哀悼 三好 銀

 来月発売されるマンガの新刊をチェックしていて"三好 銀"の名前を見つけ、「おお、久々に新刊が出るのか」と喜んだのもつかの間、「追悼作品集」の文字が目に入って硬直した。
 え…三好 銀って――亡くなったの?

 あわてて検索してみると、今年の8月末、膵臓がんで亡くなったという。享年61歳。早すぎる…。ここ数年、九重親方(元千代の富士)を始め膵臓がんで命を落とす方が妙に目につくが、ここにもまた早すぎる死を迎えざるを得なかった人が1人。個人的にはデビュー作で注目して以来長らく消息不明だったのだが、ここ数年になって新作をぽつりぽつりと発表して健在ぶりを示していただけに、残念でならない。


 「三好さんとこの日曜日」――平成も始めの頃に、スピリッツ本誌および増刊に時たま掲載されていた掌編マンガのタイトルだ。作者の名前は三好 銀。登場人物は作者と同じ名前の中年夫婦と「梅」と言う名の猫一匹。それから時おり近所の人が出る程度。タイトルの通り、日曜日のなにげない日常の出来事を切り取ったような、フィクションともエッセイマンガともつかない作品だった。
 絵柄は妙に薄っぺらで各人の表情も張り付いたように動きが無い。往年の「ガロ」でよく見たような雰囲気をかもしだしているが、作者のプロフィールとかは一切分からず、どのような経歴かは不明だった。

 そんななんとも言いがたいようなマンガに――僕はどうしようもないほど強く惹かれてしまった。

 僕はどうやら、「なにげない日常」の中に潜む「なにげなくない心の動き」を鮮やかに描き出していくような作品がどうしようもなく好きらしい。そのさりげない描写の中に描かれた日常のきらめきをその中に見つけて、幾度ハッとさせられたか分からない。こうなると作者に対する興味も湧いてきて、この人はどういう人なんだろう?――ずっと気になっているうちに、この作品が単行本として1冊にまとめられた事を知り、その単行本『三好さんとこの日曜日』を手に入れた読みふけった。
 僕が知った時にはもうこの作品が始まってもうしばらく経っていたらしく、単行本に収録されているものは未読のものばかりだった。これはこれでもちろん楽しめたのだが、やはり雑誌で読んで最初に強く心惹かれた作品もまた読みたい。僕はそれらが収録されるであろう第2集の発売を心待ちにしていた。

 ――だが、それっきりだった。

 間もなく新作が雑誌に掲載されることもなくなり、続きの単行本が出るなんて話もまったく聞かない。いや、作者:三好 銀の名前自体、かき消されるようにマンガ界からいなくなってしまっていた。
 自分の手許に残ったのは単行本1冊のみ。これすらなかったら、ひょっとしたらあれは夢だったのではないか?と自分を疑いたくなるほど見事な消えっぷりだった。

 それから10数年の歳月が流れた。その間まったく情報はなく、時おり『三好さんとこの日曜日』が古本屋に並んでるのを見て悲しくなる日々が続いた。その後、比較的方向性が似ている「神戸在住」(木村 紺)という素晴らしい作品に出会うことができ、そちらも深く愛読していながらも、逆に読み返すたびに「それにしても三好 銀はどうしているんだろうな」とついつい思ってしまうのが常だった。このようにインターネットが普及してからは、何度となくネットで「三好銀」を検索してみたりもしたが、ほとんど情報らしい情報はひっかからず、改めてその消えっぷりを思い知らされるだけだった。
 そう、この長い長い期間、三好 銀はまごうことなき「消えた漫画家」だった。


 ところが――2009年の末、いつものようにネットで次月の新刊情報をチェックしていたら「三好 銀」の名前がいきなり飛び込んできて、思わず目を疑った。本当か?同姓同名の別人じゃないのか? 本人だとしても本当に出るのか? あまりに長く待たされたおかげですっかり半信半疑のおももちで発売日を期待と不安半々で待った。
 そして発売を心待ちにして実際に本を手に取ると、間違いなくあの"三好 銀"が戻ってきた!という感慨で胸がいっぱいになった。
 この時はなんと2冊同時発売で、うち1冊は、僕がずっと熱望していた『三好さんとこの日曜日』の続編、そこには雑誌で読んだきりずっと読み返したかった諸短編が皆収録していた。まごうことなきあの世界が目から飛び込んでくる。初めて読むものですら「ああ、やっと読めた」と感慨に浸ってしんみりしてしまうももありました。
 子供のいない三好さん夫婦は、日曜日、仕事も休みで家にいることが多いし、出かけても近所ばかし。しかしそんな狭い行動範囲の中でも、落ち着いて視線をめぐるといろんなものに出会うし、いろんなことに気づく。そうした事を丹念に拾い、描いているのだが――なんでこんなに心に残るのだろう。なんというか――こういう言い方は口幅ったいが、作中に豊かな"詩"を感じるのだ。その当時ググってみたら、「ちゃんと出汁を取って作ったシンプルなお吸い物みたいな感じ」と評している人がいたが、言いえて妙だと思う。さりげなく、あっさりしているようでいて、ちゃんと味わうとなんとも奥が深い、日本のマンガ界の中でもこういう作風の人は稀で、ちゃんとした評価が定まって欲しいと思う。まぁ、ほんとうに地味すぎるほど地味な作品なので、間違っても大ヒットすることはないとは思うけど――。
 ブランク中何をしていたのかは結局よく分からないけども、復活の少し前からコミックビームに改めてマンガ家として復帰していたそうだ。この時発売された「海辺へ行く道」は実に不思議な作品世界を持っていた。絵柄は根っこの部分では同じながらも、やはり年月を経てかなり印象が変わってきている。内容も日常を淡々と描いているようでいて、その日常自体がどこかでぐにゃりと曲がってシュールな趣が出てきていた。一応連作で一つの街を舞台として登場人物もある程度連続性があるのだが、いったいどこまでつながっているのかが曖昧であり、どこかで現実のボタンを掛け違えて非現実に踏み入ってしまって、その非現実がいつしか現実めいた色合いを帯びていくような、読み進むにつれて多層的な迷宮に迷い込んだような感じがした。ひとつひとつのシーンを読み進むうちに心のどこかが引っかかって軋みを上げ、言葉はどこか虚空に浮かび上がって意味を失っていくうち、いつの間にか別の意味を持ってまた地上に降りてくるような――それは「三好さんとこの日曜日」で僕が求めていたものとは明らかに異質でありながら、また引きこまれずにはいられないような求心力を確かに持っていた。
 この「海辺へ行く道」は最終的に全3巻のシリーズとなり、三好 銀は長いブランクのうちにいったいどこに進んでいくのか分からない独自な作風を確立していた。

 その後も寡作ながらビームに新作を描き続け、次の「もう体脂肪率なんて知らない」でも変わらず、どこに進んでいくのか分からない、でもひとつひとつのシーンが心に引っ掛かってしょうがない世界を描き出していて、僕の中では「他に真似のできない作風を確立した唯一無二の大家」との評価が定まっていった。新刊が出るのはほんと数年に1度だが、あの長いブランクの時を思えばはるかに気が楽だった。そして次の新刊が出るのを心待ちにしていたのだ。

