いつまでも あると思うな パイパーズ

 管楽器専門誌「PIPERS」が、今年3月の通刊500号をもって休刊すると発表した。

 この報せは正直唐突で、強い衝撃を受けたが、一方で「しかたないのかな」とも思った。
 PIPERSはかなり特殊な雑誌である。木管および金管楽器に特化した内容で、正直一般の人の間にはほとんど知られてないだろう。一方でこれらの楽器をやっている人、その中でもかなり凝り性な人にとってはこれ以上ないほど興味深い内容満載の雑誌なのだ。
 その扱う範囲はその楽器の新製品情報はもちろん、奏法や奏者のインタビューに始まり、珍しい楽器の比較検討から楽器制作者への取材、管楽器の隠れた名曲の紹介から楽器や楽団の歴史、演奏会情報やCD評まで多岐にわたる。いずれもPIPERS以外では絶対に取り上げられないような内容であり、切り口も深掘り具合もこの上なく、まさしく唯一無二の雑誌だった。吹奏楽関連の雑誌は「バンドジャーナル」等他にもあったが、そのエッジの鋭さは比較にならなかった。
 このブログでも、以前PIPERSに載っていた「マウスピースのリフェイシング」に関する記事を読んで驚きを持ってその考察を取り上げさせてもらったが、他にもブログを書くに当たっていろいろ参考にさせてもらったことが何度もある。自分がPIPERSを知る前に載った記事で興味をそそられるものもたくさんあったので、編集部に申し込んで記事のコピーを大量に送ってもらったこともあるし、そうしたものはすべて丁寧にファイルして自分の宝物になっている。

 ただ、そのように非常に深いものであるが故に、その内容はどうしてもマニアックになってしまい、読む人を選ばざるを得ない。僕もこの雑誌を知ったときは感激して、何年にもわたって毎号欠かさず購読していたのだが(定期購読を申し込むことも真剣に考えていた)何年か読むうちに次第に疲れてきた。というか各記事は何種類もある木管金管楽器全般をくまなく取り扱っているので、僕がやっているクラリネットに関する記事ばかりではない。もちろんクラリネット以外でも興味深く読んだ記事はたくさんあるものの、時には1冊まるまる興味を惹かれない記事ばかりの時もあり、年を追うごとに徐々にそういうものが増えてきた。遂にはある時ふと買うのを止めてしまい、以降はHPに掲載される記事一覧を見て、興味を惹かれた記事がある時のみ購入するようになっていた。

 そうこうするうちに雑誌自体も徐々に値上げを繰り返しており、過去の記事を再掲することも時々見られるようになってきた。でもこういう再録ができるのもPIPERSがそれだけ歴史と実績のある雑誌だからだと高をくくっていたところがある。購入する頻度はだんだん減っていったが、それでも毎月必ず刊行されるものだといつしか慣れきっていたのだ。
 しかし昨今の只ならぬまでの出版不況の折、これだけ読者を選ぶ雑誌を刊行し続けるのは考えてみれば至難の業だろう。僕のようにたまにしか買ってくれない薄い読者では売り上げには貢献できてなかったろうし、発行部数は減少していたに違いない。それでも下手に部数を伸ばすような路線変更をせず、一貫して編集方針を貫き通したのはあっぱれとしかない。それで創刊から40年余り刊行し続けたのは、思えば奇跡のような雑誌だった。
 そして今回、500号という切りのいい数字で区切りをつけることに決めたのだろう。これから新しい記事が書かれなくなるのはさみしいが、この間書かれた記事は多くの人にとってかけがえのない情報が詰まった知的財産といっていいものだろう。できれば休刊後も望めば閲覧できるようライブラリー化してもらえるとありがたいと思うが、それだけの価値のある雑誌だった。

 いつしか売り上げに貢献しなくなっていた自分には休刊することに対して文句を言える立場にない。休刊を聞くまでそのありがたさを忘れていた自戒をこめて、このタイトルを復唱することにしよう。「いつまでも あると思うな パイパーズ」

 奇蹟の雑誌に、乾杯。長いことどうもありがとうございました。

ザンクトフローリアン効果

 ブルックナーの音楽は人によって好き嫌いがはっきりしているようで、受け入れられない人にとっては頑としてどこがいいか分からないらしい。「面白くない」「魅力が感じられない」とはっきり言う人もいる一方、最上の音楽としてあがめ奉る人もいる。なんというか、裸眼立体視のようにその魅力がぱっと観れる人がいる一方で、どうやって観ていいか見当がつかない、という人がいるようだ。

 僕の場合、中学時代にクラシックを本格的に聴き始めて間もなく、FMから流れてきた交響曲第9番を初めて聴いて、いきなり雷に打たれたような衝撃を受けて以来、すぐさまその魅力にとりつかれてしまったクチだった。以来今に至るまで、なんというか、他の作曲家とは違う特別な存在として心の中で常に位置づけられてきた。その気持ちは年齢とともにいや増すほど。若い頃はマーラー交響曲に驚嘆したりもしたが、徐々にそのケレンの利いた劇場型なところが鼻についてきたのとは対照的に、一種"聖なる存在"として存在感を増していっている。

 当然いろんな演奏に接してきた。当初ブルックナー指揮者として真っ先に名が上がっていたのはオイゲン ヨッフムで、初めて買った全集も彼の旧盤(ベルリンフィルorバイエルン放送響)のものだった。それからさらに当然のごとく朝比奈隆の数々の演奏に接し、少し遅れて評判になったギュンター ヴァントのCDも聴き込むようになった。

 しかしこうしていろいろな演奏を聴き比べるうちに、どの演奏にもどこか不満が出てくるようになった。たいがい、最初に聴き込んだ演奏が刷り込まれて他の演奏が受け容れ難くなることがしばしばあったのだが、ブルックナーに関してはいろいろ聴き込むほどに「ここはこうしない方がいいんじゃないか」「こうするとブルックナーの音楽が台無しになるな」といういっぱしの意見が芽生えてきてどの演奏にも不満が出てくるのだ。

 その不満は最初に聴き込んだヨッフムの演奏に顕著だった。彼の演奏では曲が盛り上がるほどにどんどんアッチェルランドする傾向があり、しかも晩年になるにつれてその特徴が顕著になっていった。音量が増しクライマックスに近づくほどにテンポが上がる。そうすることによってブルックナーの音楽がどんどん矮小化していくようにしていくように思えてならない。クライマックスほどテンポキープしなければその音楽の幅広さが保てず世界が小さくなっていくのだ。全集でも旧盤ではまだその傾向は多少気になるほどだったが、ドレスデン シュターツカペレとの新盤ではどんどんあからさまになっており、とても聴いていられなくなって遂には手放してしまった。

 朝比奈隆の演奏も、徐々に所謂"朝比奈節"とも言うべき緩急の付け方が鼻につくようになってきて、なおかつやっぱりヨーロッパの一流オケに比べると大阪フィルではアンサンブル精度にかなり不満が残る。実演ではそこまで感じなくても、それをライヴ録音したCDを聴くと、同じ演奏なはずなのに粗が目についてしまうのだ。結局氏が亡くなってしばらく時間が経つにつれ、徐々にその演奏から離れていった。朝比奈を終生評価し続けた宇野功芳が生前「朝比奈にベルリンフィルなどヨーロッパの一流オケを振らせてみたい」と何度となく言っていたものだが、結局実現したのはシカゴ交響楽団との第5番ライヴ1回きりだった。そのシカゴとの演奏も、そうなってみると朝比奈節が一層引っかかってくるので例えベルリンフィルを振っても結果がどうなったかは分からない。

