決で済ませたような気もする。
 ま、このみぞれの想いをあすかもまったく理解してなかったことが直後に判明するのだが、そちらだけアニメで取り上げただけになんか中途半端な後味が残った。

 ※アニメから外れるが、この"両者の断絶"は作者にとってもかなり重要なテーマらしく、スピンオフの「立華高校マーチングバンドへようこそ」でも形を変えて再び取り上げている。こちらは言ってみれば同じ問題を希美の立場から描いたようなもので、作品に明るく前向きなだけでない影の部分をつけ加えていた。

 関西大会を終えて全国大会を控えた第6回からはそれまで時間の制約に押し込まれた閉塞感が一気になくなり、なんだかのびのびと描かれるようになって、観ているこちらもなんかほっとするようになった。第3巻ではメインにあすかの問題、サブに久美子の姉麻美子の問題が共振するような構成になっているのだが、アニメはそれをうまく並行させてうまく響き合わさるように構成されていた。原作をアレンジしてうまく膨らませる部分もいろいろ見られたけども、ただやっぱり時間的にそんな余裕がないので、どこかを膨らませるとどこかが削られてしまって――。前半のようにちょっと致命的なほどのカットこそなかったものの、ちょっと「惜しい!!」と思う事はいくつかありました。膨らますところも第11話のように「どうしてここをそんなに膨らませるのかな?」と思うような話もあり、ちょっとバランス悪い気もします。なによりこれでは塚本君がかわいそすぎる。出番がことごとく削られちゃって…。
 そんな中でもほんと素晴らしい回があって、第9話と第10話はほとんど文句のつけようのない素晴らしい出来でした。ストーリー的にも最重要ポイントだという事があるんでしょうが、ここでの久美子とあすかのやりとりは思惑と感情に満ちていて、スタッフもキャストもその力を総動員したことが感じられます。なんかこれを観るためにこれまでずっと観続けていたんだ、という"報われた"感がありました。

 第12回の全国大会、ここで、まぁ、関西大会とは逆に、ドラマ部分に集中するために演奏全カットという思いきった手に出る訳ですが…。それでもいささか駆け足になってしまったのは、やはりそれでも時間が足りなかったんでしょうね。もしもできることならこの回も1時間枠で観たかったなぁ。少なくとも滝先生があすかに進藤正和の言葉を伝えるシーン、ここはもっとたっぷり時間をかけてほしかった…。
 しかしそんな思いも最終回を観たらかなり吹っ飛びました。原作ではほんの数ページしかないエピローグを、よくぞここまで…。ほとんどオリジナルになってましたが、ラストの卒業式のシーンは原作をきっちりと使い切り、かつうまい具合にアレンジして膨らまして、ほんとこれ以上ないラストシーンに仕上がっていました。最終回でのコメントの繰り返しになりますが、脚本・演出・作画・音響――その他すべてのスタッフの技量の高さには感服します。もちろん各声優の方々の演技にも。この作品を作っていただいたすべての人に感謝いたします。(しかし塚本君だけは最後まで不憫だ~っ!)


 全体を総括すると、やはり最後までこのアニメ制作は「時間制約との闘い」だったのではないかと思います。もし1クールという時間に縛られずに、そう…全20回(第2巻8回+第3巻12回)ぐらいのペースで作れたら、おそらくとてつもなくすごいものになった、そう思えるだけに、ほんと惜しい出来だったと思います。全国大会での演奏は全カットされてしまったけども、音楽の方は先にその分もちゃんと録音済みだったようですね。もうすぐ出るサントラCDには、ちゃんと「関西大会」と「全国大会」2つのヴァージョンが収録されてるようですから。

 ああ、もう、なんか「響け!ユーフォニアム2 ディレクターズカット版」みたいなのないのかなぁ、なんてついつい考えちゃいますね。

佐村河内 守を擁護する気はさらさらない、だが…~吉本浩二「淋しいのはアンタだけじゃない」

 物心ついた時には「鉄腕アトム」があり、小学生時代に「ブラックジャック」の連載にリアルタイムで接していた世代ということもあって、手塚治虫作品は今もなお自分にとって特別な存在であり続けている。そんなだからこそ数年前に「ブラックジャック創作秘話」なる作品が連載されれば飛びつかずにはいられなかった。手塚治虫の創作現場をインタビューを元に再構成したこの作品、実際には既知の内容も多かったが、連載が続くに従ってその周辺の人たちまで題材は幅広く広がっていき、個人的には最後まで興味が尽きないものとなった。