 ――そこにこの訃報である。
 もうこれを最後に、三好 銀の新刊を心待ちにすることができないのだと思うと心から残念だ。せめて来月24日に発売される遺稿集「私の好きな週末」を心行くまで味わいたいと思う。

レニングラードフィルとサンクトペテルブルクフィル

 先日NHKで放送されたテルミカーノフ/サンクトペテルブルクフィルの演奏するショスタコーヴィチ交響曲第7番「レニングラード」を聴いて、なんとも複雑な気持ちになった。

 僕がクラシックを聴きはじめた中学時代、レニングラードフィルとと言えば"泣く子も黙る"別格扱いの世界有数のオーケストラだった。名指揮者エフゲニー ムラヴィンスキーのもと鉄壁のアンサンブルを誇り、どんな速いパッセージでも一糸乱れぬ演奏を繰り広げ、聴く者を圧倒し続けた。
 ムラヴィンスキーのリハーサル風景を収録したDVDを観たことがあるが、そこには思わず目を見張るような光景が展開していた。演奏しているのはブラームス交響曲第2番フィナーレなのだが、冒頭、弦と一緒にトランペットが最初の1音だけDの音を重ねる。ムラヴィンスキーはそのトランペットが気に入らずに、もう何度も何度も執拗にそこだけを繰り返させるのだ。確かにこの1音はトランペットにとっては難しい(技術的に、というよりも弦と溶け合うほど良い音を出すというのが)とは思う。しかもムラヴィンスキーはどうしろという具体的な注文をつけるでもなく、ただ「違う」とばかりに自分の求める感じになるまでただただ繰り返させるのだ。そこにはどんな音をも決しておろそかにしない、偏執的なまでの厳格さがあった。
 正直こんな指揮者の下でやりたくないな、なんて僕など思ってしまうのだが、レニングラードフィルはそんなムラヴィンスキーをおよそ50年もの間 常任指揮者に掲げ続け、あの奇跡のようなアンサンブルを軸に、数々の名演奏を残してきた。こんな風に団員を締め上げ続けて作ったアンサンブルなんて書くといかにも冷たく血の通わない演奏のように聴こえるが、なんというか、その音楽にはすべてを突き抜けたような凄味があって、すべての音が一体化したかのようなベートーヴェンチャイコフスキーの音楽は他に例を見ない壮絶な名演だと今でも思っている。

 ムラヴィンスキーは1988年に没し、レニングラードフィルは半世紀にわたって君臨し続けたシェフを失った。ひとつの時代が終わったと誰もが思ったろうが、実はオケだけではなく、ソヴィエト全土、いや共産主義圏自体の時代がその後大きく変わろうとしていた。
 翌89年には北京で天安門事件が起き、ドイツではベルリンの壁が消滅。それがきっかけとなったかのようにソ連をはじめとするヨーロッパの共産主義国の屋台骨が次々と連鎖反応的に傾き、東欧の共産諸国が次々に崩壊、民主化が進んだ挙句、遂に1991年、共産主義の大本ともいえるソヴィエト連邦が解体した。当時はCIS(独立国家共同体)なんて呼んでたけども、要はロシアとその周辺諸国に分裂し、ソ連建国の英雄レーニンの名を冠したレニングラードも、革命前の旧称サンクトペテルブルク(これもピョートル大帝の名を冠したものだが)に戻った。それに伴い、レニングラードフィルもサンクトペテルブルクフィルに改称した。

 ムラヴィンスキーの後任には当時50歳のユーリ テルミカーノフが就任。手元に1989年、レニングラードフィル(当時)の新シェフとして来日した際のテルミカーノフのインタビュー記事(レコード芸術1989年12月号)の切り抜きがあるのだが、それによるとテルミカーノフは就任するまでほとんどレニングラードフィルを振らせてもらえなかったにも関わらず、ムラヴィンスキー死後に楽団員の圧倒的な支持を得、就任が決定したのだという。それだけでなく、その口調の端々にムラヴィンスキーに対する反発・批判が垣間見えている。その偉大さを認めつつも、ムラヴィンスキ-がオケを前に前時代的な独裁者となり、楽員に恐怖心すら抱かせて団員を隅々まで支配していた事――オケの方も長年にわたり専制君主的カリスマ指揮者に君臨され続けて疲弊していたところに、ペレストロイカに代表される自由の風が吹き荒れ、次期シェフに、前任者とまったく違うタイプを欲する流れになっていたと考えると、この人選はなんか納得いくのだ。テルミカーノフはどうもアンサンブルの構築よりもその時その時のライヴ感・即興性を重んじるタイプの指揮者のようで、本人もインタビュー中でそう語っている。
 しかしその結果はどうなったろう。ムラヴィンスキーによってギチギチに締め上げられていたオケをテルミカーノフは一気に手綱を放して自由気ままにやらせていったようにみえる。名前がサンクトペテルブルクフィルに代わってしばらくしてからその演奏に触れた時に、かつての一種異様な迫力が消え、なんとも散漫な"ゆるい"演奏になってしまっていて驚いた記憶がある。

 今回のTV放送でも演奏前にテルミカーノフのインタビューが流され、その中でもかつてこのオケは「楽員に異様なまでの楽譜の忠実さ・正確さを強要され、それにより音楽が自由を失っていた」という意の事を語り、名前こそ出さなかったものの明らかにムラヴィンスキーを批判している部分が見受けられたが、はたしてその演奏は――というと、正直の所、以前聴いた時よりもさらに箍がゆるみまくっていた。元々テルミカーノフの指揮ぶりは棒を持たずに両腕を振り回していて打点がはっきりしていない。今回の「レニングラード交響曲の冒頭でも、一応ちゃんとオケは演奏しているのだが、いったいこの指揮のどこを見ればそうなるのか全然見えてこず、どうやって合せているのか不思議な感じがした。
 テンポが一定な間はそれでもなんとかなるのだろうが、テンポが揺れる場合は…。第2楽章の中間部でテルミカーノフはいきなりテンポを上げた。三拍子に変わり鋭いスタッカートのリズムの上でエスクラバスクラが鋭く掛け合う非常に緊張感漂う部分だが、ちょっとここまで急激にテンポを上げた演奏は僕は聴いたことがなかった。おそらくこれがテルミカーノフ流の即興的な部分なのだろうが、オケのほとんどその変化に着いていけず、プロオケとは思えないほどぐちゃぐちゃになり、立ち直るのにしばらくかかった。その間もテルミカーノフは立て直すでもなくそのなんだかわからない腕を振り回すだけで――いいのか?という気になってくる。
 さらには第3楽章冒頭。木管による目の覚めるようなコラールで始まり、続いて弦がみずみずしさこの上ない音楽を奏でるのだが――コラールのキューがあいまいなため、はっきりいって約半数が第1音落っこってしまい、初めからぐずぐずになってしまった。もはや解釈がどうとか言うレヴェルではない。プロオケとしてこれでいいのか?と言いたくなるぐらいアンサンブルの精度が下がっているのだ。