 ヴァントもその精緻な音楽作りで至高のブルックナー指揮者として一世を風靡して、実際素晴らしい演奏と思うが、それでも僕がイメージする最上の音楽とは違うものだった。これに文句をつけるのはいちゃもんの類いでないかとは思うのだが、ちょっと細部にこだわりすぎていて、もうちょっと音楽を大きくつかんでほしいと思ってしまう。

 同じような意味で、チェリビダッケブルックナー演奏も、その細部まで顕微鏡を当てるようなミクロな表現力には驚嘆するし、それを最後まで貫き通す意志力には唖然とするが、これでブルックナーの音楽を聴き通すのは正直疲れる。それにブルックナーに限らないが、彼の晩年の演奏は、ものすごいけども一方でその超スローテンポ故に、そのテンポ感故の推進力を犠牲にしていることは否めなく、それ故にちょっと特別枠としてしか評価しづらいところがある。

 と、いろんな大指揮者に対して文句ばかり連ねてしまったが、それだけブルックナーの音楽というのは微妙な所があるのだと思う。そんなちょっとしたことで損なわれるような魅力ならば大したことないのだろうとアンティからは言われかねないけども、本当にいい演奏に出会った時の多幸感は他に比類がない。最近の演奏では、尾高忠明の演奏するブルックナーには今では朝比奈隆以上の素晴らしさを感じたし(是非組織的に聴いてみたい)、小泉和裕の指揮ではそのキビキビとした音楽作りに、それこそベルリンフィルのようなヨーロッパの一流オケを振ったらどれほどのものができるだろうかという可能性を感じる。特に小泉は活動の場が国内に限られているようなのがすごくもったいなく感じる。

 また最近知って意外な発見だったのが、クルト マズア/ライプツィヒ ゲヴァントハウス管弦楽団による全集が思いの外素晴らしかったことだ。マズアに関しては日本での評価が微妙で、政治力だけでゲヴァントハウスのカペルマイスターに居座っただけで指揮者としては凡庸だとかの評判を耳にしたことがある。確かに強烈な個性はないがゲヴァントハウスの伝統を引き継いでじっくりと高めた力量を確かに感じさせてくれると思う。ベートーヴェンシューマンメンデルスゾーンといったドイツの正統的な音楽表現者として王道といっていい魅力的な演奏を数多く残している。ブルックナーについてはそれほど期待していなかったが、いざ聴いてみたら決して奇をてらわず、しかし非常に素直な音楽作りをしていて、図らずもブルックナーの魅力を理想的に現出している時がしばしばあった。それにこの頃のゲヴァントハウスの音は実に魅力的だし。特に5番や8番は正直文句のつけようのない名演だと思う。一方で9番に関してはマズアが珍しく妙なやる気をだしてしまったが故に(^^;変にねじくれた表現になってしまっているなど、曲によってはあまり評価できないものもあることは確かだが。

 そんな中、ゲルギエフが手兵(当時)ミュンヘンフィルによるブルックナー交響曲全集を完成させた。ミュンヘンフィルといえば古くはクナッパーツブッシュにケンペ、そして前述のチェリビダッケブルックナーに関しては過去に数々の名演奏を残しているオケではあるが、ゲルギエフはそれほど好きな指揮者ではないし、またブルックナーを演奏するイメージが全くなかったので特に期待はしていなかった。ただこのオケで注目すべきポイントだったのは、全曲ザンクトフローリアンによるライヴ録音だったことだ。

 ザンクトフローリアンと言えば、ブルックナーにとっては生涯に渡って様々な関わりを持ち続け、死後、その地下墓所に埋葬されることになるという、ファンにとっては聖地とも言うべき場所だ。さらには朝比奈隆がこの場所に於いて交響曲第7番を演奏し、そのライヴ録音は今も名盤として語り継がれている。僕もこれを聴いた時、大阪フィルの音が普段とは別次元と言っていいほどつややかで、そして蕩々と流れる音楽に心底魅せられてしまった。朝比奈のブルックナーをあまり聴かなくなった現在でも「ザンクトフローリアンのブル7」と言えば僕の中で格別な存在として輝き続けている。
 そのザンクトフローリアンで全曲録音した全集というのは今までなかったと思う。そんなことで気になったところへ、たまたまBSでその中から1番と3番が放映されるというのでちょっと聴いてみることにしたのだ。
 聴き始めてすぐ唖然とした。ブルックナーの音楽がなんと魅惑的に響き渡ることだろう。テンポに関しても決してあわてることなく泰然自若として弛緩することなく流れていく。これは…聴かねばなるまい、と全集CDを注文して購入した。

 そうして全9曲を聴いてみた結果――どの曲も、これほど申し分ない全集なんて聴いたことがない。個別に「○番」とピックアップすればこれを上回る演奏はあるかもしれないが、全集としてトータルで観た場合、全曲どれをとっても最高水準であり、いや、ゲルギエフにこういう演奏ができるだなんて申し訳ないが予想してなかった。
 その特徴をひとつ挙げるとすれば、前述の「音量が増しクライマックスに近づくほどにテンポが上がる」ことが一切ない。よく聴けば微妙にテンポが速まる部分もあるが、ほとんど気にならない程度であり、それによりその音楽が矮小化することなく、その大伽藍のような巨大さがいやが応にも現出する。それにしてもザンクトフローリアンで奏でられるその音色はなんと芳醇なことだろう。今さらながらだが、ミュンヘンフィルというオケが持つ音の魅力というものにも気づかされ、このオケの演奏をもっといろいろ聴きたくなってきた。
 そしてこの演奏の特徴を引き出している理由のひとつに、このザンクトフローリアンの持つ響きがあるように思えてならない。教会によくあることだが、その残響の長さは群を抜いている。よくホールの残響の理想は2.1秒と言われているが、ここは明らかにそれより長い。おそらく3秒以上あるのではないかと思われる。この全集を聴いてて、音がポンと響いて止まった後、その残響がたなびくようにかなりの時間響き続けていることが録音からでもしっかりと聞こえてくる。これだけ長い残響だと、ざくざくと進んだら前の音が消える前に次の音が鳴ってしまい、お互い混ざって濁ってしまう危険がある。そっか…。だからアッチェルランドすると音がどんどん混ざって雑多になってしまい、それ故にしたくてもできなくなるのだ。結果として前の音がある程度消えるまでは無理に先に進まないよう、自ずとブレーキがかかってその響きが濁らないよう自然にテンポが抑えられる。結果、この悠久迫らぬ音響の大伽藍を造り出すことが無理なくできるのだ。

 ゲルギエフが他の場所で演奏したブルックナーを聴いたことがないのでこれが元からの彼の解釈なのかは判断はできないが、少なくとも彼も世界有数な指揮者としての耳は持っている。この場所に見合った速度、というのをしっかりと把握した上で自ずとこのテンポになったのではなかろうか。朝比奈隆の演奏が、他の場所での演奏とは別次元となったことからも、そうなることは充分考えられる。
 長年オルガニストとしてブルックナーがここザンクトフローリアンの響きの中に浸っていた事を考えると、作曲するに当たってもその響きを前提としていつしか考えていたことはありえないことではないだろう。そのように考えると、ザンクトフローリアンの響きはまさにブルックナーの音楽を自然とあるべき姿に作りだしてしまう「ザンクトフローリアン効果」と言うべきものがあるような気がする。

安倍元総理襲撃事件に思う

 きのう発生した安倍元総理が奈良で選挙応援演説中に襲撃されて命を失った事件は、ほんと近年の日本ではほとんど聞いたことがなかった「要人の暗殺」という生々しい事実をいきなり突きつけられてほんと衝撃を与えたが、それ故についつい考えてしまうことがいくつもある。