 その作品の絵を担当したのは吉本浩二。初めて聴く名前で、他に原作者がいるとはいえこれだけいろんな人に取材してマンガに纏めていくのは大変だろうとは思いつつ、絵柄はけっこう泥臭くてちょっと時代がかっているのが気になった。今回は題材が題材だから読んだけど、なんとなく彼の他の作品を読むことはもうないんじゃなかろうか、とそんな気がしていた。

 なのに再び彼の作品を読もうという気になったのはほんの偶然。雑誌をパラ見していたらいきなりあの"佐村河内 守"が出てきて思わず目に留めたのがきっかけだった。それが吉本氏の作品だと気づくのはもう少し後のことになる。

 「淋しいのはアンタだけじゃない」そうタイトルがつけられたこの新作は別に佐村河内を描こうというのではなく、「聴覚障害とはどういうことか」というシリアスな題材を取り上げたものだった。
 今回初めて吉本氏が他にどういう作品を今まで書いていたか知ったのだが、特に近年、取材に基づいたドキュメンタリータッチのノンフィクションに力を入れているらしく、「BJ創作秘話」もその中のひとつといってよかった。マンガ界では他にあまり描いてないジャンルであり、絵柄より内容で人を惹きつけられるものなので、このようなスタイルはなるほどと思った。

 この作品は作者と担当が二人三脚で自ら取材を重ねて作り上げたものだが、ページを繰るたびに驚きに満ちた内容が次々と出てくる。そして自分が今までいかに聴覚障害について無知であったかを思い知らされ、恥じ入りたくなるほどだ。
 普段、人がどのように周りの状況を把握しているかというのに、今までどちらかというと視覚情報が主だと思っていた。ただ、もちろん視覚情報も重要だが、他者とのコミュニケーションツールとして、リアルタイム性が重要な場合ほど聴覚からの情報がどんどん重要になっていく。なにより一番それが発揮されるのが緊急時だ。火災のような災害時、警報は主に音として発せられる。聴覚障害者には時としてこれは致命的だ。作中にも取り上げられているが、何も気づかずに部屋にいたらいきなり消防署員が踏み込んできて、何事かと外を見たらもう火がすぐ目の前まで迫ってきて…。この人は幸い九死に一生を得たようだが、その状況を想像するだけで恐ろしさに震え上がる。こんな非常時でなくても、普通に電車に乗っている際でも、運行情報は主に車内アナウンスによって行われている。聴覚障害者にとってはすべての情報を遮断されているに等しい。こんな何気ない所で日常的に強烈なプレッシャーの中で生きていく、というのを知らされると、今まで気づかなかったことに申し訳なくなってくる。
 こうした様々な事象を、吉本氏はインタビューという形で淡々と描いて行く。変に脚色するでもなく、あるがままに――。そのことが一層事の重大性を際立たせているようで、彼の作風がプラスになっていると思う。

 こうしてみると、足腰が不自由な人に対するバリアフリーとか、視覚障害者に対する点字ブロックその他といった障害者対策はいろいろあるが、聴覚障害者に対しての対策は一番遅れているのではないだろうか? なにより、作中でも触れられているが、聴覚障害者は一見障害者に見えないという状況がある。ひょっとすると彼らは障害者全般の中でも一番不便を強いられている存在なのかもしれない…。