 テルミカーノフが就任して30年近く、ムラヴィンスキー時代の反動…とかでは済まされないほど、昔の面影はない。かつてのレニングラードフィルと今のサンクトペテルブルクフィルは、もはやひとつながりの団体とは思えないほど変質してしまった。もちろん指揮者の役割はアンサンブルを構築するだけではないし、その即興的なきらめきで唯一無二の名演奏を繰り広げた名指揮者は何人もいる。しかしそのタイプの指揮者を掲げたオケは時にアンサンブルが乱れて凋落していく、という事があるのもまた事実なのだ。現在のサンクトペテルブルクフィルを見ていると、なんだかその典型のような気がする。テルミカーノフの下、アンサンブル精度と引き換えに何か音楽的なプラスの部分があったのか――いや、ここまで精度が下がっては焦点がぼやけてしまってそれがあったかどうかすら判別がつきづらい。ひとえに「自由」「民主化」の名の許 勝手気ままにやらせすぎたテルミカーノフの責任と言えるだろう。「反ムラヴィンスキー」で一貫してやってきたようだが、それだけでオケが運営できる訳ではない。
 テルミカーノフは現在も元気そうだが、年齢はもう80近い。もうそろそろオケのアンサンブルを立て直してくれる"次の"シェフを考えて行かないと、20世紀の伝説的なオケ、レニングラードフィルは名実ともに消滅してしまうかもしれない、そんな危惧さえ抱いてしまった。

「響け!ユーフォニアム」第2期への期待と不安

 今週からいよいよ「響け!ユーフォニアム」の続編、所謂"第2期"の放映が始まる。昨年、いい歳こいてこのアニメには思いっきりはまり、TVの総集編と知りつつ劇場版にまで手を出してしまった身としては、楽しみにしない訳にはいかない。
 一応言っておくと僕はクラリネットをやっていながら吹奏楽経験はない(中学・高校とも学校に吹奏楽部がなかった)。かなり重症なクラオタリスナーから楽器を始めたもので、現在に至るまで吹奏楽に関する知識はまったくといっていいほどないし、正直現在もさほど関心がある訳でもない。もちろんアニメを毎回チェックするようなアニオタでもない。
響け!ユーフォニアム」を知ったのもまったくの偶然だった。
 しかも知ったその日がたまたま第1回放映日。なんとなくその番組HPにアクセスしてみて、そこに載ってる番宣映像を観て「あれ?」と思ったのがきっかけだった。

 大体映像作品において楽器演奏シーンというのは昔っから鬼門と決まっている。まぁこっちが本物の演奏風景をさんざん見ていることもあろうが、俳優が楽器を持って演奏するシーンが出てくるとどうにもこうにも様になっていなくて見ていられない事が多い。楽器演奏の際、鳴らすために各楽器ごとにそれぞれそれに見合った息の使い方や筋肉の動きがあって自然とそれっぽいしぐさが生まれてくるのだが、実際に音を出さずに上っ面をなぞろうとしてしまうとしばしばまったく見当はずれの動きをしてしまっているのだ。往年の大ヒットドラマ「101回目のプロポーズ」(例が古くってすいません)はヒロインがオーケストラのチェロ弾き、恋のライヴァルがヴァイオリン弾きの設定なのだが、そこに出てくる演奏シーンの動きがあまりに珍妙なので思わず大爆笑してしまったことをはっきり憶えている。
 言ってみれば時代劇における"殺陣"の技術のようなものが必要なのかもしれないのだが、そういったノウハウがまったくなかったのだろう。

 だが近年はさすがにそういった所にも神経が行くようになったらしく、かの「のだめカンタービレ」のドラマなど、出演者に実際に楽器を触らせ、中には楽器経験者をキャストに加えるなどして少なくとも笑っちまうようなヘンテコ演技はなくなって、それ故に音楽ドラマとしてかなり見ごたえのあるものになっていた。(まぁ一番の功労者は、まるでのだめが憑依したかのごとき演技をしてみせた上野樹里だろうが)

 ただアニメともなるとまた話が違う。なにせこちらは演技ではなくいちいち絵を描いて動かしていかなくてはならないのだ。実際、ドラマに次いで放映されたアニメ版「のだめカンタービレ」は絵が動かない、動いても力感のない気味悪い動きが続出してこの点は惨憺たるものだった。もっともすべてが駄目というのではなく、途中いろいろ試行錯誤している様が伺えて、特に千秋がラフマニノフのピアノ協奏曲第2番を弾くシーンなどかなり力が入っていて見応えがあった。とはいえそれが持続せず、その後はまた元の木阿弥に戻ったりして最後まで安定しなかった。ひょっとするとアニメにおいて楽器演奏をちゃんと描こうとしたのはここら辺が黎明期だったのかもしれない。

 話を戻すと「響け!ユーフォニアム」の番宣映像の中に演奏シーンがあったのだが、それが実に自然に見えた。特にチューバ吹きがその大型楽器を鳴らすために腹から深くエアを繰り出している様がしっかり見てとれて、ついつい見入ってしまったのだ。
 「これは面白いかも」そう直感して、第1回から録画予約して(いったいいつからアニメは深夜に放映されるようになったんだろう…)全話欠かさず観た。

 結論から言うと予想以上の出来だった。第1回からその音楽の取り上げ方が実に入念に作られているのが感じられるのだ。最初の方で舞台となる吹奏楽部の演奏がさっそく描かれているのだが、それを聴いてなんか感激してしまった。動き自体が不自然でないぐらいにそつなく描かれているのはもちろんのこと、流れてくる音が絶妙に「下手」なのだ。もともとこの部は「かつて強豪、今は落ちぶれてあまりうまくない」「内部にいろいろ問題を抱えている」部だという設定なのだが、その演奏、一応曲としては通っているが、リズムとか音程とかが濁りまくっていて、聴く人が聴きゃその至らなさが如実に"音で"伝わってくるのだ。それに僕は吹奏楽こそ知らないが学生時代から合唱やオケは経験してるし、そういった音楽系サークルの雰囲気というのが伝わってきて、ついつい見入ってしまった。

 そして回を追うごとに、サークルの楽しい所もそうでない所もいろいろ噴き出してくる。合奏練習が行われて、そこでまた演奏のダメダメっぷりがあからさまになり、それをきっかけに、この部が抱える隠れた"問題"・さまざまな軋轢が次々と表面化してくる…。音楽演奏サークルではありがちではあるけども身につまされるような事象が頻出して、妙にリアルさを感じさせて迫ってくる。
 そしてそれらをひとつひとつ乗り越えながらも次第に演奏自体の精度が上がってきて、部の雰囲気も上向きになってくる。それもひとつひとつ"音"でしっかりと表現される――製作スタッフの本気度がひしひしと伝わってきて、いつしかとりこになっていった。