 

 まず一つ目は、このように個人で殺傷能力のある銃が作れてしまう、という事実だ。その場で取り押さえられた犯人(これを容疑者と呼ぶのはいかにもそらぞらしいと思う)はかつて海上自衛官だったことのあることが注目されているが、別にだからといって銃を自作できるわけではなさそうだ。というかもしそうなら、警察官や自衛官は皆その気になれば銃を作れてしまうことになってしまう。犯人は最初犯行に爆弾を使うつもりで実験をしていたが、これでは殺せないと分かって銃に切り替えたという。もっともこの銃、見た限りではかなり簡単なもので、おそらく砲身1本に弾を1つ込めることしかできず、それを打ったらもうおしまいの使い捨て。使っている火薬もその銃声からいっておそらくは銃のものほど精錬されていず出来合いのもの、照準器もなく、総合的にいって至近距離からでない限りは到底役に立たないものだろう。それでも条件付きとはいえ立派に目的を達成できるだけの威力は持っていた。砲身が短いため鞄の中に簡単に入れることができ、対象に接近するのに気づかれにくい。
 犯人がいかにしてこんな銃を作る知識を得たのか…今日び、ネットのどこかにこの銃の設計図がupされているのかもしれないと思うとぞっとする。それに犯人はほんとに自宅でこの銃を手作りしてたみたいだから、出来上がった銃をいきなり使うとも思えない。間違いなく事前に試射してたと思うのだが、いったいどこで…。

 

 続いて、安倍元総理のような要人の場合、常に優秀なSPがついていて、こういう襲撃に備えていざという時には身を挺して警護に当たっているものだと思っていた。しかし、こうもあっさりと犯人に間合いを詰められてしまうとは…。繰り返すが、おそらくこの銃はすぐそばまで近づかなければ用をなさない。遠方からスナイパーが狙いを定めて銃撃するのとは話が違うのだ。つまりは警護さえしっかりしていればこの事件はまず間違いなく防げた類いのものだったのだ。もちろん現役の総理ではないとはいえ、これほど顔の知られた人物がこうもあっけなく…。当日安倍元総理が演説するのはかなり直前に決まったようだが、それならば犯人側にとっても準備する時間が少なかった訳だから決して犯人に有利というわけではない。安全神話の上に立って、警護にかなりの手抜かりがあったとしか思えない。

 

 三つ目、最初の方で「近年の日本ではほとんど聞いたことがなかった」と書いたけども、かつての日本ではこういう暗殺の例はいくつもある。初代総理の伊藤博文からして最期は朝鮮で暗殺されているし、大正から昭和初期にかけては、原敬浜口雄幸犬養毅と3人も現役総理として暗殺されている。浜口は一旦は一命を取り留めたものの、傷が癒えないうちに無理して復帰したために、結局その無理がたたって命を落とした。それぞれの政権に問題がなかったわけではないが、日本が非常に難しい時代にある中、自らの信念を貫いて日本の舵取りにあたった(それ故に軋轢も多かったが)気骨のある政治家達だと思っている。特に犬養の場合、複数の青年将校首相官邸を強襲され、銃口を突きつけられながらも「話せばわかる」とあわてず応対しようとし、それを「問答無用」の一言のもと銃弾を受け命を落とした。いわゆる五・一五事件であり、この後日本が太平洋戦争に一直線に向かっていくのを象徴するような出来事だと思う。
 今回の事件でもこの問答無用な襲撃に、「民主主義の危機」的な論調で語られるのを耳にしたし、それは間違いないのだが、それでもって安倍元総理をこれら歴代総理と同列に語ろうとするのは、どうにもひっかかってしまう。
 もちろん故人を悼む気持ちはあるが、安倍元総理はそりゃ在任期間は長いがその業績を見るとかなり問題のある人物だからだ。アベノミクスだの3本の矢だのかっこいい言葉だけはどんどん出てくるが、その成果はかなり怪しいもの。しかも彼の悪いところはあたかもそれが成果があったかのように業績をでっちあげたことだ。その実体は、でっちあげるための横紙破りの連続、無理を通せば道理引っ込むのオンパレードで、そのために多大なる「忖度」を積み上げて虚構の実績を形作った。あまりに無理を固めすぎてほころびが生じたのが例の「森友学園」「加計学園」「桜を見る会」であり、これらの真相は今後も容赦なく追求し、安倍元総理の実体を白日の下にさらさない限り、それこそ「民主主義の危機」となってしまうだろう。そんな彼も新型コロナに対してはお得意の「忖度」がまったく効かないために完全に行き詰まり、馬脚を現した上、結局は第1期政権時と同じ理由で総理の座を降りるという体たらく。今回の事件によって要らぬ同情論がはびこり、神聖化されることによって追及の手が鈍ることをもっとも恐れる。

 

 最後に――これまた要らぬ同情論により、明日の参院選自民党の大勝利はまず間違いないだろう。ほんとこんなタイミングで事件を起こし、犯人はほんとうは自民党の勝利を画策してたんじゃないだろうかと勘ぐりたくなるぐらいだ。
 思い出すのはかつての大平総理のこと。この時、内閣不信任案が可決するという歴史的不名誉のもと衆議院を解散、元から予定されていた参院選と合わせて奇しくも衆参同日選挙となった選挙戦の最中、当の大平総理が急死した。この死には事件性はないが、結果としてこの時自民党に大量の同情票が集まって自民党は大勝利を収めた。
 明日、同じような事態が再現されるのが目に見えるようだ。

「自分を律する」ということ

 確か岩城宏之のエッセイだったと思うのだが(これを機に出展を探したのだが見つけられなかったので記憶で書きます)、こんなエピソードを読んだことがある。

 岩城がある日、知り合いのある高名なヴァイオリニストを自分の演奏会に招待しようとチケットを渡した。だがそのヴァイオリニストはその日時を聞いて即座にこう断ったという。「すまないが、その時間にはどうしても外せない予定があって行く事が出来ない。でもその終演時間には予定が終わってるのですぐ駆けつけるから」
 そして演奏会当日、終演後程なくそのヴァイオリニストは演奏会場に現れて岩城に挨拶に来た。「聴きに行けなくて悪かったね」
 約束通り駆けつけてくれたヴァイオリニストに岩城は礼を述べると共に、なにげなく「ところでその"外せない予定"ってなんだったんですか?」
 そのヴァイオリニストは悪びれる様子もなく即答した。「いや、家で練習していた」

 これを読んだ時の驚きは忘れられない。なぜ驚いたのか。それは"外せない予定"というのは普通、誰かと約束してたとかその時間にやらないと誰かに迷惑をかけるとか、そういうどこか対外的なものを指すと思い込んでいたからだ。それを自分ひとりで練習するために招待を(それも悪びれることもなく)断るだなんて、随分と岩城も軽く見られたもんだな、といささか憤慨のおももちがあった。

 あまりに印象が強くてそれからも何かの折にふとこのエピソードを思い出したりしてたのだが、年月が経つうちにだんだん考えが熟成されてきたのか、徐々に印象が変わってきた。その人はプロのヴァイオリニストであり、しかも名声あるソリストである。常に高レヴェルの演奏をすることを求められており、そのレヴェルを維持するためには日々のたゆまぬ練習が不可欠なのは火を見るより明らかだ。
 そのヴァイオリニストにしてみれば、自分の練習時間を確保するというのは何にも増して大切な"予定"であり、すべてに優先して真っ先に押さえるべきことだったのだ。だから、むしろ見直すべきなのは――このエピソードを読んで驚き、憤慨すら覚えた自分の思い込みの方だろう。