 そしてどの障害でもそうだが、聴覚障害も障害の度合いは人によって違い、また状況も千差万別でひとくくりにできない。この作品中でも"耳鳴り"の事は大きく取り上げられている。
 僕もかなり最近まで、全聾の人というのはまったくの無音状態の"静かな"世界にいるのだと思っていた。しかしそういう人だけではなく、人によっては外からの音は聞こえないくせに自分の内側からの、"耳鳴り"という無限に続く騒音に悩まされ続けている――。その事を僕が知ったのは、白状すると佐村河内の事が大きく取り上げられてからのことだった。最初は小さな耳鳴りだった兆候が、時が経つにつれどんどんひどくなっていき終いには失聴する…。自分自身、子供の頃から軽度の耳鳴り持ちだっただけに、これを聞いた時は(自分もそのうちいきなり聴覚を失うのではないか)と怖気だったのを憶えている。
 この作中で取材を受けた障害者のひとりも「常に頭の上にジェット機が止まったままになっている」ような耳鳴りに常に苦しめられる(他にも日によっていろんな別の音が混じるという)事が語られていて、耳鳴りの状態は自分も覚えのある事なので(程度の差はあれ)その感じが想像できてしまい、より一層のリアリティがあった。
 その他にも、全聾の人がしばしば素晴らしい笑顔を見せる理由とか、"音"を感じた事がない人が日常にあふれる音を最も察することができるのがマンガで多用される擬音だったとか…単行本第1巻だけでも本当に目から鱗が何枚も落ちるような事象にあふれていた。

 しかし今、聴覚障害を取り上げるとなると、どうしても1人の男の事に触れない訳にはいかない。もちろん佐村河内 守のことだ。成人してから全聾になり、耳鳴りに苦しめながら作曲を続ける"現代のベートーヴェン"。その触れ込みで一大ブームを築いた苦難の作曲家。その姿が3年近く前に一気に瓦解したのは記憶に新しいが、この事件のポイントは次の2つにまとめられる。
 (1) 実際は彼は作曲などしていず、すべてはゴーストライターの作品だった。
 (2) 本当は全聾でもなんでもなく、耳は聞こえていた。

 このうち(1)についてはもう間違いがない。佐村河内自身も認めており、その作品のほとんどは新垣 隆氏によって書かれ、彼自身は1音符も書いてないことは明らかである。そしてこのマンガにおいても、(1)については直接関係ないのでまったく触れられてないし、それは妥当だと思う。
 問題は(2)だ。佐村河内の言葉によると「かつては全聾だったが、数年前から少し聞こえるようになってきて、改めて検査したところ"感音性難聴"と診断された」ということだが、(1)で「騙された」人たちには、もはや(2)も信じられるものではない。一緒くたに否定されてしまった。
 実際、前述のように聴覚障害は見た感じではなかなか分からないので、他の障害に比べて、特に検査機器があまり発達していなかった以前は偽装が比較的容易だった。実際、そのようにして大量の偽装者が出た、という「負の歴史」にもこの作品中できっちり触れられている。(ただその大半が貧しい人で、偽装の動機が生活苦を和らげるためだった、というのがなんともやりきれないものが残るが)
 このマンガで特に注視しているのは、一連の騒動後、佐村河内が単独で主催した記者会見のことだ。あの時彼はトレードマークの長髪を切りサングラスも外し、手話通訳者ひとりを介して大勢の記者と相対した。その際に時折記者の言葉に直接反応したように見えた時があったことで、「佐村河内と普通に会話した」という新垣氏の言葉が裏付けられと多くの人が感じていた。

 しかし――本当にそうなのだろうか、と作者は疑問を投げかける。繰り返しになるけども、ほんと我々は聴覚障害者の実態についてあまりにも知らなかった。なによりもまず知らなければならないのは「聴覚障害者=全聾」ではないことだ。他にも一言で難聴と言っても大雑把に言って伝音性と感音性があり、さらにその複合型も存在するらしい。それぞれに程度が人によって違い、dB(デシベル)で表現されるが、同じdBでも人によって、また日によって、その場の環境によって聴こえ方が千差万別だという。佐村河内が例の記者会見の時に開かした「50dBの感音性難聴」というのはかなり微妙なもので、状況によっては聞き取れることもあるが、音がゆがんで入ってくるので脳内で補完して判別できる時もあるがそうでない事も多い。殊に人が大勢いてがやがやしている所では「ほとんど聞き取れない」のが実情らしい。佐村河内と同じ「50dBの感音性難聴」の人にもインタビューしていくが、その状態がどのようなものであるか、その状況を説明し様にも非常に伝わりにくいものではあるが、作者はマンガならではの技法を駆使して一般の人にもうまく察せられるように表現している。その結果、あの記者会見で佐村河内がいったいどのような状況にあったのか…。その姿がおぼろげながら徐々に我々にも"見えて"くる――。そういった意味でこの作品はまさしくエポックメイキングといえるものであり、ひょっとすると吉本浩二はこの作品で「ドキュメンタリーマンガ」というひとつのジャンルを確立させるのではないか、そんな期待すら抱いてくる。