 そうなると並行して原作小説にも手を出してみた。するとアニメがこの原作の骨子をしっかりと汲みとって作られているのが分かってくる。しかしガチガチ原作通りという訳ではなく、細かいところはけっこうアレンジを加えていて、そのアレンジもなかなか小気味よくっていい仕事しているのだ。それでいてここぞという所では原作のセリフをそっくりそのまま使っている所も随所にあり、原作を最大限生かしつつ独自な解釈も加えた、理想的な膨らまし方をしているように思えた。
 原作を読んだことによってその後の展開を知ることになっても、ネタバレとかそんな思いはなく、「このシーンをどのように描いてくれるんだろう」とその回が楽しみになるほどだった。そしてなにより、原作小説からは実際の音は一音も聴こえてきてはくれないが、前述のようにアニメでは"音"の作り込みも実に入念に作られて行く事が分かっているから、「これからのこの展開、これを、アニメでは"音"で実際に表現してくれるのかい? 」とむしろわくわくしてくるような思いだった。

 そして最も期待していたトランペットの再オーディションの場面、シチュエーションは多少アレンジを加えながらもその"差"をきっちりと音で表現してくれたのは期待以上だった。片や「うまいアマチュア」片や「プロ級」の音をきっちりと並べて有無を言わさぬ違いを出し、その後のセリフは、原作をそのまんま流用して使用し――これ以上は考えられない素晴らしい出来だった。

 そして最終回コンクールの本番、原作でタイトルだけ登場した架空の曲「三日月の舞」をアニメ用オリジナルとして本当に登場させてくれた。残念ながらかなり時間の都合で放送では大幅なカットがほどこされてしまっていて(サントラでは全曲が聴ける)、初めて視聴直後はその点が不満だったけども、一方で本番直前の雰囲気や舞台裏、演奏中に本番を控える他校の様子などをフラッシュバック的に挿入して多角的にコンクールの雰囲気を表現してくれたと思う。

 ――このようにこのアニメはストーリーはもちろんキャラクターの描き方・演奏風景の描写・音の入念な扱い、そのすべてにおいて十二分に満足できる素晴らしい出来だった。最近はこういうのを「神アニメ」と言うらしいが、まさしく自分にとっては文句なく「神アニメ」と言っていいと思う。


 その「神アニメ」の続編が制作されると聞けば素直にうれしい。なにせ原作は全3巻で、アニメはその最初の1巻しか取り上げてないのだ。(他に番外編1巻、さらに最近サイドストーリー全2巻も刊行された) だが前作が良かっただけに逆に不安もある。あのレヴェルの高さを維持してくれるだろうかというのももちろんだが、第1巻と第2巻とは原作の性格もちょっと違ってくる。第1巻は最初の話という事もあるが、キャラクターは全員初登場でその関係性が徐々に組み立てられていく過程が描かれ、その中で下手で問題を抱えていた吹奏楽部が組織として意識改革していって様々な事件を通して結束し、向上していく様が目の前で展開していた。だからアニメも毎回変化に富んだ、どの回も飽きさせない内容にすることができた。それが第2期はもう既に向上している吹奏楽部から始まり、これから先演奏内容もあれほど劇的な変化を耳で分からせるのは難しくなってくる。各キャラクターの関係性もほぼ固まってきて、新しい展開が出づらくなってきている。それに第2巻のストーリーはある意味ワンアイディアなのだ。第1巻でも触れられた昨年度の「1年生大量退部問題」、それがうまくなった(変化した)吹奏楽部の元、今一度浮かび上がってくる――。今回初登場となるキャラ2人を軸に、その新たな問題を掘り下げていくのがメインのストーリーになっていく。なかなか本質が見えてこない底の深い話で、小説を一気呵成に読んでいくには充分面白いのだが、1クールのアニメとして放映するには変化が乏しすぎないか?――。また最終話はやはりコンクールで、演奏する曲目も第1期と一緒、というのもネックになりそうだ。
 おそらく変化をつけるために、番外編エピソードをうまく引っ張り込んで膨らませてくることが考えられる(第1期でもそういう回があった)けども、うまく嵌りこむエピソードも限られてくるし、はたしてどれだけできるのか…。
 前回あれだけの仕事をしてくれたスタッフだけに期待していいとは思うのだが、初回いきなり1時間拡大版で放映するなんて聞かされると、後半息切れしないか?とちょっと不安になってくる。

 ま、もちろん実際に放映されてからでないと何とも言えないけども、どうか、こちらの不安を吹き飛ばし、驚くような作品になってくれることを願っている。あとできうるならば、最終回には今度こそ「三日月の舞」をノーカットで演奏するシーンを流してほしいな、と。

緩慢な悲劇~ヤマシタトモコ「花井沢町公民館便り」

 子供の頃にはちょっとありえなかったことだけども、最近は新聞でもマンガの書評が定期的に載るようになった。知ってる作品が取り上げられていればどんなふうに書かれてるかついしげしげと見てしまうのだが、こういうのに執筆している人はちょっと斜に構えてるのか、ヒット作とかアニメ化とかされた目立つ作品はあまり出てこない。むしろ「こんなのどこに載ってんの?」という陰に隠れがちのものを掘り起こそうとしているらしく、自然と初めて目にする作品の方が多かったりする。
 まぁ大概は「ふぅん」と目にして終わりだけども、時折その紹介文を見て何か引っかかるものを感じることがあり、そういうのは気になって結局コミックスを買って読んでみたりもする。もっともそれも当たりはずれがあり、レヴューではあんなに面白そうに見えたものが、いざ実物を読んでみるととんだ肩すかし――という事も少なくない。一方で本当に思いもかけず素晴らしい作品を知ることができ、そういうのに出会えた時は筆者に感謝したくなる。中にはそのシリーズや作者の作品を後々まで追い続けているものもいくつかある。木城ゆきと銃夢」シリーズや久世番子暴れん坊本屋さん」などは、ほんとよくぞ紹介してくれたと心から感謝している作品だ。

 最近もそうした新聞レビューで、素晴らしい作品を知ることができた。。

ヤマシタトモコ「花井沢町公民館便り」(講談社 全3巻)

 作者のヤマシタトモコについてはまったくの初耳で、他にどういう作品を描いているか現時点でもまだ知らない。でもレヴューで紹介されていたこの作品の特異なシチュエーションを読んだ途端、激しく惹きつけられて思わず単行本を手に取った。この度最終第3巻が発売されて完結したが、その手応えは最後まで変わらなかった。

 このタイトルからどのような作品を想像するだろうか。なにやら穏やかな日常スケッチ的な内容を想起する人が多そうだし、ある意味それは正しい。郊外のベットタウンとなっている花井沢町という小さな町を舞台に、その日常のあれこれをオムニバス形式で描写している。
 ただ、この花井沢町、想像を絶する(SF的)状況に置かれてしまっているのだ。
 詳しい原因は記述されていない。だがある日花井沢町はある事故の影響で町全体を見えない壁で隙間なく覆われてしまったのだ。その壁は薄くて無色透明で、そこに触れない限り存在を確認できないほどだ。空気も水も、あらゆる物質は何の問題もなく素通りする。しかしただひとつ、生命ある者はその壁に阻まれて一切通ることを許されない。