 自分ももういい加減人生後半戦に入ってきて近頃思うのは、自分のような平凡な人間が何か少しでも成果を出そうとする場合、時たま思いつきでやるようでは大したことは何もできないということだ。気が乗った時に集中的にやったとしてもたかが知れているし、自分なりに頑張ったつもりでも後から振り返るとそれほどのことはできていない。ほんと馬齢を重ねてきて、いったい自分がどれだけのことをやってきたのか、そのあまりの少なさに情けなるほどだ。
 ただ、自分のような者でもなんらかの成果を上げることができる方法が1つだけある。それは「毎日少しづつ積み重ねていく」ことだ。ほんとにちょっとだけ、30分、いやなんなら10分でもいい。ただ毎日欠かさずひとつ事を積み上げていくこと。大事なのは使った時間よりも「決めた事をさぼらないこと」だ。1日1日の成果はほんのちょっとでも、1年間欠かさず積み重ねればふと振り向くと思った以上の成果が上がっている。5年、10年とやって行けば自分でもちょっと「えっ?」と思うほどのことがなされているのだ。ここ数年こうしたことを自分でも気にするようになって、「日々の積み重ね」の重要性がようやく実感できるようになってきた。
 こうして「毎日積み重ね」の習慣、ひとつ挙げると以前当ブログでも書いた漢字の書き取りがそうだが、何年も続けていくうちにいつしか日常で使うような漢字はすらすら書けるようになったし、また当初はなまってろくに動かなくなっていた字を書くのに必要な指の筋肉も、なめらかに動くようになった。この成果はまさしく日々の成果といっていいと思う。
 とはいえこの普通に10分程度で終わる習慣さえ、実際に毎日どこかの時間でやろうとすると、ついついどこかに紛れそうになって、欠かさずやろうとしてもつい忘れてしまう時がある。こんな時は翌日に2日分やって追いつくのだが、2日分ならともかく、それが3日・4日と溜まっていくとリカバリーがどんどん困難になっていき、遂には諦めざるを得なくなってしまう。

 そして思い出すのは冒頭のヴァイオリニストの言葉だ。一般的な感覚では彼の行動は「不義理」だろう。日本人の多くは、こうしたことは極力避けることが望ましいという空気の中に晒されていると思う。しかしこうした「不義理」を避けようとした結果「日々の積み重ね」が損なわれることも多く、しかもそれを「仕方ない」と思ってしまう。それが実は負のスパイラルであることにはなかなか気づけない。
 ヴァイオリニストの場合はその時間が毎日何時間も必要なのでなかなか難しいが、自分の場合にはやるのに短くて10分、長くても30分~1時間ぐらいのものだ。それを毎日実行し続けていくのに一番いいのは――1日の時間の使い方の中で、なるべく他への影響が出にくい時間帯を選択し、「その時間が来たらそれをやる」という習慣をつけることだ。
 「習慣をつける」と一言で言っても「言うに易し」で、その時間になっても疲れたりその気にならなかったりでついついサボりたくなる時もある。けどそれでもとにかく問答無用でやる、やらなかったら次の日に必ずリカバリーすると決めると逆にサボった方が重荷になるから渋々でもやる。その時間どうしてもできない理由があるならその時からリカバリーの事を考えておく――そうしていくことによってえっちらおっちら日々積み重ねていくと、やっぱりやったけの実績が上がっていることに、後々気づかされるのだ。

 「自分を律すること」というのは、こういう小さな事の積み重ねからだんだんに身についていくことだと思う。

管につける薬はない ~終幕

 管総理が唐突に「総裁選不出馬」という形で辞意を表明した。

 直前まで延命のためにあがきにあがいてきたが、遂に万策尽きて政権を手放さざるを得ない状況に追い込まれたらしい。

 ここまできたら、総選挙やった上で現職総理自ら落選して総理の座から強制退去される様を見てみたいなんてすら思っていたのだが、結局総裁選まですらもたなかったな。

 

 ほんとこの1年、管政権が繰り出す、やることなすこと無茶苦茶な新型コロナ対策にしばしば頭が沸騰するかのような思いをしてきて、その言動がいかにとんちんかんかをひとつひとつ添削したい衝動にかられていたが、それやるとなんだか自分が同レヴェルにまで堕ちる気がしてなんとか思いとどめてきた。

 結局管総理は徹頭徹尾永田町の中しか見ていない人だった。「国民のために働く」なんてスローガンを掲げてながら、国民のことなんか一個も見ていなかった。おそらく安倍政権下の官房長官として、永田町内に目を光らせてればそれでうまくいったもんだから、総理になってもそれで通じると思い込んでいたんだろうなぁ。以前も書いたけど、安倍政権は永田町内の"忖度"の上に成り立っていて、それに基づく横紙破りの連続でなんとか保っていたから、忖度の利かない新型コロナウイルス相手にはいつもの手がまるっきり通じない。結果安倍前総理から事実上"禅譲"されて政権の座に着いた管総理はさらに輪をかけてまわりが見えてないから、「以前はこれでうまくいったはず」という妙な成功体験にとらわれて考え方がどんどん硬直化していって現実とのズレが生じ、それがどんどん大きくなって見るも無惨な珍発言の連発となってしまった。おそらく本人は自分がいかにおかしなことを言っているか(そしてその事がみんなに丸わかりになっているか)に気づいてないんだろうなぁ。

 そして今日この期に及んでも総裁選不出馬の理由を「コロナ対策に専念するため」とまさしく明後日の方向を向いたことを言い出した。今更管総理に誰も何も期待してないし、またできる時間だってもうないに等しい。おそらく彼の頭の中には「なんとなく前向きな理由をつけてかっこつけたい」気持ちしかないのだろう。追い詰められてにっちもさっちもいかなくなって辞めざるを得なくなったのはバレバレなのに、自己保身の気持ちだけは譲れないらしい。

 

 ほんと、この人につける薬ってどこにもないんだろうな。きのう90歳にして禁固5年の判決を受けたあいつと同レヴェルと言っていい。

ギャグとシリアスの狭間で ~みなもと太郎氏を心から悼む

 相変わらず、いや今までにも増して猛威を振るう新型コロナウイルスの感染拡大の中、またひとり千葉真一という昭和の大スターをこの世から失い、その死亡記事を新聞で読んでいたところ、ふと隅っこの方で小さく囲まれた訃報が目に入ってはるかに強い衝撃を受けて息を呑んだ。みなもと太郎、死去…。
 この瞬間、不朽の名作「風雲児たち」は永久に未完のまま強制終了することが確定した。