 そして第1巻の後半、作者は遂に佐村河内自身とのインタビューに成功する。もちろん例の事件そのものにはほとんど触れず、彼の現在の耳の状況がどのようなものであるかを主に探っている。それ自体は非常に興味深いものではあるが、ただやはり彼と深く接することに対しては一抹の不安感はぬぐえない。
 それは作者に非がある訳ではない。佐村河内は間違いなく稀代の詐欺師である、それは疑いようがない。今もなお、一応は謝罪するような事を言っていながら、一貫して自分を正当化することに汲々とし、少しでも自分を非難しようとする言動は一切認めようとしない。この期に及んでその鋼のような精神力は驚くべきものだ。佐村河内へのインタビューはその後も回を重ねているようだが、あまり彼に近づきすぎると、いつしか彼に取り込まれて、いつしか作品が彼の都合のいいように捻じ曲げられていくのではないか、佐村河内のプロバガンダに利用されていくのではないか――。
 この作品には大いに期待しているし、「聴覚障害者の事をひとりでも多くの人に知ってもらいたい」という作者の意気込みにも強く賛同しているので、もしそうなってしまっては聴覚障害者全般にとっても不幸な結果になってしまうかもしれない、という危惧がどうしてもぬぐいきれないのだ。
 
 佐村河内とは、それだけ危険な男だと思っている。

新垣 隆の新作交響曲「連祷」を聴いて

 あの"新垣 隆"が新作を、それも交響曲を発表し、しかもそれがDECCAからCDが発売されると聞けばさすがに気になってしまい、どんな曲だろうと思わず買ってしまった。

 新垣 隆という作曲家、まぁ僕も他の人と同様、一昨年の一連のゴーストライター騒ぎの際に初めてその名を知った。佐村河内 守という稀代の詐欺師と共に、もう一方の当事者としてマスコミの矢面に立たされたが、世間の印象は佐村河内とは逆だった。どちらかというとその才能を食いつぶされた被害者とみなされ、全体的に同情が集まった。
 結局その後の活動は対照的だった。引き籠ってマスコミから逃げまくった佐村河内と違い、新垣氏は作曲家として注目されるだけでなく、乞われれば気軽にTVにも出演した。しかも時が経るに従って「こんなのに出る事ないのに」と誰もが思う音楽と関係ないヴァラエティ番組にまで引っ張り出され、時にはコントの片棒まで担がされたのだから。しかしどんな時もそのまったく慣れてない様子のまま、困惑した態度でたどたどしげにこなす様子が却って好印象を与えた。
 どうやら新垣氏は「頼まれると断れない」性格らしい。ゴーストライターもこの性格が災いしたというし、ところ構わぬTV出演も同じ理由でいいようにいじられてしまったような気がする。それに案外サーヴィス精神も旺盛なのかもしれない。
 TV等の露出のおかげでその顔や人となりは知られるようになったが、はたして肝心の「作曲家:新垣 隆」とはどうなのか、そこのところが置き去りにされてしまっていた。

 もちろん交響曲「HIROSHIMA」を始めとする一連の佐村河内作品が事実上すべて新垣氏が書いた音符から成っている事は明らかになっている。でもはたしてこれがどこまで彼の実力とみなしていいのか、正直判断が難しいと思う。
 交響曲「HIROSHIMA」だけは僕も事件発覚前、ちょうどブームになった時にCDを買って聴いてみた。ある時タワレコ行ってみたらいきなりCD平積みで1コーナーできていたんでびっくりしたのを憶えている。ポピュラーならともかくクラシック畑でこういう未知の作曲家の作品がこんな大プッシュされるなんて異例の事だったので、「なんだぁ!?」と思ったのが第一印象だった。