 すごい事を発想したものだと思う。町は一見いつもどおり平穏に見える。電気水道といったライフラインは問題なく生きているし、なんだったら町の内と外とで立ち話するのにもなんの障害にない。ただ、お互い手を伸ばしても触れることすら一切できないのだ。町から出ることも、また外から入ることも壁に阻まれてアリ一匹であろうと不可能になっている。
 結局の所、町ぐるみ見えない牢獄に生涯閉じ込められてしまったのと同じことなのだ。

 この状況は、作品中を通して変わることはない。もちろん当初はその壁をなくして抜本的解決を図ったようだし、閉じ込められた町が機能停止にならないよう、食料をはじめとする必要な物資は政府から無償で配給されるようになった。だが壁はどうしても消すことができず、あきらめて壁を運命として受け入れる空気が街全体に広がっていった――。
 そのような強制的な閉鎖状況に置かれてしまった町を舞台にした日常スケッチなのだ。

 手厚い保護のおかげでとりあえず町は平穏ではあるのだが、とりたてて産業もない住宅街が長期間その状態に置かれると様々なひずみが生じてくる。遊びに行きたくとも山へも海へも、繁華街に出る事すらできない。病気や不慮の事故に巻き込まれても満足な治療を受けることができない。何か事件が起こった時の治安維持は…。なにより枯渇するのが人材だ。何十年、百何十年という単位で話は進むとともに人は入れ替わり、世代が交代していく。しかし限られた町の中では自ずと限界がある。最初はゆっくりと、ある時点から急激に人口は減少していき、町民は確実に「滅亡」へと近づいていく。そして誰もこれに手を差し伸べることができない――。

 壁がどうしても取り払うことができないと分かった時点から、町民の中にははっきりとそのことが認識されて、どうしようもない絶望感が覆いかぶさっていった。自分たちは一生をこの町に閉じ込められるのだ。初めて壁を越えられる時――それは死ぬ時である(皮肉なことに、生命を失った途端、遺体はなんの問題もなく壁を通り抜けられる)。そしてもちろん、本人はその事を自覚することは決してない…。この町で生まれた子供は、自動的に生まれてから死ぬまで文字通り1歩も町を出ることはない。そして世代を経るごとに町はさびれ、減っていく。皆一様に逃れられぬ閉塞感の中、誰もが皆それを自覚していた。近い将来、自分たちは確実に、滅亡に向かっていっている、と…。

 そんな町の様子を、作品は時代を前後しながら様々な町の人たちの様子を淡々と描いていく。毎回話の扉には、タイトルにもなった花井沢町公民館の様子が描かれているのだが、まだ町に人が多かった頃の公民館はまだしっかりしているのに、後の時代になるにつれて明らかに朽ちていくのが分かって胸を締め付けられる。この作品で救いなのは、まだ人が多く、町に活気が残っていた頃のエピソードも多数収められていることだ(特に中期)。
 特に好きな話をひとつ紹介しておく。「焼きたてのパンを食べたことがない」と一念発起した町のひとりの女性が、残されていたパン焼き器具を使い、ネットを通じて"外"の男性からパンの焼き方を教わってパン焼きに挑戦するエピソードだ。途中でわかるが、ディスプレイの向こうでパンを教えている男性も、元パン屋で、現在は障害を抱えてリハビリ中で、おそらく自分はもう2度とパンを焼くことがかなわない身になっていたのだ。ネットだけが頼りのもどかしい会話の中、「俺の味、盗んでくれよ」そう振り絞るように訴える声に、どうしようもない苦みが伝わってくる。自分がもうどうしようもないと分かった時、人は自分の持っているものを受け継いでほしいと切に願うものなのだろうか。苦労の末、その女性は自分が理想と思うパンを焼きあげることに成功し、町で自分のパンを売り出してみるが…。しかしこの町も実は、受け継いでくれるものがない袋小路にはまって抜け出せないでいるのだ。

 そうした中、複数エピソードにまたがって登場するほぼ唯一の存在、実質的なヒロインとして希という少女が登場する。彼女は文字通りこの町の「最後の1人」となる人物なのだ。もちろん彼女が生まれた時は他にまだ数人、町には残っていた。しかし彼女の後にまた子供が生まれる可能性はもう失われていた。成長するに従い、ひとり減り、ふたり減り…。最後、彼女は年老いた祖母を見送ってひとりその亡骸を壁の外に送り出し、ほんとうにひとりとなった。
 まだ人の多かった、まだ明るさと前向きな気持ちを残し、時にはユーモラスですらあったエピソードに挟まれて、彼女は何を支えに、何を思い生きてきたのか…。
 そして最終話、物語はどのように締めくくられるのか…。

 基本設定はSF的だが、この作品をSFとしてみてしまうといろいろとツッコミ所が出てきてしまう。壁の詳しい話はまったくと言っていいほど出てこないのを始め、おそらく事故当時と最後までの間に100年以上の月日が経っているだろうに、テクノロジー的なものが現代日本とさほど変わってない様子なのもおかしい。しかしそういうのはすべて置いといて見た場合、ちょっと他には見当たらないようなシチュエーションドラマになっていると思う。
 読んでいて、人がどのような状況下に置かれてても、それが日常となると状況を受け入れて、その上で何とか生きていこうとするたくましさを持っていることを見せつけられる。しかし一方でどうにも抗いがたい感情の噴出も…。作者はそのいずれをも穏やかな目でひとつひとつ見守り続けるように描いていく。ひょっとして描写があっさりしすぎと思う人もいるかもしれない。もっとどぎつく、あからさまな心情を吐露するような描き方もあったろうとし、その方がより一層読む者に感動を与えたかもしれない。しかし――なんというか、この町の人たちに、そのような場面は不釣り合いのような気がする。ひっそりと、この町のことをいい思い出として暖かく心にとどめておきたいとでもいうように。

 ひっそりと、始終淡々と描いたが故に、いつまでも余韻たなびくような佳品となり得たのだと思う。ひとりでも多くの人に読んでもらいたい、お奨めの一作です。

リードが"へたる"とはどういうことか?

 「1周回って知らない話」といえば最近やってるTV番組だけども、それとは別に、気がつけば自分のまわりにもずっとやってるのに改めて考えてみるとどういうことか分かってない事があることにある日突然気がつかされたりする。そういうのって「今さら他人(ひと)には訊けない」感じだし、はたして本当に答えがあるのかも疑わしいことすらある。

 振り返ってみるとクラリネットを始めてかれこれ30年余り(ブランク10年を含む)、ずっとこの楽器と付き合いながら、今になって「ひょっとしてずっと勘違いをしてきたんじゃないか、これ」と最近不安になってくることがある。それは…。

 リードは"へたる"とどうなるか?