 書き出しというのはどんな作品でも重要だが、歴史ものを書こうとする場合、いったいどの時点から書き始めるか、というのは重要な選択だと思う。みなもと太郎も「風雲児たち」で幕末ものを書こうと構想するにあたって、その起点をどこにするか、を散々考えたのだろう、そして結局――関ヶ原から書き始めた。
 おいちょっと待て!というツッコミが聞こえてくる気がする。言うまでもなく関ヶ原の戦い徳川家康が政権を取るにあたってそのアドヴァンテージを決定づけた戦いである。この時点では幕末どころか徳川幕府自体がまだ存在すらしていない。僕自身、友人から勧められて読み始めた時はその意図が分からず、当初はそこまで大した作品に思えなかった。なにせ単行本第1巻まるまる関ヶ原の戦いが、それもギャグタッチで描かれ、小早川秀秋が思い切りアホに描かれるなど、単に「有名な歴史をおちゃらけて描いている」程度にしか思えなかったのだ。
 ところが――その中にちゃんと作者の独自視点があることが、合戦後に初めて気づかされる。もちろん史実通りに西軍は負け、西軍で参加した諸藩は様々な煮え湯を飲まされることになるのだが、その中に「なんのために関ヶ原にきたのかまったくわからない藩」が3つある事が示される。その3藩とは、薩摩・長州・土佐…。学校で幕末の歴史をかじった人ならば、その不思議な符丁に驚かない人はいないだろう。作者はそこに幕末の"芽"があるのを見つけ、そこが物語の端緒だと確信したのではないだろうか。
 第2巻以降も時系列的にはそのまま続き、関ヶ原の始末から徳川幕府の成立過程、家康という男が如何に用意周到で、自分の死後も徳川幕府が永続するためのシステム作りに奔走したか(確かにそれまでの戦国武将は天下人その人の能力に頼っていたから、こうした"システムの構築"という発想をこの時代に考えた家康という男の先見性には目を瞠る)が描かれる。そして初期徳川幕府で、家康の死後、徳川家に不思議な縁のある大老保科正之によっていかに徳川幕府というシステムが確立していくかを、このマンガはしっかり描いていく。
 この時点でこの「風雲児たち」というマンガの独自性がはっきり見通せてきた。江戸徳川260年の歴史を、家康という卓越した天才が作り上げた江戸幕府というシステムの歴史としてとらえ、幕末の時代、そのシステムがいかに綻び、崩壊していくかを描いてこうとしているのだ、と。言わば歴史そのものを主人公とした群像劇。そう、SF文学の古典、アジモフの「ファウンデーション」シリーズにも通ずるような一大歴史絵巻の姿が垣間見えてきた。
 もっとも当初の構想からそうであった訳ではないそうで、最初は普通に坂本龍馬を中心とした幕末群像劇を描こうとしていたらしい。ただ龍馬を描くためには背景としてこれを説明する必要があり、これの説明として前提としてあれにも触れなければならず…とどんどん遡っていった挙げ句、結局「徳川幕府の成り立ちから描かなきゃだめじゃん!だとすると、書き出しは――関ヶ原!」となってしまったようだ。

 こうして第1部として徳川幕府の確立を単行本4巻にわたって描き、これで江戸幕府の土台がためはできた、ようやく時を飛ばし一気に幕末に――とはならなかった。あくまで目的は幕末であり、別に江戸時代全体を時系列を追うことは考えてはいなかったが、こうして描き始めた以上、この確立したシステムが綻び始めるのはいつか、との視点で考えるようになり、そして次に着地したのは――第1部から約150年後、田沼意次の時代だった。
 田沼時代といえば、以前は収賄が横行した暗黒時代なんてイメージがあったが、現在はそのような見方をすることは少ない。確かに金が力を持つようになってきたのは確かだが、貨幣経済が充実し、いわば日本における重商主義が成立した時期といえるだろう。そしてその時代の変化を読み取って巧みに後押ししたのが老中田沼意次だった。
 ただしこうした"時代の変化"は家康が構築したシステムに軋みを生じさせ始めた。というのも徳川幕府システムは鎖国という閉鎖された世界の中で、徳川将軍を頂点とするゆるぎない身分制度を大前提として構築されていたからだ。それがこの時代、貨幣経済の発展によって、その前提が揺さぶられ始めた。
 まず貨幣経済の発展に伴い産業はそれまでになく盛んになり世の中は豊かになっていったが、それとともに各人が自分の才覚により金を稼ぎ、かつ力をつけることが可能になった。すなわち、それまで身分制度の下ガチガチに押さえつけられていた個人の一部に、自分の才能を発揮させることが可能になり、それとともに身分的には低くとも金を稼ぎ、その金で時には武士でも逆らえない力を持つことができるようになる。それは身分制度に亀裂を入れる結果となった。
 次に、がんじがらめに鎖国して他国の情報を遮断したはずが、唯一開いた長崎の出島という狭いトンネルを通して少しづつ、外国の先進的な技術が漏れ伝わってくるようになっていった。もともとは幕府が貿易の利権目的で厳しい管理のもと運営してきたものが、これにより西欧諸国の先進科学技術とそれに伴い、日本とはまるで違う合理主義的な考え方や社会組織が徐々に一部の人々に浸透していくことにあった。
 みなもと太郎はそこに徳川システムの崩壊の芽を読み取った。そして実際この田沼時代に、それまでにない個性を持った人物が次々と輩出していったのだ。前野良沢杉田玄白の「解体新書」組に万能の天才平賀源内、そして逸早く外国に目を向けて優れた著作をあらわした林子平、さらに北方を探検し日本の在り方を見つめた最上徳内に特にスポットを当て、その周りに集った様々な人物を取り上げて、それまでとは違う百花繚乱の個性を描き出した。
 田沼意次はこれらの人物をひそかにバックアップする要人としての役割をするが、一方で当然ながらこうした動きを警戒した人物もいた。単に時代遅れの保守的な人物だというだけでなく、中にはこの動きは徳川システムに仇なす危険分子だと悟った人もいただろう。最終的には揺り戻しが起き、田沼意次は失意のうちに失脚、ここに登場した"早すぎた人達"の多くも悲惨な末路をたどる。田沼意次に代わり反動的な松平定信が実権を握るなど、徳川システムを再整備するような時代が来る。
 しかし一旦生じた綻びは完全に埋まることはなく、その後何度となく揺り戻しを経験しながらも止まることなく確実に大きくなっていく。そんな中、大黒屋光太夫のように遭難を経て実際にその目で外国を見、帰国する者も現れ、一度開いた窓は少しづつ拡がりをみせ始めた――。

 さて、「風雲児たち」の最初の方の流れをごくかいつまんで話してきたが、お分かりのように作者は徳川幕府の歴史そのものにどんどんのめり込んでいった。登場人物は巻を追うごとにどんどん急増し、時代の流れもじっくりと遅くなり先に進まなくなってくる。それにこっから先は特に目立って時代をすっ飛ばすこともなかったのだ。この調子ではいったいいつ幕末にたどり着くのか…?
 実際その心配は杞憂ではなかった。何よりも掲載誌「コミックトム」の編集部自体がいらつき始めた。いつになったら幕末に入るのだ、いますぐ幕末に入らねば連載を打ち切るぞ、そんな圧力が日に日に強まり、遂には単行本1巻分で30年分を一気に駆け抜ける"暴走"を経験する(第17巻)。これにより高田屋嘉兵衛をはじめ何人かがごくごく簡単に触れらるだけで終わってしまうといった事態が起き、当時読者からも多大な反発があったが、どうだろう、作者自身「このまんまではいつ終わるかほんと分からんぞ」と弱気になったこともあったかもしれない。
 まぁこのおかげで話はシーボルトとその娘いね、高野長英江川太郎左衛門英龍、村田蔵六大塩平八郎、そしてジョン万次郎といった幕末に直接つながる人達の話になりますます充実してくるが、この暴走箇所もできることなら番外編でもいいからちゃんと書いて欲しい、という気持ちは常にあった。