 間もなくTVを始めとするマスコミでも佐村河内が取り上げられる機会が増え始め、いやでもその情報が耳に入ってくるようになっていった。彼が全聾であり、その他にもいろいろな病と闘いながらも苦労して作曲を続け、そうして作られた作品が近年、特に東日本大震災の被災地で大いなる感動を呼んで迎えられていると――。NHKでもドキュメンタリーが放映され、彼のより詳しい情報や作品の一部も流された。その後民放でも「金スマ」で取り上げられたりして、僕はそのどちらも観た。
 番組中、あまりにできすぎたような話に正直胡散臭さも感じたし、全聾と言いながら出演した氏が違和感なく喋るのも不思議だった。(成人してから聴覚を失った場合、喋る感覚は残っているからこういう風に自然に喋れるのかなぁ、なんて考えながら見ていた)
 被災者の声というのもなんだか所謂"ステマ"の臭いが感じられたものの、身障者や被災者が頑張っているのを根拠もなく色眼鏡をかけて見るのもどうか、との思いもあり、全てを呑み込むことにした。なにはともあれ問題は音楽としてどうかだ、ととりあえず話題の交響曲第1番「HIROSHIMA」のCDを買ってみたのだ。

 実際のところ正直感心できるものではなかった。21世紀の現代にあえてロマン派風の大交響曲を書いてみようというその心意気は買える。演奏時間全80分にもなりなんとする規模はまるでマーラーを思い起こさせるが、その楽想はなんだか迫真性に欠け、聴いていても迫ってくるものがない。なによりも気になったのはその部分部分が妙にくっきりとブロックごとに区分けされているようで、そのひとつひとつのつながりに音楽的な必然性が感じられないことだった。そのため長大でありながら構成的に散漫な印象を与え、80分間、聴きとおすのが正直かなり苦痛だった。終わる数分前、TVでよく取り上げられていた旋律がようやく出て来た時には(ああ、やっと…)と正直ほっとしたものだ。
 要は企画倒れで内容が伴っていない失敗作。そう思ってこれ以外に佐村河内作品を聴こうという気は起きなかったので放っといたのだが、でも音楽の評価は多分に好みが左右するものだし、この曲に感動している人も多いようなのでそれはそれとして、少なくとも自分にとっては特に必要のないものだと割り切って考えるようになった。

 そこに例のゴーストライター騒ぎが起き、程なくあの「指示書」なるものが明らかになって、なんかあの曲の構成の理由が腑に落ちた。結局音楽の素人が、音楽以外のあれやこれやの概念をふりかざして勝手にでっちあげたプログラムに無理矢理音楽を嵌め込まれて作り上げられてしまったのがあの交響曲の正体なのだろう。そういう意味で、その音楽を書いたのが新垣氏であることは間違いなくとも、かなり強制されて捻じ曲げられていることは十分考えられる。

 はたして新垣氏が自発的にオリジナルの作品を書いた時、どういうものになるのか、その時初めて氏の作曲家としての評価ができるのだろうと思っていた。Wikipediaからの孫引きではあるが、「佐村河内の依頼は現代音楽ではなく、調性音楽でしたから、私の仕事の本流ではありません」と発言しており、彼の普段書いている作品と佐村河内作品とは意図的に傾向を異にしている事が想像された。
 そこに今回のCD発売である。やはり不本意とはいえこれだけ騒ぎを起こしてしまった新垣 隆という人がどのような作曲家であるのか、興味を持たずにはいられなかった。