 クラリネットを含むリード楽器にとってリードは言わば生命線であり、これなしでは1音たりとも発することができない。そのリードは伝統的にケーンと呼ばれる葦の一種(正式名称:Arundo donax/和名:ダンチク)で作られており、植物性であるが故に、吹くと唾液を吸って、さらには細かく振動されることによって必然的に変質していく。

 リードの良し悪しは吹き心地や音色に大きな影響を与えるので、楽器を吹く上でこだわらずにはいられないものだが、自然物だけに出来不出来の個体差が大きく、かつその日の湿度気温・吹くことによる変質によって状況は常に変わっていく。この前すごいよかったリードが今日は全然ダメということも珍しくはない。
 変質した結果、吹くのに適さなくなったリードの事を"へたる"と呼んでいるのだが、あまりに当たり前に使われてきただけに、はたして"へたる"というのはどう変わっている事か深く考えたことがなかった。

 考えるきっかけを与えてくれたのが、次のHPだった。

○「木管材質工学研究室 楽器奏者の方向けページ」
http://www.u.tsukuba.ac.jp/~obataya.eiichi.fu/musician/musician.html

 リードの変質について、奏者の側からいろいろ語られた文献は多いが、かなり経験則的な側面が強い。それに対しこのページは元々葦に代わる木製(ヒノキ等)クラリネットリードを研究開発している所のもので、数年前にPipersにもその記事が載ってたことがあるけども、その後現在に至るまでも商品化される気配がないところをみると、やはりなかなか難しい所があると推測される。けどその研究の過程で、現在主に使われているリード用葦の特性から始まって、吹くことによって硬度や弾力がどのように変わっていくのか、科学的な側面から計測して解説したもので、このようなアプローチはちょっと他では見たことがなかった。

 ただ、そのようにして変質することは分かっても、実際にそれが吹奏にどのような影響を与えるかという部分に関しては、推測と言うか仮説の域を出てないような…。そこにこの研究の限界みたいなものが垣間見えるけども、結局そこのところは各人の感覚で埋めるしかないのだろう。
 それにしても読んでいって、そして自分の経験と照らし合わせていろいろ思い当たるところとかあって興味深い。例えば以前から「おろしたてのリードはほの甘い」と思っていたのだが、実際に葦には糖分が含まれており、口に含んでいるうちに溶け出してきているのだとの記述を読んで腑に落ちた。そして、糖分を失うことがリードの変質に大きく関与していることがわかってくるのだ。
 しかしそうして自分がリードに関して最近感じた感覚と照らし合わせていくと…最初に挙げた「リートって、"へたる"とどうなるのだろう?」というあまりに当たり前すぎて深く考えなかった疑問にぶち当たってくるのだ。

 おろしたての乾いたリードは堅く、吹いてもまともに音なんて出てくれない。それが舐めて水分を含ませることによって徐々に柔らかく、振動しやすくなる。しかし吹いていくうちにそれがどんどん柔らかくなってコシがなくなり、いつしか音がベーベーとなってきて"へた"ってくる。それがリードの寿命だと単純に考えてきた。
 実際、このHPでもリードを湿らせることによって柔らかくなり、さらに糖分が減少することによって柔らかくなる、と書いてあるし、両者は合致しているように一見思える。

 しかしなんか最近吹いていて、リードの変質には別の面があるのではないか?という気がしてきてしょうがないのだ。それは最近、いろいろフォーム改造してきた成果で自分のブレスが深くまっすぐにすることができたおかげだと思うのだが、今まで使ってきたのと同タイプのリードでも、最近は新品を開封して最初に吹いた時、妙に薄く感じるようになってしょうがないのだ。ただ前から使ってたリードは別にそんなことはないので不思議だった。最初は単なる個体差でこの箱がはずれだと思ってたのだが、他の箱を空けても大差ない。いったいどういうことだ、と思いながら新品リードを時折ちょっとづつ慣らし運転しているうちに、なんだかだんだんしっくりと落ち着いてきたのだ。

 なんでだ…と考えているうちにちょっと仮説を立ててみた。このHPにもリードを濡らすことによって"柔らかく"なると同日に"弾力が喪失"することが書かれている。それが"へたる"原因だとも。
 ただ逆に言えば、"弾力が喪失"するというのは反応が当初より悪くなり感覚的には堅く感じることにも繋がるのではなかろうか。
 前述の、最初薄く感じたリードが徐々にしっくりいく感覚を改めてまとめると、おろした当初は薄く感じ、かついわゆる"風音"が混じっていたリードが、ちょっとづつ吹き続けていくうちに徐々に音がまとまっていき余計な雑音が取れ、程よい抵抗の中まっすぐストレートに鳴るように変化していくのを感じるのだ。言い換えると、柔らかくというよりもむしろリードにだんだん"コシ"が生まれていくような気がする。
 さらに吹き続けていくとその抵抗がどんどん強くなり、吹くのに余計な力がいるし音域ごとに鳴り方のツボが違うために音がバラバラになっていき、抵抗の強さゆえにタンギングなどがどうしても重くなってしまう。しかし僕はつい最近まで「まだ柔らかくなってないから大丈夫」とばかりにそうしたリードを無理矢理吹いていたのだ。しかし…改めて考えてみると、これは自由に吹けないほど"弾力が喪失"したリード、即ち寿命じゃないか、と気づき、そうなっているリードをすべてへし折って(未練を断ち切るためにいつもそうしている)ごみ箱に捨てた。そうしたらリードケースの半分近くがなくなって一気にスカスカになってしまったが。

 そして今、薄めに感じるリードを間をおいて少しづつ吹きながら、程よい抵抗がついて熟成するのをじっくり待っているところだ。つまりリードの育て方が180°変わってしまった。かつては厚めに感じるリードが柔らかくなるのを待ってたのに、今は薄めに感じるリードに程よい抵抗がつくのを待っている…。

 はたしてこの感覚が正しいのかどうかは自分でもわからない。でも最終的には自分が納得しなければ吹けないし、これもまた試行錯誤の一過程と割り切って開き直るしかない。
 これを誰かが読んだら「えー、それ絶対おかしい」と思うのか、「なんだ、そんなことも知らなかったのか」と言われるのか。答えを知りたいけども一方で「いまさら訊けない」小心者の自分がいるのだ。

"厄災"としてのゴジラ ~「シン ゴジラ」を観て(ネタバレ注意)

 遅ればせながら先日、話題の映画「シン ゴジラ」を観てきました。

 子供の頃、TVや映画で怪獣に囲まれて育ったおかげで今でもそういうものに対する抵抗はないけども、一方でやはり大人になるといろいろ目線も上 がってきて、正直子供だましのものを今更観るのはきつい…と言う感じに近頃はなっていた。殊にゴジラシリーズは歴史が長くて本数も多い。長く続くうちにい ろいろ背負うものが多くなった結果、なかなか新しい展開ができにくくなっていると感じていて、むしろそうしたしがらみをかなぐり捨ててまったく新しい魅力 を創出した金子修介監督の平成版ガメラシリーズの方がよっぽど評価できると思ってたけど、その金子氏ですらゴジラを撮ったらなんだかシリーズの重みに抗お うとしたものの中途半端に終わってしまう始末。新しいゴジラを創りだすためには、それこそハリウッドに期待するしかないのかな、なんてなんとなく思ってま した。