 でも編集部との軋轢はその後も完全に消えたわけではなかった。当時そんな裏事情を知らなかった僕は「コミックトム」を「今もっとも充実しているマンガ雑誌」と信じて疑わなかった。もちろんこの雑誌が某新興宗教の息がかかった出版社から出ていることは承知(またみなもと太郎自身、学会員であることを隠そうとしなかった)していたが、作品自体に宗教色は感じなかったし、かの横山光輝「三国志」手塚治虫ブッダ」を始め、息の長い真の傑作をじっくりと描かせてくれる雑誌だと思っていた。
 だが結局――単行本で追っていた自分は第29巻の末尾で遂に黒船来航にたどり着いたのを見て「ようやく真の意味で『風雲児たち』が始まる」と高揚した。それからしばらくして発売された第30巻が――宝暦治水伝を取り上げた外伝であることに驚き、かつこれが「風雲児たち」の最終刊であることを知り信じられない気持ちで呆然としてしまった。
 ここで雑誌「コミックトム」自体が休刊、「コミックトムプラス」という新雑誌にリニューアルした。「風雲児たち」も「雲竜奔馬」としてリニューアル…と聞いていたが、この作品を読んで心底失望した。そこには僕が「風雲児たち」に求めていたものがなにひとつなかったからだ。「雲竜奔馬」はおそらく一番最初にあった構想、坂本龍馬を主人公とした幕末もので、しかし龍馬を主人公としたこと自体が失敗であったことは明らかだった。「風雲児たち」にあった歴史的壮大さはかけらもなく、主人公が駆け回る辺りの描写しかできないことが足枷になって極度に矮小化された世界しかなかった。描いていく内になんとかならないだろうか――との思いもむなしく。結局「トムプラス」自体短命に終わり、「雲竜奔馬」は中途半端な打ち切りの憂き目に遭う。ここに「風雲児たち」の未来は完全に途絶えてしまった――と思った。

 しかし、ここまで営々と築き上げてきた実績はそうそう消えなかった。中断を惜しむ声が相次ぎ、そして「雲竜奔馬」終了の翌年、"拾う神"が現れた。リイド社が刊行する時代劇専門誌「乱」だ。時代劇の、劇画調のマンガが主流のこの雑誌の中でギャグタッチの歴史ものはいささか異質ではあるが、同じく江戸時代を舞台とする意味では共通項も多い。こうして満を持して「風雲児たち」の正式な続編たる「風雲児たち 幕末編」が連載開始した。
 再開第1回の接ぎ穂として登場したのは、前作ではまだ登場してなかった、しかし幕末を語る上で決して避けては通れない井伊直弼。一生を部屋住みで終わるはずだった彼が、いかにして井伊家の家督を継いで大老への道を歩み始めるか、そこから語り始め、さらには前作末期で重要な役割を担っていたシーボルトの娘いねも登場、その後も次々と主要登場人物が揃い始めた。
 そして何よりも嬉しかったのは、この「幕末編」が前作の正当な続編として描かれ、中途半端な出来だった「雲竜奔馬」はまさしく"なかったこと"として扱われていたことだ。そのため「幕末編」の最初の方では「雲竜奔馬」で描かれたシーンが再度描かれているが、それによって「雲竜奔馬」を読む必要なく話がつながっていった。
 「幕末編」を読み進む内に、今度は編集部がみなもと太郎に全幅の信頼を置いて、今度こそ思う存分描きたいように描かせていることが伝わっていた。苦節20年、遂に「風雲児たち」は理想的な発表の場を得たのだ。

 以来20年近く、「風雲児たち」は滞ることなく順調に連載を続けていた。しかし――読み進む内に「大丈夫か」という別の不安が次第に鎌首をもたげてきた。
 物語の進行が、目に見えて遅くなってきたのだ。
 理由ははっきりしていた。いよいよ幕末の佳境に入っていくにつれて様々な人物が同時進行的に様々な動きをし始めた。みなもと太郎はそれらすべて丹念に調べ上げて自分なりの解釈を加えてまとめ上げ、微に入り細を穿ちことごく網羅していこうとしていたのだ。そのすべては歴史の流れを構成するのに必要な要素であり、それらをはしょっていては自分の考える"幕末史"にならない。そう、これは彼が関ヶ原を起点にすると決めた時から宿命づけられていたのかもしれない。みなもと太郎は歴史に魅入られていたのだ。
 ひとつの大事件を前に、その前提としてこっちではこんなことが、あっちではあんなことが…と時系列を何度も戻りつ何度も別視点で繰り返すことも珍しくなくなった。ある意味ストーリーを語る上では破綻していると言っていい。しかしそれは歴史の前では二の次だ。そして彼の40年にわたる実績は、そうしたことを容認できてしまう編集者と読者を獲得していた。だからこそ最近は作中で1年時が進むのにえらい時間がかかったし、さらに本来の大事件を語る際は単行本1冊まるまるそればっかりで構成されることもざらだった。再開第1回で井伊直弼が登場することを述べたが、彼が桜田門外の変で暗殺されるのは「幕末編」第21巻、実に初登場から10年以上後のことだった。
 読者はそれでも皆大歓迎。ただ、次第に心配になってきたのはみなもと太郎自身の年齢だった。このペースでは、明治維新に到達するまでどう少なく見積もってもあと10年は連載を続ける必要があるだろう。しかしみなもと太郎は既に70歳を越えている。本人がこの作品の終着点をどこに設定しているかは分からないが、はたして完結まで寿命がもつのだろうか――。
 近頃は不安を抱えつつ、それでも年齢を感じさせない健筆は期待を抱かせるに充分だった。なにしろ画業50年に達する大ヴェテランが、連載を抱える一方でコミケに同人誌を出版し、しかもそちらでは堂々今時の萌え絵を披露している(さすがにそちらまではチェックしてないが、艦これとかが好きだったとか)と聞けば、その若々しさには驚くしかない。
 しかし予感は的中してしまった。それも思ったより早く。昨年の前半までは変わらぬペースで連載を続けていた(その頃にはちゃんと新型コロナネタまで織り込んでいる)のに、後半になって休載したままなかなか再開しない。大丈夫か…そう心配していた矢先にこの訃報である。享年74歳。直接の死因は心不全であるが、昨年より肺がんを発症し闘病していたことが訃報には記されている。
 生前最後に刊行された「幕末編」第34巻には文久2年、高杉晋作らによって英国公使館が焼き討ちされる前夜までが描かれている。関ヶ原から書き始められた大河歴史ギャグ絵巻は、明治維新まであと5年にまで迫ったところで永遠の中断に入った。

 ――ただただ残念でならない。個人的にはこの後、将軍としての慶喜がどのように描かれるかをずっと心待ちにしていた。いろいろ評価が分かれて、歴史ものでも描かれ方が千差万別な人物だが、「風雲児たち」では群を抜いて傑出した能力を持っていながらどこか不安定さを感じさせる人物として描かれており、みなもと太郎の手によって彼が「大政奉還」や「鳥羽伏見の戦い」でどのような描かれ方をするのか、想像するに楽しみにしてのだ。


 「風雲児たち」であまりに長く書いてしまったが、この作品のもうひとつの大きな特徴は、これだけの大著な歴史物でありながら、一貫してギャグマンガの体裁で描かれていることだろう。まぁあくまで"ギャグマンガの体裁"であってギャグマンガとして評価できるかというとそれは難しい。ギャグがあまりにもベタだし、時折吉本新喜劇のネタを引用することからも分かるように「ここは笑うところですよ」とわざわざ示しているようなのが多く、正直「風雲児たち」で笑った試しというのはほとんどない。しかしそれは重要ではない。重要なのは、本質的にどうしようもなくシリアスで息が詰まるようなシーンを、一見気楽に、かつその中に人物の本質を突くような洞察力でもって描写しているところだろう。