 まずは交響曲「連祷」-Litany-を聴き始めてまず驚いたのは、この曲が明らかに調性を持った音楽だったことだ。前述の発言からして、おそらくはもっと前衛的な、無調音楽になっているものと勝手に思い込んでいたのだが、全体的にかなり叙情的ではっきり聴き取れるメロディライン(その旋律線は「HIROSHIMA」のものとどこか似ていた)がいくつもあり、全体的に非常に聴きやすい。
 正直その点に戸惑った。ひょっとして新垣 隆としての再出発とみなされる作品でありながら、聴く人はやはり佐村河内作品のようなものが求められていると推測して、やはりその線に沿ったものを書いてしまったのではないか、と勘繰ってしまう。ただ、ここには「HIROSHIMA」のような不自然なブロック構造は影を潜め、自発的に音楽が発展していくような必然性がみてとれた。もっとも構造はソナタ形式のような分かりやすいものがあるわけでなく、なかなかその全体像を今もまだ読み取れないのだが、少なくとも指示書のようなものはなさそうなことだけは推測できた。ただ――非常によく書けているのだが、「HIROSHIMA」の時も感じた迫真性の欠如、どこか作り物めいた印象はここでも感じられた。

 このCDには交響曲の他に、ピアノ協奏曲「新生」、そして「流るる翠碧(すいへき)」と題されたオーケストラ小品の計3曲が収録されている。いずれも例の騒動後に発表された最近作のようだ(もっとも構想自体はもっと前からなされていたかもしれないので「騒動後に作曲」と言えるのかどうかは定かではないが)が、ピアノ協奏曲を聴くと耳に心地よい響きはより一層鮮明になる。作曲者自身によるピアノ演奏は実に堂々たるもので彼の腕前が単なる"作曲家のピアノ"の域にとどまってない事が分かる。そのピアノの使い方は非常にオーソドックスで、それ故に実に簡潔かつ明快でついつい聴き入ってしまう。正直3曲の中で一番気に入った。最後の小品はちょっとタケミツっぽい響きがするけども、正確に言えば"映画音楽の武満徹"を思い起こさせる流麗で情感のあるメロディで聴かせる佳品といえそうだ。

 いずれも「現代音楽作曲家 新垣 隆」の面影はなく、言ってみればあの事件が今も発覚せず「佐村河内 守の新作」として発表されればおそらく皆そう受け取ってしまうだろう、という音楽だった。新垣氏がゴーストライターとして活動しているうちにそういった音楽の書き方も習得したことは間違いないだろうが、今になってなおそうした路線で新作を書き続ける意味はどこにあるのだろう…。

 CDが売れなくなりクラシックの新録音がほとんどなされない現状の中、まだあまり実績のない作曲家がいきなりDECCAなんてメジャーレーベルから新譜を出すのは異例の事で、彼があの事件のおかげでいかに注目されているかが分かる。でも晴れて自分の名前で作品を発表できる状態にありながら、それでもあえて佐村河内路線で曲を書いたのはなぜなのだろう。もちろんその方が"売れる"のは確かだろうし、佐村河内作品のファンだった人にとってはおそらく待望の1枚となっているのは間違いないだろう。

 でも新垣さん、本当にそれでいいのか?

忘れられた危険

 今日ふと気になった事がある。近頃は覚醒剤大麻、危険ドラッグなどのニュースが横行しすぎて、「シンナー中毒」というものをめっきり耳にしなくなってるな、と。
 自分が学生の頃といったら、"麻薬"なんてものはせいぜいTVの刑事もので出てくるぐらいで、身近にあるこの手の危険物といってまず真っ先に上がるのがシンナーだったものだが…。"アンパン"なる隠語のもと、吸うと「脳が溶ける」とか強烈な脅し文句でその危険性がアピールされていた。

 まぁ、それ自体普通にホームセンター等で買えるものであり、所持してたって違法でもなんでもないものだから上記のような本物の違法薬物の前では影が薄くなったってしょうがない。しかし、シンナーの危険性自体は昔も今も変わっていないはずだ。
 おそらく今の学生にはスネークマンショーの「シンナーに気をつけろ!」を聞かせてもまったく意味が通じないだろう。しかしだからこそ、その危険性を知らずにいつのまにかどっぷり浸かっているなんてことがないだろうか――。

 その危険性を知らないからといってなくなった訳ではない。知らないからこそ却って危険なものに触れた時に障壁なく飛び込んでしまう新たな危険を孕んでいるのだと思う。