 でも今回の「シン ゴジラ」に関しては公開前から「これはぜひ見に行かねば」と強く感じていた。別に庵野秀明が脚本・総監督を行ったとかそうことではなく、予告編を観た時か ら、なにか今までとは根底から違う、自分が観たいゴジラが観れるのではないかとそんな予感がしたのです。

 そして実際観終わって…嬉しいことにその期待は裏切られなかった。それこそ今までのゴジラの歴史を一旦リセットして、まったく新たな、言わば「もう一つ別の"ゴジラ第1作"」を創り上げたようなものだと思います。

 そんなことが可能になった背景――そこにはあの5年前の大厄災が関係しているとみて間違いないでしょう。

 この映画は明らかに「東日本大震災を経た日本」だからこそ作れた映画だと言えます。考えてみると初代ゴジラが生まれた頃の日本も、ほんの10年 足らず前に広島と長崎の原爆を体験し、また空襲により多くの都市が焼野原になり、瓦礫の山の記憶がまだ鮮明に残っている時代でした。その上に第五福竜丸の 事件が追い打ちをかけたあの時だからこそ、ゴジラによる圧倒的な破壊が非常に身近に、皮膚感覚で迫ってきたのだと思います。そして今から5年前、東日本大 震災に起因する津波による大規模破壊で大量に発生した瓦礫の山、そしてなにより福島第一原発による放射性物質の恐怖を日本中が体験し、その記憶がまだまざ まざと残っている。昭和29年に多くの日本人が感じていた共通認識を、期せずして今の日本人も共有できるようになったのだ。そんな中、映画でゴジラが通っ た後の瓦礫の山を見て震災の惨状を思いださない日本人はいないだろう。そしてゴジラが通った後に放射線の異常値を発見した時の戦慄も――。まさしく今、日 本が作るべきゴジラだと言って過言ではないと思う。

 さらにその背景を生かしきるために、「シン ゴジラ」はシリーズ2作目以降の全ての作品でやらなかった事をやってのけた。即ち、第1作の無視である。今回ゴジラは文字通り世界で初めて日本に出現し た、まるっきり前例のない事象として取り上げられている。「もう一つ別の"ゴジラ第1作"」を作り出すためには、旧"第1作"は打ち消さなくてはならな かったのだ。
 ゴジラと言う想定外の事態に初めて直面した日本――そして「シン ゴジラ」は怪獣映画と同時に政治映画にもなった。そう、ゴジラという未曽有の"厄災"に直面してどう対処するか、ゴジラを描くと共にその対応シミュレー ションが映画の主要テーマとなった。だから怪獣映画とは思えないほどの情報量(セリフの数)が早口で大量に押しこめられていた。
 冒頭の海底トンネル事故の時、政府はまず海底噴火のような自然災害として処理しようとした。しかしその直後巨大なしっぽのようなものが現れて巨 大生物の存在を認めざるを得なくなった時も、川を遡っていく怪物を前に「上陸はできない」と過小評価しようとした。その直後上陸が伝えられて――。このように、当初は希望的観測と事なかれ主義が相混ざって物事を処理して済ませようとする結果、次々と想定外の事象に直面して後手後手の対応になってしまうところ…これもまた、震災直後の情報の混乱・対応の不手際さを思い出してしまう。

 そしてその怪物が川から上陸して初めて全体像を現した時、「ゴジラじゃない」と誰もが思ったろう。それまで体の一部だけ見せていた尻尾、そして 背中の特徴的な背びれを見せられて、絶対ゴジラだと思っていただけにとんでもない肩すかしを食らわせられたと思った。しかし、その直後、これがゴジラだと気づかされた途端――この作品に登場するゴジラの得体の知れなさを初めて実感した。
 そう、このゴジラは何度も変態を繰り返すのだ。今までそのようなゴジラは存在しなかったから予想もしなかった。頭を持ち上げて完全二足歩行する 際にその急激な変態の模様を目の当たりにし、ほとんど信じられない気持ちになった。着ぐるみでなく、CG制作だからこそできる技だったが、しかしこれもゴ ジラにかなり近づいてきたがまだ明らかに違った。

 そのゴジラがなぜかいきなり海に消え、次に登場するまでに様々な情報と予測が飛び交い、話はますます混迷の度を増していく。破壊された瓦礫の山・ゴジラの進路跡で検出された放射性物質…。ますます震災のあの記憶がフラッシュバックしていって胸が詰まった。

 が次にゴジラが鎌倉に登場するに当たって、それらはすべて吹き飛んだ。再度の変態で今度こそほぼ誰もがゴジラと認識する姿になって戻ってきた時、今度はその存在感の大きさに戦慄する。
 それから遂に自衛隊との攻防になり、通常兵器が全く効かないのは怪獣映画のお約束と言っていいのだが――なんだろう、今回の生々しさは。今回多 摩川を絶対防衛ラインとして総攻撃をするのだが――発射した弾は全弾間違いなく当たっているのにまったく効果がなく、次々と強烈な武器に切り替えているの に効果に変わりなし。攻撃するうちにむしろだんだん無力感が増してくる。まったくお構いなしに歩みを進めるゴジラに対し自衛隊は必死で追いすがるが、結局 最後はあっさりと払い落とされ多大な被害が出る。強烈な虚脱感と共に、圧倒的破壊神としての恐怖感が目覚めてくる。余談だが、この多摩川攻防戦の時、これ が突破されたらすぐ自分の家の方に来るという思いが去来した――映画だという事を忘れ思わずそう身構えてしまうほど真に迫っていた。
 そして東京を無人の荒野のごとく進み、遂には都心部に迫る。そこで米軍によるさらなる強烈な攻撃を受け、初めてゴジラに傷をつけることに成功するが――真の恐怖はこれからだった。


 ここでちょっと話を横にそらす。タイトルの事だけど、「シン ゴジラ」…この"シン"とは…。今までにない"新"ゴジラということか、それともこれこそ"真"のゴジラだという意気込みなのか。おそらくは特定せず、こ ういう風に観る者に勝手に考えさせるが故のカタカナ表記なのだと思うが(海外で上映される際、どのようなタイトルがつけられるか気になる…)、ここはひと つ勝手に"神"ゴジラとして考えてみたい。
 もともとゴジラを"荒ぶる神"とする見方は新しいものではない。というかシリーズが進むにつれて次第に神格化されていって、逆に倒すのがためら われるという逆説的なところまできてしまったぐらいだ(先に振れた「シリーズが長くなるにつれて増えた背負うものの」の最たるものがこれだ)。この場合の 神とは当然西欧の一神教の神:"全能の神"ではなく、日本土着の多神教の神のひとつだろう。しかしゴジラは荒ぶる神にしても規格外だ。「シン ゴジラ」を見ているうちに思ったのは、このゴジラは格が違いすぎて、人間というものを"相手"として認識しているかどうかすら危ういものだと思った。何し ろ体内に生体原子炉を有し、何も食べずして完全に自立して生きていけるという究極の生物なのだ。神だけあって意思の疎通など最初からまったく無理なような 気がするし、そもそも意思と言うものがあるのかさえ危うい。本当に本能のままだけで行動しているように見えて、それだけに手におえない"怪物"なのだ。前述の多摩川攻防戦で、自衛隊の攻撃はえげつない程に頭と、それから足に集中していた。そして無駄弾なく、そのすべての攻撃がゴジラに命中しているのだ。しかしゴジラの様子は毛ほども変わりはない。というかこれが攻撃だということすら気づいていないのではなかろうか。執拗に、徐々に強力な 武器を用いるにつれてゴジラもようやくうるさく感じ始めたのか、ちょっと辺りのものをはらったら――それだけで自衛隊は攻撃不能状態にまで追い込まれてし まった。