 印象に残ったシーンをひとつだけ。かなり最初の方、徳川家康臨終のシーンを引用させてもらう。
 家康「露と落ち 露と消えぬる我が身かな お江戸のことは夢のまた夢… 辞世じゃ」
 秀忠「それは豊臣秀吉の辞世ではありませんか」
 家康「わあっはっはっはっはっはっはっ、これでヤツのものはすべて奪ってやったわ~っ」
 そうして息を引き取る。戦国の最後の最後にすべてを手中にし、そのまま自分の子孫に未来永劫引き継ごうとさせる、その壮絶な人生をまざまざと感じさせる名シーンだった。


 そうして考えると、みなもと太郎氏は生涯一貫して「ギャグマンガしか描かなかった」作家だった。しかも、シリアスをギャグ化するのにその生涯を捧げているのだ。僕が氏のマンガに初めて出会ったのがいつなのか特定できないが、子供の頃からいつの間にかこの絵には馴染みがあった。出世作である「ホモホモ7」もどっかしらで読んだ憶えがあった。
 そしてこの「ホモホモ7」からして"シリアスをギャグ化する"姿勢は一貫している。書き出しはやたら線の多い劇画タッチで描かれ、そんな中で主人公で凄腕スパイであるホモホモ7が満を持して登場する。しかしその主人公だけが空白の多いギャグタッチなのである。これはもうさすがに笑った。それもツボに嵌まってゲラゲラとしばらく笑いが止まらないぐらい受けた。しかしすごいのは、こんなほとんど出落ちの一発ギャグ的な発想で、単行本2冊分まるまる持たせるだけの筆力だ。大分後になって復刻された「ホモホモ7」を改めて全部読み、なによりもその事に感服した。
 そしてその後、「風雲児たち」を書き始めるまでの作品を見ると、「ハムレット」「シラノ ド ベルジュラック」「レ ミゼラブル」といった西欧の名作を次々とギャグマンガ化していった。この頃、氏は自分の作風を確立していったと言っていい。なにせ、こんな誰もが知っているような名作をこんなおちゃらけて料理していって、しかも最後には感動させてしまうのだから。こんな才能、他にはない。なんだろう、誤解を恐れずに言えば、みなもと太郎は自分のギャグで必ずしも読者を笑わそうとしていない。ギャグタッチにすることによって、表現を柔らかく、かつシンプルに消化、さらに読むものをリラックスさせてその本質を理解しやすくする、そのためにギャグマンガの体裁を利用していたような気がするのだ。そして本当に決めたいところではシリアスに剛速球を投げ込む手腕も持ち合わせており、その絶妙な緩急のつけかたにより、より一層読む者の心に突き刺さるような呼吸を会得していた。
 そして1979年、こうした誰にも持ち得ないような"武器"をひっさげて「風雲児たち」の連載を始める。当初はこんな生涯をかけたライフワークになるだなんて思っていなかったかもしれないが、まさしく漫画史に残る空前の大作に成長させてしまった。江戸時代のことを知りたいのであれば、まず何よりも真っ先に読め!と推薦したい画期的な作品だ。残念ながら未完に終わってしまったが、この後の事は自分で調べて自由に想像の羽を広げてもらいたい、そのための種はしっかりと敷き詰めてある。

 生涯、ギャグとシリアスの狭間を自在に行き来して作品を残した唯一無二の作家、みなもと太郎。その偉大なる業績を仰ぎ見ながら、心から追悼の念を強くした。彼への思いはいくら書いてもあふれてきてとどまるところを知らない。僕もこの辺で筆を置くことにしよう。

アトヴミャーンの功績 ~ショスタコ万華鏡(2)

 レヴォン アトヴミャーン――その名に聞き覚えがある人は、よっぽどのショスタコマニアに限られるだろう。
 その名前はショスタコーヴィチの作品リストと眺めているとあちらこちらで目につくのだが、だがしかしこのアトヴミャーンという男、どういう人だったのかというとその情報がほとんど見つからないのだ。
 一応かろうじて分かる範囲を書くと、生没年が1901年~1973年というからショスタコーヴィチとほぼ同年代で、同じく作曲家だというが本人がどのような作品を書き残したとかそういうことは全く分からない。ショスタコーヴィチとの関係も、彼の子供であるガリーナとマキシムの聞き書き本である「わが父ショスタコーヴィチ」(音楽之友社刊)に数カ所その名が上がることから、ショスタコーヴィチ家にしばしば出入りしていた事が推測できるぐらいである。

 しかしそんなアトヴミャーンに、ショスタコーヴィチは数多くの自作の編曲を委ねてきた。もっとも目立つのは劇音楽・映画音楽の演奏会用組曲の編纂である。作品リストによると、その数はこれほどになる。

 劇付随音楽「ハムレット組曲 作品32a
 映画音楽「マクシーム三部作」組曲 作品50a
 映画音楽「ゾーヤ」組曲 作品64a 
 映画音楽「若き親衛隊」組曲 作品75a
 映画音楽「ピロゴーフ」組曲 作品76a
 映画音楽「ミチューリン」組曲 作品77a
 映画音楽「ベルリン陥落」組曲 作品82a
 映画音楽「ベリーンスキイ」組曲 作品85a
 映画音楽「忘れられない1919年」組曲 作品89a
 映画音楽「馬あぶ」組曲 作品97a
 映画音楽「五日五晩」組曲 作品111a
 映画音楽「ハムレット組曲 作品116a
 映画音楽「生涯のような1年」組曲 作品120a

 ショスタコーヴィチの生きた20世紀はもちろん映画産業が完全に定着した時代であり、それに伴い数多くの映画音楽が作られたが、いわゆるクラシックの大作曲家が音楽を担当した映画というのはそれほど多くない。もちろん武満徹のように自身が映画狂で、それ故に自ら進んで映画音楽に携わった例もないこともないが、そうした数少ない例外を除けば、ショスタコーヴィチが書いた映画音楽の数はクラシックの作曲家の中では多い方だろう。ただし必ずしも積極的に映画音楽を書いたかというとそうではない。特に第二次大戦後に起こった「ジダーノフ批判」の頃は、その作品がすべて演奏禁止状態になり、新作を書いても発表の場はない。つまりは作曲家としての収入の道は一時的に断たれてしまったのだ。
 そんな中、唯一「お目こぼし」になったのが映画音楽だった。ショスタコーヴィチは生計を立てるため、家族を守るために意に染まない映画(その中にはスターリンを美化し、賛美する国威高揚映画も含まれていた)の仕事でも引き受けざるを得なかった。気が乗らずに書き飛ばした作品もあったろう。だからだろうか、書き上げた映画音楽はほとんど顧みられることはなく、作品番号が振られているのに楽譜の保管もおざなりになっているものもあったようだ。
 なので、現在ショスタコーヴィチの映画音楽が彼が書いたそのままの形で全曲演奏されることはほとんどない。演奏されるのは主にアトヴミャーンによって演奏会用に編纂された組曲のみである。実際これらはコンサートにかけるにはちょうどいい規模を持っているのが多く、アトヴミャーンの仕事がなかったら現在これらの作品の演奏機会は皆無となっていたろう。ショスタコーヴィチの映画音楽は、アトヴミャーンの手によって現代まで生き残れた感がある。

 次にアトヴミャーンの仕事として重要なものとして、4曲にわたって編纂された「バレエ組曲」がある。これはショスタコーヴィチの既存のバレエ音楽・映画音楽・劇付随音楽からいろいろ取り出して編集したもので、この選曲にあたっては当初ショスタコーヴィチの意向も反映されているそうだが、最終的な構成・編曲はアトヴミャーンの仕事だった。
 そしてその取り出された原曲を俯瞰すると、あるひとつの傾向に気づく。ショスタコーヴィチの3番めの(そして最後の)バレエ「明るい小川」からの選曲が異様に目立つのだ。というか「明るい小川」がざっと半分以上を占めるほどで、その偏向ぶりは際立っている。
 一体これはどういうことなのか。推測だが、このバレエ組曲の編纂自体、「明るい小川」復権の意図があったのではないだろうか。

 「明るい小川」は不幸な作品である。20代にして世界的な名声を勝ち得たショスタコーヴィチだったが、その飛ぶ鳥を落とす勢いは30歳を目前にして急ブレーキをかけられる。まずはオペラ「ムツェンスク郡のマクベス夫人」に対し「音楽の代わりの荒唐無稽」が、次いでこのバレエ「明るい小川」が「バレエの偽善」という批判記事が立て続けにプラウダ(ソ連共産党機関誌)に掲載され、作曲活動に支障が出たのはもちろん、この2作品は無期限で上演禁止となってしまった。
 このうち前者に関しては、その音楽的充実(初期ショスタコーヴィチの最高傑作と言っても異を唱える人は少ないだろう)は別として、その前衛的な響きに加え、なにより舞台上であからさまな18禁な場面や殺人を繰り返す内容に、現在でも眉をひそめる人がいてもおかしくはない。だが後者の内容はというと、ある意味他愛もないもので毒もなく、音楽的にも前衛的な部分は影を潜め、明るく生気に満ちたギャロップ調の音楽が横溢している。正直今聴くと「こんな作品になんで文句言われなきゃならないの?」と理解に苦しむほどなのだ。実際批判記事は主にその舞台上の内容に向けられており、音楽そのものはさして批判の対象になっていないのだが、舞台にかけられない以上音楽も同時に封印されることは避けられなかった。
 ショスタコーヴィチもバレエ初演後、10年もの空白期間を置いて自ら「明るい小川」の演奏会用組曲を編んでいるのだが、その組曲は彼の他のバレエ組曲「黄金時代」と「ボルト」に比べて演奏機会が極端に少なく、録音もほとんどない。おそらくはショスタコーヴィチ自身、ほとぼりが冷めて作曲家として完全に復権したところを見計らって「明るい小川」を再度持ち出したのだろうが、おそらく「明るい小川」というタイトルがついている以上、それだけで敬遠されてしまったのではないだろうか。
 しかし音楽自体には罪がない。それで遂には「明るい小川」のタイトルを捨て、無色透明な「バレエ組曲」なる名の許、旧知のアトヴミャーンと結託してその大半を「明るい小川」からの曲で占めることによってその演奏機会を増やそうとしたのではないだろうか。名を捨てて実を取る作戦だ。この偏向ぶりを見ると、どうしてもそう思えてきてしまうのだ。

 実際このバレエ組曲ショスタコ作品のなかでそれなりの演奏機会を持つようになり、またそれによりショスタコーヴィチの認知においても特殊な効用があった。彼の主要作品である交響曲室内楽は総じて重苦しくシリアスな作品が多く、彼の写真がしかめっ面しているものが多いこともあって、どうも眉間に皺を寄せて聴かなくてはいけないようなイメージができあがってしまい、息が詰まると敬遠する人も出てくる心配がある。しかし特にその初期作品を聴けば、生来の彼は必ずしもそれだけではない、軽やかで気が利いて、生き生きとした音楽もたくさん書き残していることが分かるし、後年までその片鱗は消えなかった。それらの曲は現在必ずしも演奏機会に恵まれてはいないが、そんな中にあってこの「バレエ組曲」は彼のそうした面を伝える数少ない格好の題材となっている。

 同様に、アトヴミャーンはオーケストラ曲だけでなく小編成のアンサンブル曲でもショスタコーヴィチのこうした一面を伝える作品を残している。

 フルート・クラリネットとピアノのための4つのワルツ
 2本のヴァイオリンとピアノのための5つの小品

 これまたバレエ組曲同様映画音楽やバレエ音楽から選曲して小編成に編曲したもので、前者は他愛ないものに偏りすぎているかな、と思うが後者は抒情的なものから洒脱なもの、明るいギャロップまでバランスよく構成しており、ショスタコーヴィチの魅力の一端を効率よく伝える名編曲といっていいと思う。

 アトヴミャーンは他にも、残念ながら未聴なのだが、同様にバレエや映画音楽から抜粋・再構成して、「お嬢さんとならず者」なる一編のバレエを作り出しているらしい。いつか聴いてみたいものだ。

 最初に書いたようにアトヴミャーン本人に関する情報は少なく、オリジナルでどのような作品を書いたのか、どのような経緯でこれだけ大量にショスタコーヴィチ作品の編曲を司るようになったのか、ショスタコーヴィチ本人はアトヴミャーンの仕事をどのように評価していたのか、そういったことは一切分からない。もちろん認めてなければこれほどの量を任せなかったろうとは推察できるが、すべてにおいて素直には見れないソヴィエト社会のこと、断定はできない。
 なので実際のその編曲作品からしかアトヴミャーンを評価できないのだが、結果としてなかなか悪くない仕事をしていると思う。そのいくつかに関しては元々の原曲とアトヴミャーンの編曲を比較できるのだが、時として思い切りよく、しかもショスタコ作品として違和感のないアレンジをほどこしているのだ。一例を挙げると映画音楽の中でも特に演奏機会の多い「馬あぶ」に関してはアトヴミャーン編の組曲と、フィッツ=ジェラルドによる全曲復元版との両方を聴き比べることができるのだが、初めてフィッツ=ジェラルド版を耳にした時、聞き慣れた組曲版とはまるで違った印象を与えるので「これ、同じ曲?」とちょっと戸惑った。
(もちろんこちらもオリジナルではなくフィッツ=ジェラルドがどのような風に復元したかもはっきりしないので、その点が不確かなのだが) 例えば組曲版の第7曲「イントロダクション」は弦楽合奏の響きが印象的な曲だが、全曲復元盤を聴くとこのメロディがなかなか出てこない。ようやく18曲目の「ギター」で、なんとギターをつま弾いた曲としてこのメロディが現れるのだ。楽器の違いもあってその印象はがらりと変わっている。
 また、時には別々の曲を合わせてひとつにしているものもある。バレエ組曲第1番の第4曲「ポルカ」は「明るい小川」の第28曲に、中間部は第12曲のメロディを挿入して三部形式に組み上げている。原曲を参照できるものが限られているので検証はなかなか難しいが、アトヴミャーンの編曲は単にオーケストレーションにとどまらず、舞台音楽故の枝葉は適度に落とし、断片的なものは他と結合して、演奏会用作品として座りのいい形式に適度に作り替えているようなのだ。
 今挙げた2曲はさらに「2本のヴァイオリンとピアノのための5つの小品」の1曲目と5曲にも使われているが、聴き比べるとこちらはこちらでアンサンブル用に尺の部分も細部に手を入れていて、臨機応変に作り替えていることが見て取れる。その仕事ぶりはなかなか器用だ。

 こうした改変に、はたしてショスタコーヴィチ本人の意向が反映されているのか、それともアトヴミャーンがすべて取り仕切って行ったかが気になるところだがそれも分からない。でも結果として、アトヴミャーンがこれらの編曲作品を残してくれたことによって、ショスタコーヴィチの作品世界がシリアス一辺倒ではない、小粋で洒落た音楽もあるんだと拡がっていくのを感じる。アトヴミャーンの手によって生き残った一覧の作品により、そうした"重苦しくない"ショスタコ作品も演奏会で取り上げられやすいフォーマットになって多数残される結果になったのだ。

 アトヴミャーンの功績は以外と大きい。