 しかしこのゴジラ、同時に危うさも感じる。その体内の核分裂のおかげで膨大なエネルギーを有する一方、放射線の影響で体細胞は絶えず変化を続 け、非常に短期間の間に変態を繰り返し続けている。自分がやりたくてそうなるわけではないし、時折その体内エネルギーを制御しきれずに苦しんでいるように 見える。 そんな折、港区にまで移動したところで米軍の攻撃を受け、初めて体に傷を追わせるところまでいったが、その途端、おそらくゴジラの体内エネル ギーは暴走を始めたのだろう。再び変態が始まりかけて下あごは2つに割れ、しっぽも形状が変化し始めた。攻撃そのものよりも、制御不能に陥った体内エネル ギーの処理にのたうちまわっているかのように見えた。そして――不思議に思っていたのだ、今回のゴジラがそれまでただの1度も口から熱線を吐かない事に。 そしてこの時初めて、それも暴走するエネルギーを体内から放出するために、そう、まさしくエネルギーを"嘔吐"した。それは辺り一面に地を這い炎の絨毯と なって東京中を焼き尽くす。あの東京を一瞬にして火の海に変えたあの熱線は、まさしくゴジラが制御不能でひたすら体内エネルギーを無作為に吐き出し続け た結果に思えた。
 そして膨大な余剰エネルギーを放出したことにより体の制御を取り戻したゴジラは、その熱線をも制御し始め、その結果熱線は徐々に絞られていき細 い光線となって辺りのものを次々切り落としていく。同時に自分を傷つけた者を明らかに敵と認識したのだろう。さらには背びれの辺りから無数の光線がまるで 爆発するように放射してすべてをなぎ落していく(この新技はまったく予想してなかっただけに驚いた)。ここにゴジラの破壊神ぶりは極限に達し、観ていてどうしようもない閉塞感に襲われ息が詰まりそうになった。前半で政府の中枢として束ねていた首相以下閣僚もこの際にその多くが命を落とし、後半は生き残った 者だけでどうしていくかがカギになる。

 しかしこの攻撃はゴジラ自身にも強烈な負荷を強いるものだった。身体のほとんどのエネルギーを使い果たし、まるで凍結したかのようにその場で動 かなくなるゴジラ。これは一時的な休眠状態であり、その間着々とエネルギーが蓄積されていっているのだが、しかしこれが人間側に考える時間と、ゴジラの生 物としての特性のヒントを与える結果となった。特性が分かれば対応策も考えられる。ゴジラを意図的に永久凍結させる手段を思いつかせた。
 しかし――ああやはりここまでくると、やはり核攻撃の話が出てきた。国際問題化して、国連決議として核攻撃が決定される。もちろん避難するため の時間を与えるが、たった2週間とは規模から言ってあまりに少なすぎた。「避難とは国民の生活を奪う事だ」というセリフが非常に身に染みる。余談だが核を 率先して議決したあの国を、「アメリカ」とは1度も言わず、不自然なまでに「米国」と呼び続けたのは、「米国」はアメリカではないとの言い逃れの余地を残 したのだろうか。ちょっと気になった。
 その決議をなんとか政治的な腹芸で1日延期して、独自の永久凍結作戦をなんとか間に合わせるが、しかしその実行作戦もスマートさのまったくな い、なんとも泥臭いものだった。いきなり"画期的新兵器"が出現してゴジラを退治するなんて展開がない分、むしろ第1作よりも現実路線と言える。「無人在 来線爆弾」なんてのはちょっと愛嬌があって笑ってしまうが、周辺の高層ビルをすべて爆弾で破壊してゴジラを瓦礫に埋め、無理矢理凍結液を口から注ぎ込むな んてのはアナログの極みで、どんくさい。しかしだからこそなりふり構わずギリギリの必死さが出ていた。
 最終的にはそれが功を奏してなんとか凍結に成功するが、その勝利にカタルシスはまるでない。なにせ凍結したとはいえゴジラはそこにそのままいる のだ。はたしてこの凍結はいつまでもつのか、ある日また動き出すのではないか…そんな危惧はいつまでも消えないし、もし活動再開の兆候が見えた場合、今度 こそただちに核攻撃を行うことをほのめかしている。言わば石棺に埋めたチェルノブイリ原発のようなものだ。第1作ゴジラは「このゴジラが最後の1匹とは思 えない」と締めくくったが、今回のは「このゴジラがもう2度と動かないとは思えない」というセリフが出てきそうだった。最後まで"核の恐怖"を匂わせるラ ストだったと思う。

 ゴジラ核兵器…といって思い出すのは1984年の「ゴジラ」のことだ。あれも当時の東西冷戦を背景に、この世界情勢の中にゴジラと言う巨大怪 獣が現れたらどうなるか、というシミュレーションドラマの一面があった。そのためソ連の核ミサイルがゴジラに向けて誤発射されると言った非常に興味深い シーンもあったのだが、この映画の場合それと同時にどうしようもなく過去のゴジラを引きづってもいた。そのため両者がうまくかみ合わずにストーリーに軋轢 を生み出し、結局どっちつかずの中途半端な出来に終わってしまった。僕は最初にこの映画を観た時、「よし、基本方針はこれでいい。そのまま台本を1から作 り直せ!」と叫びたくなったのを記憶している。そして今回、東日本大震災を経て、本当の意味で過去のゴジラをばっさり切り捨てて、再度強烈なシミュレー ションを得て、今の日本で作るべきゴジラを作ってみせた、それが「シン ゴジラ」だ、という思いを強くした。ゴジラの出現を徹底して想定外の厄災と位置づけ、それにどう対処すべきかを徹頭徹尾人間の側から描いてみせた。はたし てゴジラに意思や感情があるのか、自分の行動をどう思っているのか、すべてはまったく分からない。分からず、得体がしれないからこそ恐ろしい。恐ろしいか らこそ、どうしようもないほど強いからこそ活動停止に成功した時にはただただただただほっとした。泥臭い攻撃・カタルシスなき結末は最後までリアリティを 保持することに必要不可欠だった。間違いなく、全ゴジラシリーズ屈指の傑作だと言えるでしょう。

 このラストだと「その後」が気になってしまうし、今回の成功により続編の話が出てくる可能性は高い、とは思うが――このレヴェルを維持した続編 をつくるのは並大抵ではないし、やはりリセットした1回めだからこそできたことも大きいと思う。だから続編作るぐらいだったら――全く別の、もうひとつの 「シン ゴジラ」を観てみたいと思う。